ドイツつながり(その3)
ほとんどのことは書いてしまったけど、最初に書きたかったのはちょっと別のことで。
祖母たちは、戦争時代の人だから戦後に外国旅行することはしなかった。ただ、うちは祖父母の代で、戦争中の「外地」で暮らしていた人たちだ。母はいわゆる中国東北地方に満州という傀儡政権を立てて日本政府が(ほぼ)統治してたところで、最初は鉄道の職員として勤務、その後自営業を営んだ。日本人が日本語で街や学校を作っていたので、外地とはいえ、言葉は全部日本語だった。それでも、街には馬車が走り、家はセントラルヒーティング(地下のボイラーをたいて)など日本の国内とはだいぶ違う。
父方の祖父は銀行員で、いわゆる「大東和共栄圏」の各地の現地法人を転々としていた。最初は横浜だったがその後、上海(ここで父は生まれている)マニラ (幼稚園か小学校時代)、祖父だけが単身でモンゴルか内モンゴルか、その後、中学ぐらいは日本で、また満州の長春(当時、新京と呼んだ)。数年だが父と母は長春で被っている。
祖父の方はどちらも、外地で戦後を待たずに死んでいる。母はいわゆる引揚者だったが、天性の明るさとおおらかさで生き延びていった。そんな両親は私なんかより数倍インターナショナルな雰囲気があった。英語ができるとかそういう意味ではなくて。母はだからドイツに来ても一人でどこにでもいったし、以前、東京の家の近所に住んでいたドイツ人のご婦人と交友があって、彼女の療養先である東フリーセン諸島の島まで(一人で)いったこともある。
それでも最後は、なんとなく行動が不安になっていた。
自分もいつまで日本とドイツの間を行ったり来たりできるのだろうか。最後に飛行機に(10時間以上)乗れなくなった時いる場所に止まるのだろう。
そうでなくても、すぐに日本に行くことはできない。だから、日本滞在中にはできるだけいろんな方に会うようにしている。若い方であっても、その一回きりでもう会えないこともある。ネットでは繋がっていたとしても、
だから、いつでも、あっているときはこの一回きりなのだと思っている。別れる時は、これが最後かもしれないと思う。あまりに使い古されていて好きじゃないのだけど、まさに一期一会なのだと思う。
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