AI技術は人を救えるか
OpenAI社のChatGPTがリリースされてから1年が経とうとしている.この1年間の間にAI議論について多くの場所で行われてきた.AIに関して懐疑的な意見をもつ者や先進的な意見をもつ者、あまり関心がない者など多くがAIについて様々な視点を持ち意見を拡大させている.正にAIブームの3波の真っ只中だ.
AIについて世界から注目を集めたのは今から70年も前のことだ.1956年にダートマス会議と呼ばれるジョン・マッカーシーなどの科学者らによるブレインストーミングの場で初めて「人工知能」という言葉が使われたのが始まりだった.
最初の人工知能は何も実際の機械が存在したわけでもなければ技術があったわけではなかった.やはり提唱だけの技術では一時的な活況を起こせても直ぐに冷めてしまう.
その後1980年代にエキスパートシステムと呼ばれる特定分野に特化したシステムが提唱し始める.これによって特定分野(数字を扱う効率化分野)での活躍が見込まれた.しかし実際には人工知能の必要とする膨大なエネルギーと情報量に耐えられず直ぐに冷めてしまった.
人工知能に関するブームは2回あったものの直ぐに冷めてしまっていた.しかし2000年代に入ってきて人工知能に関する見方が大きく変わった.AIを支える分野(ナノテクノロジー)の大きな技術進歩が起こったのだ.
日本でもノーベル物理学賞受賞者らによる研究が進められナノ分野のでハードシステムの開発が進んでいったのだ.2001年にはアメリカでNNI(National Nanotechnology Initiative)と呼ばれるナノ分野に関する国家政策が打ち出され、ブッシュ元大統領は「アメリカの国立図書館に貯蔵されている本を小さなキューブの中に収納する」と言いアメリカがナノ分野に大きなベクトルを向けたことが世界に認知されるようになった.
ナノ分野に大きなベクトルを向けたのは日本やアメリカだけではなかった.ヨーロッパでもヨーロッパの文化を尊重した上でのナノ分野の開発や中国では保有する莫大な人口を利用した大規模な研究が進められていった.
これによりAIに関するハード面での基盤が徐々に堅められAIシステムは徐々に確かなモノになっていった.そして2022年の10月にOpenAI社がChatGPTと呼ばれる人工知能を搭載した会話システムを開発し実際にAI利用が一般人にまで浸透してきた.
AIは2度の冬を超え今、芽を咲かしたように思われる.人工知能を神格化し崇拝しようとしている一部の人間が存在すれば人工知能は人間を滅ぼす可能性のある危険な存在だと距離を置く者もいるようで、人工知能への接し方は人それぞれに感じる.
しかしAIに関して言うと「期待しない気持ち」が重要であるとここで提唱しておきたい.AIはコンピュータに毛が生えた程度の存在.新作のAIが登場した.という認識が今の社会では1番良い距離感であることをここで言いたい.
AIは別に人間の代わりを務められるわけではない.そしてベーシックインカムのような制度を導入した時の代償は大きい.AIに大きな期待を寄せている人が多いように感じるが実際はAI自体には何も価値は存在しない.AIを開発するのは人間であり、利用するのは人間である.「イーグル・アイ」のような世界線が起こるのは難しい.もちろん悪用すれば懸念は払拭できないが厳重な管理を行えば懸念は出てこない.
もう一度AIについて考え直し、AIとの距離感を考え直す機会を今回作ってみようと思う.
AIは人間の代替はできない
「AIが台頭して人間は必要なくなる」こんな話は最近よく聞くようになった.彼らの言い分を聞くとAIは知能的な部分で人間を超越し、人間よりも賢くなるからAIが人間の代わりになるというのだ.
しかしそれは今の社会構造の中で効率化を行うことによって生じる話であり人間の代わりではない.
例えば18世紀後半にイギリスで産業革命が起きた.蒸気機関と呼ばれるシステムを開発し、産業が効率化、コモディティ化していった.
その時に労働者を中心として機械反対運動が勃発した.それが「ラッダイト運動」である.このラッダイト運動は21世紀の労働者階級のAI反対思想と似ている.
生産のプロセスにおいて人の介する部分を減らし、人の代わりに機械を導入することによって労働階級の人々の仕事が失われると心配したことによって始まった運動である.実際には職を失った労働階級の人々は多くいたが徐々に機械をメンテナンスする職など機械の導入による新しい職に就き何百年間も反対するようなことは起こらなかった.
これは正に今の社会を示している.生産というプロセスの間に機械、人工知能を導入することによって今まで脳を使ってきた人々(労働階級の人)の仕事が失われることへの不安だ.
この問題に関してはラッダイト運動と同じように心理的なサポートが必要になる.
ただし心理的なサポートであり、実際の社会では効率化され、物事のプロセスがより高速により低コストで実現することが増える.
今まではコストの面でベネフィットの少なかった産業分野や事業がAIの導入によって実現するかもしれない.社会からはあまり必要とされていないニッチな部分が強化され効率化によって出現するユニークさが出現するかもしれない.
AIは何を変えるのか.という題名において必要なのはAIが可能にできるのは自然言語処理と呼ばれるデータを基にした発現であること.それは物事の効率化やアイデア出しに特化しており、人間の脳処理の部分に非常に近い存在であることが言える.
ではAIが人間の需要を無くすのか.それは絶対にない話だ.
まず前提がおかしい.人間の需要とはなんだろうか.人間はAIとは全く違う存在であって人間とAIの間には大きな隔たりがあることを忘れてはいけない.
確かに今の産業分野でAIが人間の代替を行えるかもしれない.しかしそれはAIの自然言語処理であり、人間の脳部分である.つまり身体動作を行える人間には到底及ばない.人の思考は脳だけで行われると思い込んでいる人がいるがそうではない.
脳と行動を共に進められない人たち
人間というのは脳と身体を使うことによって学習しているのだ.例えば赤ちゃんはハイハイ歩きを覚えるのに約1年かかると言われている.それは脳がハイハイをするためにはまず体を起こし、手を前後に動かすことによって前に進めるという情報を脳で処理できているからだ.それには当然身体が必要になる.
昔、養老孟司氏が文武両道に関して述べていたが、文武両道というのは脳と身体性が分割しているものではない.勉強ができる、スポーツができるというわけではないのだ.スポーツをするのには勉強が必要であり勉強ができるのにはスポーツが必要なのは相互関係が成立しているのだ.
養老氏はそこを指摘していた.最近の人は知の部分と行の部分が分けられてしまい、脳でしか考えられない人が増えた.つまり脳化した社会が出来上がってしまったと述べていた.
私もここには大変同意できる部分を感じられる.脳でしか考えないから行動が伴わない、要は答えが全て存在するとして答えがない問題に対して排外的になっている部分を感じられるからだ.
それを理解できるのが学校の授業ではないだろうか.座学を中心とする授業では常に先生が教壇に立ち答えを私たちに教えている.数学や科学の授業が正にそれだ.そのため生徒は常に答えが存在すると勘違いしてしまう.要は判明している事実にしか目を向けないということだ.
野球をした時にバットの振り方を教えられるとしよう.君は全くの初心者でバットの持ち方からボールの持ち方まで全てを教えられる.すると君はバットにボールを当てられ相手のミットにストライクを投げられるようになるだろうか.
そうではないはずだ.野球に必要なのは練習と経験であり、脳だけで処理された情報で初心者が急に“野球“ができるようになるはずはないのだ.練習する内に自分でしか表現できない最大限のパフォーマンスを発揮できるフォームが見つかるかもしれない.
しかし今の人たちは行動と知見を共に進めようとしない.知見だけで何かできるようになってしまっている.常に答えは存在し教えられればできると思っている.本当は経験が必要なのにも関わらずだ.
人間というのは今まで脳の情報の部分、知見と行動を行うことによって得られる経験によって人間という生活を営んできた.しかし今は全てが脳によって組み立てられた社会になった.毎朝会社に通勤して脳をフルに動かして退勤して家に帰って寝る.これは人間の生活としては正しくない生活である.
しかし今後は産後業にホワイトカラー職にAIが代替されると考えられている.これは人間の行動を取り戻すという点では大変嬉しい未来である.脳でしか考えなくなった人間を代替して人間は本来の文武両道の世界を取り戻す.今はその分岐点にいるのではないだろうか.
見える世界ではAIも人間も同じになる
AIと人間の間には大きな隔たりがあると述べたが、これは科学的な根拠と言った方が語弊がないかもしれない.人間とAIは全く違う.これは正しい.しかし訪れる世界では見えるのは人間社会になる.AIの社会は存在しない.
見えるのは人間だけとなるかもしれないのだ.
今AIと聞けばトップに来るのがBingやChatGPTと呼ばれる対話型AIになると思う.これらはディープラーニングによってブッラクボックス化された情報を我々に届けることで人間の脳処理に近い神経系を模したモデルによって確立されたシステムである.
人間の脳をパクって作り出した人工物.という表現が1番理解しやすいかもしれない.要はAIの脳内処理は人間に似ているのだ.だから対話が可能になる.
実際に人間も歳をとっていくにつれて知っている語群は増えていくだろう.10歳の子供と40歳の大人が対話を行っても語数の部分で障壁ができうまくコミュニケーションができない.それは人間の情報の数が歳をとるにつれて経験によって蓄積されていくからだ.
AIは行動によって情報が蓄積はされないが今までの人間が営んできた生活の情報を極端なスピードで処理を行いインプットすることが可能なシステムだ.例えば君に憧れている人がいたとしよう.君はその人の言動や行動が好きだ.だからその人を真似るようになる.その人の仕草であったり喋り方だったり特徴を真似ようとする.服装だったり髪型も真似るかもしれない.
しかし外部から見てその人に似ているなと感じるには数ヶ月、あるいは数年かかるだろう.しかしAIであれば数日、数時間でその人に似ているAIを作りだすことができる.
インターネット上に存在するその人の情報であったり、動画を基に膨大なデータを処理し表現することができるからだ.この点が人間とは違うの脳の処理部分での差と言える.
このAIの処理能力の圧倒的な高さが人間だけの社会を実現するのに寄与することになるだろう.
そこにもう一つの要件が追加される.それは「質量」である.今我々は重力の存在する世界で生活をしている.しかしAIは人間の脳に似ているとは言えその実態は見えない.(スーパーコンピュータであれば見れるが)
だからまだ今は人間とAIには隔たりがあると実感できる.「イーグル・アイ」の世界も実態は存在しないAIが人間に指示を行うことで人間側がAIの野望を実現するような構造だった.そのため傍観者である私たちは「AIが悪い」と常識的に理解できた.
しかし今後の社会ではクローン技術によって人間の身体(ハードウェア)が作られ、AIの膨大な処理を搭載した超人人間が実現するかもしれない.
もう少し詳しく説明するとナノテクノロジーのボトムアップによってつくられるサイボーグ人間だ.2000年代に少し流行したナノテクノロジーという言葉.その名の通りナノレベルという極小の世界でつくられる技術だ.応用例としてカーボンナノチューブやピンポイントドラックデリバリーと呼ばれる技術が存在するが、これらが我々の社会に浸透すれば車の安全性は大幅に向上し、大体の病気は薬の投与によって治るようになる.
ドレクスラーのボトムアップ技術が提唱され全てのものは基となる原子を入れることによって生成されると言われている.要は原子レベルから人間をボトムアップで作り出し、AIの膨大な処理にも対応できる存在を作りだせば、超人類が完成し、外見上では人間と全く同じに見えるが、中は全く人間とは違う.そんな時代が来るかもしれない.そうなればAIと人間は完全に違うものと理論上は言えても存在は見分けがつかず共生するかもしれないのだ.
見える世界では人間だけの世界.アーサー・C・ケラーの「幼年期の終わり」のような構造は起こらずとも世界は徐々に超人類に蝕まれる.そんな世界線もあり得るのだ.
人間の持つ共感性とは
人は常に集団で生活を行ってきた.それは人間という種族が誕生してから一度も変化しなかった事実である.日本に渡来してきた人々もダンバーズナンバーの集団で生活を行い日々狩猟生活に励んでいた.
その集団生活の中で人は喜びを共有し、怒りを共有し、感動を共有してきた.常に集団の中で五感を共有し時間を共有してきた.これは多種族とはできない人間だけで行うことのできる技術だ.
これを虎としようが猫としようが共感できている事実は存在できない.例え言語が同じAIだとしてもだ.
相手が共感する行為、というのは相手の五感に働き脳に働くことである.それは一方的なモノではない.相手と自分が共有できた時点での結果が必要である.享受する側の話であれば、無意識的な感動も存在する.
例えば野球選手がホームランを打ったとしよう.すると君は敵チームだろう感動する「すげぇ」と思うだろう.敵チームで「くそぉ」と思ってもそれは時間の共有の中で行われている感動だ.
しかしだ.享受する場合でもホームランを打った場合にでも感動できない場合がある.それがAIである.今はまだ感動できる範囲にいるかもしれない.例えば「〇〇ができるようになった」のような今まで人間しか行えなかった行為を他の存在が行えた場合に初めての場合に感動することができるからだ.もしAIを搭載した政治家AIが総理大臣になれば多くの場所で感動が起こるはずだ.
しかし共感の文化においては全くその感動は共有できない.例えば将棋AIが天才騎士を破ったとしよう.しかしそれに感動できるだろうか.できないはずだ.それはAIが圧倒的な処理能力によって数時間で何万局も行えるからで人間を遥かに超越しているからだ.要は文化のフィールドから一脱している存在というわけだ.
2016年に囲碁で当時魔王とも呼ばれた天才騎士「イ・セドル」という人物が囲碁AIの「Alpha Go」に敗れるということがあった.当時の新聞記者はついに人間がAIに負ける時が来たとこぞって新聞の表面をAIに塗りつぶした.しかし未だに囲碁を行う人は廃れていない.
プロになりたいという人も少なくないはずだ.魔王と呼ばれる天才が圧倒的な負けの事実をAIが作っておきながら囲碁界が廃れないのはAIは囲碁という人間共有のフィールドから一脱した存在でいるからである.
別に不思議な話ではない.例えば世界陸上を見てみよう.世界陸上で出場できるのは勿論人間である.しかし考えて見て欲しい.現代の社会で本気で走って100mを10秒切れることが必要だろうか.
車であれば0ー100で2秒を切れるような世界だ.人間は絶対に勝ことはできない.しかし現代では必要でもない100mを10秒切れるような人が世界中から注目される.それは人が走り感動を共有してくれることに価値を感じられているからだ.
人は常に人と感動を共有し相互関係を築いてきた.そこにAIが入り込むのは不可能だし、入り込んだ瞬間人間を辞めたと言っても過言ではないだろう.
多分人間の身体拡張といい、脳の演算能力や記憶力が拡張された人間を一般の自然の人間は愛せないだろうし、感動の共有対象にはならないだろう.
私はこの人間の持つ感動の共有性というのが今後の社会で1番重要なテーマになると思っている.
我々はAIに代替され仕事を失い絶望に突き落とされると思い込んでしまっている.そんなことはない、実際には人間は本来の他人との感動の共有常に行っていける存在に回帰するというのが正しい認識だ.今まで伸ばし作業プロセスを大きく効率化し、人間は人間の間で感動できる.それはテックの文化的な部分でもあるし、古来の文化の育みにもなる.
そこが今後の人間のあるべき姿になると言える.
AIが何かを行える、AIが社会を変えるウソ
最終章ではAI技術が人を救えるのか?というテーマの答えを考えていこうと思う.
まず、AIは人間を救えるのか、はっきり言おう「無理だ」.しかし断言できるのは精神的な面でのケアは可能だということだ.自分の最愛の人物を亡くしてしまった、そのためにAIを搭載した擬似人物を作り出しソフトウェアの中で存在し続ける.VRゴーグルなどのメディウムを使うことで会えるというようなAIの搭載のソフトウェアでは救えるかもしれない.
だがAIだけでは無理である.私は今のAI流行を包括する存在があると思っている.それが「ナノテクノロジー」だ.AIの話と少しかけ離れているかもしれないがAI技術というのはナノテクノロジーの中の話なのだ.
例えば人を救うという話が出て来た時に「医療」という言葉を考えてみるといい.
近年は驚異的なスピードで薬の開発が行われ、数十年後、もしかしたら数年後には癌はただの軽い病気レベルまで人間の体は守られていくかもしれない.
その技術開発分野にAIが搭載されることで更なる飛躍が期待できるという話もあるくらいだ.
しかし事実は違う.本当に人間の体を治すことができるのは医療薬の他ならない.癌を治してくれるのはAIではなく「ピンポイントドラックデリバリー」という技術だ.この話は全ての産業にも当てはめることができるだろう.技術革新が進みその助けとなるのがAIであってAIが解決の根本にはいない.常にナノテクノロジーと呼ばれるナノレベルでの技術が救うということを理解してほしい.
車の耐久性を上げるという目標があったとしよう.その目標をクリアする中でAIの膨大な情報処理が答えを見つけてくれるだろう.そしてその論を実現するのがナノテクノロジーなのだ.車の耐久性で言えば「カーボンナノチューブ」と呼ばれる六角形のナノテクノロジーになるだろう.
私が最後の章で伝えたいのはAIが世界を変えるのではなく、世界は技術によって変わるという事実である.常にAIを持ち上げる話を聞くのは少なくない.しかしAIは何も変えてくれない提案してくれるだけだ.それを実現させ、人間の可能性を最大限まで引き延ばせるのはロボットか人間になる.常に議論はAIではなく技術に向けるべきなのだ.
「AIがすごいのではない」ぜひ理解してほしい.