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美術館を歩く

Thank you for a beautiful sound art exhibition. “Listening to Silence” was the perfect art antidote to ease us out of our COVID pause.Well done!!

SNSである展覧会に寄せられた言葉なのだが、何とも美しい文章ではないだろうか、

この文章は様々な捉え方ができる。「コロナ禍とういう閉塞空間において解き放つ美術作品」が起爆剤となって新しい価値を生み出し始める。

全世界の人々が閉塞空間という同じ体験をしたことで文章に共鳴が生まれた。

作品において評価は共鳴したときに現れる。作品に対するコンテクストに対する共鳴、作品を見た同士の共鳴、自分の中の価値観と繋がった時の共鳴、個々の五感がそれを行う。

要は読み手のレベルが問われるというのが美術である。

観客が作者のコンテクストを読み取り自分の言葉にしていく作業をリアルタイムで遂行していく、かなり労力を使うことになる。

作品は全部見るべきなのか

大巻伸嗣《Liminal Air Space—Time 真空のゆらぎ》
→空間を最大限まで利用し光によって物体の認知を可能にしている。

美術館に住んでいる仙人が答えるならばyesという返事が返ってきそうである。

巷で紹介されるオススメ本を買ってみても全く自分の肌とは合わない作品があるように美術作品に関してもアレルギー反応を起こす人はいるはず、

実際の僕も現代アートと称して斬新なパフォーマンスだったり作者の過去の作品を辿っていかないと分からない作品は苦手である。

そこに重大なメッセージが隠されているのかもしれないが、バケツの中に砂を入れ、それを重ねて倒すといった美術作品には想像が及ばない。

キュービズムのように存在する概念を解体し、新たに部品を繋げて表現する作品に感銘を受ける人もいれば全くの理解も及ばず消化不良で終わる人もいる。

結局は視る人を試されているわけである。「お前は俺の作品がわかるか」と、

しかし、美術作品に対する姿勢は重要だと思っている。

何も前面から否定するのではなく「メッセージはどこにあるのか」と模索するべきである。

例えば現在(現在2025年1月14日)、開催されている坂本龍一『音を視る 時を聴く』の展覧会でも最初の3つのディスプレイによる映像作品は夏目漱石の『夢十夜』を知らなければ面白さは半減してしまう。

作品に秘められたコンテクストは観客の教養と作品の共鳴が起こって初めて素晴らしいと認識できるようになる。

落合陽一氏の著書『忘れる読書』(取り上げられているが実際には『0才から100才まで学び続けなければならない時代を生きる』の一節で紹介)の中の一節に

(アートを鑑賞する時は)自分の知識やコンテクストと照らし合わせながら、その作品を見たときにどう感じたかを言葉で説明できることが大事

落合陽一『忘れる読書』より抜粋

視る側も作品に対して十分な教養があれば理解できる時がある。その時の感動を体験するには事事無碍法界の意識が問われる。

我々の評価する印象派とは

クロード・モネ『モネ 睡蓮の時』
→パリ、マルモッタン・モネ美術館の収蔵品を含めた64作品の大展覧会

今では全世界でオーソリティの代名詞かのようになった印象派の画家たちはかつては蛮人の扱いを受け美術作品を世の人々に見せることを制限されていた。

当時のサロン(展覧会)はアカデミック作品を優遇する傾向にあった、そのため当時の美術学校「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(Accademia delle Arti del Disegno)」では芸術の他に物理や数学といった幾何学に関する学問も追求していた。

そのアカデミック作品が必要とするのは正しい画法と美しい直線や平面、そして決められた構造が基となり神話や当時の王家を讃える作品が描かれていく。

エロティシズムに関する美術作品においても正しいエロティシズムを追求する。

そのため視る側にとって美術作品は文学作品のようにコンテクストを必要とし初見では作品に秘められたメッセージに気づくのは困難である。

ギュスターヴ・クールベ『罠にかかった狐』(国立西洋美術館)
→印象派の前身となる写実主義の作品

当時のアカデミック作品の権威であったジェロームの作品『ピグマリオンとガラテア』は正しいエロティシズムで描かれ神話に基づく男女の交わりには神聖であり高貴だが情熱や視る側の認識するメッセージは辞書のように冷めている。

当時の神話に基づく作品制作の他に写実主義がアカデミーでは流行していた。ギュスターブ・クールベの『罠にかかった狐』は時代背景と写実主義の忠実な遠近法が描かれている。

当時は狩猟用として常用されていたベアートラップだが、今では物珍しさまで感じる過去の産物。絵画の中の狐は雪に覆われた中で最期の力を振り絞って吠えているように見える。雪解けの季節に外に出て食料を探していたのだろうか、、、

この絵画から伝わってくる生きようとする執着心と半ば諦めているような孤独感は写実主義ならではのメッセージが込められている。

クロード・モネ『睡蓮、柳の反映』
→1916年の作成された大作、全貌は写真でしか残っていない幻の作品

その後アカデミー作品を批判する形で登場したのが印象派である。

印象派はサロンでの展示はアカデミーの権威によって制限されていた。印象派の自由な描写、色彩は評価されるどころか評論家たちは低俗な作品として嘲笑するオチだった。

しかし、印象派の画家たちは地方の展示会で徐々に成功し支持を集めていく。アカデミーの権威には及ばなかったものの世間からは正しい評価を得られるようになっていた。

当時の地方には美術作品どころか美術に触れることもないまま人生を終わる人が一般だった。当時の人々にとってアカデミー作品の明確な時代背景と神話のストーリーは理解に苦しむものであったし、その知識を得られるほどの自由やお金も持っていなかった。

そのため「美術作品=ブルジョワジー」のイメージが定着していた。

印象派の人々は「皆の美術」を目指していた。美術作品の敷居を低くすることに尽力し、その中で自分たちの哲学やイデオロギーといった作者のメッセージを強くしていった。まさに美術界の革命であった。

その後20世紀になるとアメリカンドリームが巻き起こる。当時のアメリカの美術作品の憧れは長い時間をかけて熟成されたヨーロッパ美術に関心が向けられていた。
するとヨーロッパ各地からアメリカに美術品が輸入され印象派の作品は高額で取引されるようになる。全世界で印象派の作品が認知され評価されるようになったのはこの時代からである。

その中で評価される印象派を半ば再評価し逆輸入していくヨーロッパは遅れをとり、全世界にモネの作品が並び今でも高額で取引される。

かつては「プロレタリアートたちの楽しめる美術作品」が今では「ブルジョワジーの資産」として投資目的の産物となってしまった。これが本当に印象派の画家が望んだ結果なのか、、、

美術館で写真は撮るべきなのか

坂本龍一 + 高谷史郎<LIFE-fluid,invisivle,inaudible…>

多くの展覧会において写真の撮れる場所と撮れない場所は事前に説明される。写真の撮れない場所はその場で絵画に対して評論するからしかないのだが、写真が撮れる場所ならば僕は自宅に戻ってから作品の表情をじっくり考えることにしている。

中には美術館で写真を撮るべきではない、といった事をいう人もいる。その人たちの主張は写真に気を取られて作品を見ていないのではないか、といったものが多い。

確かに一理あるような気がする。カメラを構えてしまうと画角、光の角度、背景など最高の一枚にしたい思いが出てきて作品を真正面から見ていないのかもしれない、

だが、その時の感動は写真の中で一生残り続ける。そして何度も作品に関して再考できる楽しみがある。

僕の持論で言うならば作品の前でポーズを決めて撮った写真をSNSに挙げるような作品を広告塔のように扱うのは些か疑問である。

作品を自分のライフスタイルのエレメントかのように尊敬のない扱い方には悲しくなる。

その上で写真は沢山撮って沢山フォルダに残した方が楽しいはずであり、折角だから時代の道具を使いこなしたい。

美術館の役割

国立西洋美術館 / ル・コルビュジエ設計

美術作品を展示する美術館という存在、その存在意義を考えてみると議論せずにはいられない。

まず、美術館の存在は美術品の収蔵場所という命を受けている。また、それ以上に作品を引き立て美術館の存在が人々の知のコミュニティになるようなものでなければならない。

国立西洋美術館は大きなピロティから出入り口を認識させない不明瞭な建物と外の空間を作り出している。建物の存在そのものが際犠牲のように人々のコミュニティとして成り立っている。

国立西洋美術館内の照明と美術作品の役割

美術品の魅力を引き出すための美術館の役割は大きい。国立西洋美術館は天井の明るさと地面の影が対照的な作りになっている。美術作品は軒下に隠れるように展示されているため天井からの光が直接当たることはない。

まるでギリシャ神話の絵画を見ているかのような構図である。アトリビュートではなく光と影に込められるメッセージがあるのではないだろうか、

国立西洋美術館、照明の光と影が明確に表現される
東京都現代美術館の広々としたピロティ

東京都現代美術館の広々とした通りは人々のコミュニティとしての役割がある。待合場所としての役割以上に美術作品の評論、哲学的な談話の会場のようなエレメントである。

アゴラとしての美術館

東京国立近代美術館『ガウディとサグラダ・ファミリア展』
→マリアの塔の星デザイン

展覧会に行くと作品の前で持論を展開して話す人たちがいる。僕はこの時に作品としての価値が生まれているのかと感心したくなる。

特にモネやルノワールの作品は視る側の想像力を刺激してくる。例えばモネの『印象・日の出』は朝なのか夕暮れか分からない。

作品を見ながら

「ここが陰になってるから朝だ」
「いや、この明るさは夕暮れじゃないか」

贅沢な時間である。
僕は美術館は1人で見て最後にまた集合するのいいがアカデミックな作品以外は作品の前で議論するのもいいと思う。

場を弁える事は勿論だがアゴラとして井戸端会議をするべきである。自分の中で完結するだけでなく自分の感じたコンテクストを相手に言葉にして伝え合うことで新しい目線で価値を熟成させることができるのではないだろうか。

最後に伝えたいこと

坂本龍一 with 高谷史郎<IS YOUR TIME>

近年、美術館ブームが再燃している。美術館に対する価値観が大きく変わった事でZ世代を中心にブームが起こっている。

以前までは美術館で写真を撮る事はタブーだったが一部を除いて撮影可能な場所が設けられた事で美術作品の消費メカニズムを作ることに成功した。

消費される美術関しては是非の議論が展開されるが、多くの人が美術館に足を運ぶ事で美術作品の保存費用や修繕費、他の美術館からの輸送費用を賄うことができる。

毎年のように展覧会が開かれるクロード・モネは美術作品の消費のモデルなのかもしれない。

それによって初めて美術館に行ってみる。SNSで見たから美術に興味が出た、という声が増えていけばいいと思う。
観客が増えていけば本当の印象派の画家たちの目指した世界があるのではないだろうか。

このnoteを見て美術館に少しでも行ってみたいと思う人が増えることを願っています。ここまでご拝読いただきありがとうございました。

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