目の中のうさぎ
人と会話する
人間が生きていく上で会話は自分の財産である.財産を解釈するとまどろっこしいが、自分の身の回りから会話が消えた時を想像すれば価値は自然と見出せてくる.
世間では人と会話することへ抵抗を感じてしまう若者が増えているらしい.しかし、その声は会話から生まれている.他人がその人の特徴を見極めてわざわざ「あの人は会話に抵抗を感じているな」なんて言ってくれるわけがない.それはSNSかインターネットのアンケートに答えた結果に他ならない.
世の中に会話をしない人は存在しない.800年前のローマ帝国にフリードリヒ2世という皇帝がいた.彼は史上最悪の実験をしたことで知られているが、それが“言葉を教わらない赤ちゃんは将来何を話すのか”だった.
実際に生まれたての50人の赤ちゃんを対象に生活最低限(食事、風呂、トイレ)の世話だけを行い、愛情表現やコミュニケーションの一切を全て禁止する実験を行った.結果は赤ちゃん全員が死にいってしまったのである.
人は会話を行わなければ生きていけないひ弱な存在である.世の中にいる会話への抵抗を感じている多くは他人から愛情を注がれてきた.
ここまで“会話“という単語を使ってきたが、会話を言葉のキャッチボールと捉える人もいる.僕はそうではなく、会話は自分の音の表現方法だと思っている.自分を他人に主張するのが会話なのだ.
人には一人一人に音が存在する.その音は人によって感じた方は変わってくる.Aくんの音はいいけどBくんの音は嫌い.でもCさんから見たAくんの音は嫌いかもしれない.それが音であり、会話の草の根になっている.
大阪弁は存在するが、大阪弁は区切りであって、人によって大阪弁の話す人の印象は変化する.それはその人の持つ哲学や性格が音で表現されているからである.
僕の言う音は和音のシのフラットでも雨の音でもない.
朝たまたま遭遇した人から発せられる「おはよう」の音である.この音がなんとも素晴らしく、美しい.ここには物理的な会話は存在しない.空気の会話と言うべきかの表情のある会話が存在する.
「おはよう」と言われて気分を悪くする人がいないように会話はちゃんと存在しているのである.言葉を返さなくても相手にはきちんと伝わっている.その人の音を受け取れているのである.