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万博と人々の意匠

2025年2月2日、ついにexpo2025の開催まで60日を迎えた。
しかし未だ完成されない万博会場の建設、2度にわたる建設費の増額騒動によって地元住民のみならず日本国民の不安が募っている。

大阪府大阪市此花区の人工島に建設される万博会場は今後の日本を明るくする幕開けとなるのか、それともドイツが大失敗に終わったハノーヴァー万博の二の舞になってしまうのか。

大阪万博を巡る議論は様々な分野で繰り広げられている。
経済のみならず建築家や政治にも議論を及ぼし万博という国家事業が如何に政治性を孕んだプロジェクトであるか露呈していく。

足手纏いの夢洲地区

万博の建設にあたって重要視されたのが建設地区の選定である。当初、建設予定地には1970年の万博会場や鶴見緑地といった現在も地元住民に愛される場所が挙げられていた。その中で急に案として出てきたのが「夢洲」だった。

夢洲は約390haの土地を持つ埋立地である。
1970年代の日本はアメリカ経済を凌ぐほどの経済圏を築き、国内産業や万博を利用した公共施設の整備プロジェクトが一斉に行われていた。

そこで問題になったのが廃棄物の処理である。そして廃棄物の処理場として夢洲の開発が1977年から始まる。
当時は夢洲を4区に分け、その中で様々な産業廃棄物が捨てられていた。中には公害問題で使用が禁止されたPCB(ポリ塩化ビフェニール)も含まれていたという。
現在も西側には処分場と大規模太陽光発電(メガソーラー)が設置され、東側にはコンテナのターミナルとして利用されている。
実は利用価値として十分発揮している土地なのである。

しかし大阪維新の橋本徹氏は在任中、夢洲地区を「負の遺産」と位置付け煙たい存在として演出させてきた。それは松井氏も同様の認識であり、夢洲地区の再開発を巡る議論は何度も行われ、万博の開催と同時にIR計画の建設予定地としての利用も決められていく。

IR計画は2025年の万博開催から5年後の2030年には夢洲に巨大エンターテインメント施設が建設される予定で進められている。
国内外問わずの訪問者による1兆1,400億円の経済波及効果が期待される。

要は維新は「夢洲」という土地を「負の遺産」レッテルを貼りながら「大阪万博」「IR計画」を立てることで新しい経済圏、土地開発したい意向があるのだ。

しかし夢洲という人工島には致命的な欠点がある。

それがアクセスの悪さだ。

夢洲は「舞洲」と「咲洲」という2つの人工島と繋がった先に位置する。そのため夢洲へのアクセスは必ずどちらかの島を経由する必要がある。
それが舞洲からの「夢舞大橋」咲洲から「夢咲トンネル」の2つだけである。

来場者2820万人を予定し、一日15.5万人の人々が夢洲に集まるというのにアクセスは2本の道路のみ。USJの来場者数は1日平均3.5万人程度というのだから道路渋滞は否めない。
近隣の駅からのシャトルバスが設置される予定ではあるが15.5万人もの人々を運ぶキャパはあるはずもない。
さらには連絡道路が2つというのは緊急事態発生時の避難経路として機能しないことを示す。

万が一、大規模な地震が発生した際、人々は夢洲の中に取り残されることになる。さらに、万博会場の中に避難所の設置は予定されていないので被災者は何処で安全を確保すればいいのか全くわからない状況である。

夢洲というアクセスの悪い人工島を会場に指定し避難設備もままならず、連絡道路の建設も金銭的な面から断念している。
維新は夢洲を「負の遺産」と呼ぶが、その利用価値は十分に存在する。やはり維新の夢洲開発の意向がはっきり現れていると言わざるを得ない。

かさむ建設費とデザイナーの意匠

万博予算は1250億円を想定していたが、2020年12月に1850億円の600億円の増額を行なった。
理由として託児所、診療所などの設備拡充やドライミストの設置に320億円、大屋根リングのデザイン変更で170億円が盛り込まれていた。

『大阪・関西万博「失敗」の本質』の本の中で詳しい言及がされていたので、予算に関してはそっちを参考にしてほしい。

ここで問題なのが、増額してまで行われた大屋根リングのデザイン変更である。

この大屋根リング含め万博会場のプロデューサーは藤本宗介氏が担当し、実際の設計は委託企業が施工する。

プロデューサーの意向がリングのデザインに反映されるのは勿論だが、なぜ170億円もの増額を認めるに至ったのか。

大屋根リングに関して吉村知事は「釘を使わない素晴らしい建設技術を使った建設物」と絶賛しているが、実際はボルトと金具で固定しながら建設する貫工法を利用している。
予算増額を負担する大阪知事の建築に関して知識がないのが露呈している。

さらに万博の失敗がCFOが5年以上も不在だったことにもある。2024年3月に新たにポストを用意したらしいが、それまで財務責任者が不在のまま事業が進められ、予算を組んでいたというのだから驚く。

建築家は資金を使って自分の中で最大の作品を作りたいと思うし、各日本パビリオンを担当する芸術家たちも同様の考えを持っているはずである。
その中で予算を決め芸術家たちに「NO」を言える人、妥協を提案する人がいて事業は成り立つものである。今は湯水のように湧き出る予算だが、終わった後の尻拭いをするのは日本、大阪府以下の地方自治体となるのだから。(実際には尻拭いに一悶着ありそうだが、)

それを証明するように2月6日に落合陽一氏が万博に関して「非常にコスパが悪い」と表明したのと同時に「ドバイ万博の数倍お金をかけないと、同じクオリティーのものがつくれない状態になっている」と声明している。

有料記事の中身を見てみると予算の増額を求めている文章と感じるが、芸術家である以上最高の作品に莫大な費用を求めるのは自然な行動だと思う。

やはりその中で万博全体の予算を管理し均等に配当できる人材は必要だったはずである。
しかし、実際には予算策定のプロセスは不透明で万博リングに関する工事事業者の選定に関しても不透明のまま弁明されていない。

万博設計は人を選び人を評価する

今回の大阪万博において最大の特徴はやはり「大屋根リング」である。
万博関連の投稿を見ても多くの人が木造リングの建設状況を写していることに気づくはずだ。

中のパビリオンは開けてからのお楽しみのように封印されているような感じである。

大阪万博の設計では細胞分裂を繰り返したかのような島ごとに独立する「ヴォロノイ分割」を採用していた。

人工島という軟弱地盤を克服するため島ごとに杭を打つか浮遊方式を取り入れようとした。これにより圧密沈下を防ぎ、島の安全性も保証されると考えられていた。

実際に万博協会からの指定では万博会期以降に引き抜くことを条件に杭打ちは許可されていた。

しかし、そのデザインは急遽変更することになる。
大屋根リングの意匠は何処にあるのか不透明なまま予算を策定し、3つの工区からなる建設事業者まで策定した。

この工区策定における建設事業者の選定にも問題があった。

「プロポーザル方式」と呼ばれる発注者から提示される課題を解決する設計者を策定するシステムを採用したのだが、これは優れた設計案ではなく設計者を選ぶシステムとして知られる。

2020年の東京オリンピックでザハ・ハディド氏の競技場設計案がコンペで優勝したが、これは最も優れた設計案を採用する「コンペ方式」を取り入れている。
このザハ氏の案は結局省庁関連のいざこざによって否決され最終的に隈研吾氏のデザインで落ち着いたが、こちらもタテ割り事業の問題が深く追求されることになる。

さて、問題のプロポーザル方式だが、要は設計者のキャリアをもとに選定されるため役所の意向に添いやすい傾向がある。

今回の木造リングの例で言えば設計者はプロポーザル方式で東畑建築事務所+梓設計が行い、建設業者にはJV方式が採用されている。

JV(共同企業体)は竹中工務店、大林組、清水建設が担当することになっている。

JVでは各企業が工区を分割し建設を進めている。このメリットとして工区が決められ役割が分割されることで集中して建設が進められるメリットが提示されるが、一方で建設業者が多数存在するために作品に対する熱意は一社が担当するよりも小さいことは言える。

実際に軟弱地盤を理由に竹中工務店は杭を打つことを提示しているのに対し、他2社は必要性なしと判断し協会側も要望を却下している。
要は早く自分たちの工区を終わらし、できるだけ早く撤退した意向なのだろう。

より効率的な建設システムを導入する教会側の意向はわかるが、それが本当に万博という国家事業に必要なのかという議論は必要だと思う。

哲学のない万博

維新の政治的利用、嵩む建設費に保全を考えたコンペの在り方は税金を払う国民にとって許されない話である。

しかし、そこに国民にとって開催されるべき意義や文化があれば許容されるべきと私は思う。
過去の万博の例として明治時代の内国勧業博覧会の第五回大阪開催では第四回の京都開催を遥かに凌駕する大規模な都市開発が行われ、天王寺今宮、堺市を中心に水族館の建設や公園が設置されていった。
その規模は11万4,000坪と京都博の2倍以上もの広さで、153日間の会期中に530万人が来場した。
後に跡地は天王寺公園となり、「新世界」の名の下「通天閣」と「ルナパーク」が開業している。

内国博は明治政府が主導で開催される殖産興業を目的とした行事で京都博では電気を利用した会場設計が注目を集めた。

当時の日本にとって都市開発は周辺産業を盛り上げる有力な手立てであり、利益誘導事業として大阪、京都、名古屋、大阪などの都市がこぞって誘致をしてのだ。

それから終戦を経て70年の大阪万博では東京オリンピックに引き続き美術評論家の勝見勝氏が万博の座長を務めデザイン懇親会など万博の基盤を醸成していく。

万博テーマである『人類の進歩と調和』は小松左京や梅棹忠夫、加藤秀俊ら知識人が議論を重ね導き出している。

この計画にあたって京都の西山夘三氏と東京の丹下健三氏が中心になり議論を深めていく。
西山氏は万博テーマから会場の中心に祝祭空間を設けることを提案し、実際に上田篤氏が伊豆島の「池田の桟敷」に着想をへて『15万人のお祭り広場:人間と文化の交流の表現』を計画する。

丹下氏は広場にボールジョイントでパイプを繋いだ「スペースフレーム」を計画する。これが広場を囲む大屋根の初代となる。

このボールジョイントでパイプを繋いだ建築は東京にも多く点在する。『東京ドーム』はじめ葛西臨海公園の『鳥類園ウォッチングセンター』(現在は撤去済み)など様々な建築で用いられていく。

70年の大阪万博における哲学的な要素は会場設計やテーマに明確に現れている。
一方で、2025年の東京オリンピックでは誘致段階で大阪府・市のテーマだった『人類の健康・長寿への挑戦』が有識者の指摘によって簡単に『いのち輝く未来社会のデザイン』に変更されてしまう。

さらには1月1日の能登大地震を経てまでも万博開催を優先し莫大な予算を費やしている点を見ると万博を開催する意味、なぜ今万博なのか、その意義は何か、といった問いが生まれてくる。

万博批判の表面

万博の会場建設費の増額、委託企業の選定の不透明、万博の開催意義など人々の視線は批判に向けられている。

「哲学のない万博」の中で金銭的理由だけで開催するべきではない、と述べた通り金銭批判はするべきではない。

しかし表面的な批判をみると大体が会場建設費に委託金など金銭的問題を取り上げる。確かに金銭の取引は視覚化しやすく、その例では万博のチケット代の批判にも現れている。
「70年の万博のチケットは800円だったのに」とメディアは批判するが、実情はチケット代の安さに現場の人間は苦しんでいる。
その一つに各イベントが無料で見れるために、アーティストの誘致はボランティアで参加してくれる人になることが挙げられている。

チケット代には会場建設費やその他運営に必要とされるランニングコストが含まれているが、その金額は全く費用に届かない。

そこで必要だったのがボランティアで参加してくれるアーティストの誘致を誰が行うか、である。

それを担ったのが「吉本工業」だった。地元大阪の企業として顔は十分に広いし吉本興業が仲介に入ることで参加を表明してくれるアーティストもたくさんいるはずだった。
しかし、ご存知の通り万博のアンバサダーを務める予定だったダウンタウンの松本事件を境に吉本興業は撤退し、電通の機運醸成イベントや催事の旗振りはほぼ白紙になってしまった。

電通、吉本興業が不在の中万博事業はJTBなど素人が担当することになり万博までの導線準備、アーティストの確保など現場の人間は苦しんでいる。

全てにおいて最悪な状態の大阪万博は人々の批判の的になるのは時間の問題だったに違いない。
マスコットキャラの掴みどころの悪さも万博のプロモーションの難しさだろう。

だが、ここにおいて私は期待の念を持っておくべきだと思う。

やはり事業に対する批判は税金を支払う国民の権利ではあるが、まずは完成を待つことも日本人として考えておいてほしい。
70年の大阪万博の「せんい館」は当初取り壊す予定だった建設の足場を敢えて残し赤く染め上げることで特徴的な建造物を作り出した。

要は最後の最後まで何が起こるかわからないのが万博である。

過去の万博や博覧会の例を見ても、指摘には最適ではないが事故や事件が原因で大きく注目が集まり来場客数が倍増することになった。

今は批判するのも程々に万博に対する現場の人の熱意や意匠を汲み取りながらチケットを片手に開催を待つべきというのが私の意見である。

批評は一般人にとって難しいのである。

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