危機感は空気感になってしまった
「この国ではファクトや倫理観よりも空気の方が重い」と書かれた文章を見て私は心底悲しくなった.今の日本では自分で決断する事ができない.情報に右往左往し顔も知らない人と仲良くなって相手が言ってる事があたかも正しいことかのように感じてしまう.
デジタル村社会とも言うべき薄い共同体の膜がSNSにも蔓延っている事実を目の当たりにして何も反論ができなかった.
これは認知だけに言えることではない.人々の行動にも同じような事が言えると感じる.
それを体で実感したのがベトナムに行った時のことだった.まず空港に降りて市街地に向かうと既に異様な光景を目の当たりにした.車の数よりも圧倒的にバイクの数の方が多いのだ.
前後左右どこを見てもバイクに囲まれている.信号待ちをすれば前にバイクの大群が集まり始め,交差点が見えないほどのバイクで飽和してしまう.
そんな国ではさらに驚くべき事を見た.それは交差点があるのにも関わらず全く横断歩道が機能していなかったのである.
皆横断歩道が赤でバイクが車が道路を飛ばそうが、何だろうが関係なしに人は道路を渡っていく.少し大きな環状線のような道でもお構いなしにと人は道路を横断する.
最初は私も戸惑ったのを怯えている.しかし人間の脳とは驚くべきものでほんの数週間で慣れてしまったのだ.最初はバイクに轢かれる怖さから勇気が出せずに数メートルを横断するのに数十分かかっていた.数週間たてば現地の人と同じようにスラスラと歩けるようになってしまった.
さらに面白かったのが横断する時に必ず「青いナンバープレートの車が通る時は避けろ」ということだった.実はベトナムも日本と同様ナンバープレートによって区別されている部分がある.日本では青いナンバープレートは外交官用の車として知られているが、ベトナムでは政府の公用車として機能している.
ここで注意してもらいたいのが、日本の政府とベトナムの政府は大きく違うということである.日本では民主主義が採用されているため、政府公用車が人間を引いたとなれば交通事故の罰則はなくとも殺人で裁きが降るか、ニュースで注目されるのは間違い.しかしベトナムは社会主義を採用し、その中でも国民と政治家での格差がひどい.
人を引いても政治家はもみ消すことができる.それが実際に使えるような権力者だそうで、青いナンバープレートは避けないといけないらしい.
私も最初はウソだと思っていたが、世界には独裁政治によって独裁者一人のために何十人もが命を犠牲にする国もあることを考えると全く不思議ではないように感じる.
話を戻すが、ベトナムでは人がバイクが車が行き交う中自由に横断するのが当たり前なのだ.そのため、バイクの運転手も車の運転手も歩行者も常に神経を尖らしておく必要がある.日本人からすれば恐ろしいその上ないだろうが、現地の人からすれば自然な生活なためうまく溶け合っている.
日本で自転車と車が接触事故を起こせば警察が出動し救急車が出動し、最悪の場合その場で逮捕なんてこともあり得るだろう.しかしベトナムでは自転車と車の接触事故はただの口論になり結局「仕方ないよな」という感じで和解し自分たちの生活に戻っていく.
これがいいとは言えないが、常に人と人との距離が近く交通からもその密度を感じることができるのだ.
今、日本で私が環状線を横断でもすれば轢かれて死ぬか警察に捕まるかの2択になるだろう.それは日本がルールとして規定し、それ以外は存在しないと仮定を作っているからで、急なイレギュラーが発生すれば対応できない.そういう脳の中で予測ができるから日本では安全に運転できるのだろうが、大規模な事故が起こりやすいようにも感じられる.
これは歩行者にも同じことが言える.常にバイクと車が行き交う中で生活をしていれば後ろから来る車やバイクをいち早く察知することができる.しかし日本のようなルール化されイレギュラーを認めない社会では歩行者も運転手も運転に集中できる代わりに「それ以外」は除外され、それが重大な事故につながってしまう.要は危機感がルールという規定によって起こらないと仮定する空気感になってしまっているのだ.
これは実に危険である.横断歩道を歩いていても信号がないところでは歩行者が優先だという空気感が働き、車は止まってくれると思い込んでしまう.しかしそれが通用しない瞬間、秋葉原のような最悪の事件につながってしまう可能性もある.
しかしどうだろう.あの秋葉原の悲惨な事件を通しても道を歩けば皆がイヤホンを付け,自転車の運転手も構わずイヤホンを付けている.それだけでなくスマホをいじりながらといつ事故が起こっても仕方ない状況がありふれている.私自身も歩きながらイヤホンをする事が多く他人の事を言えないような気もするが常に前後左右には神経を尖らせている.それをしている人は一体何人いるのだろうか.
我々はルールという規定によってルール以外のことは存在しない空気感を作り出し危険を避けられなくなってしまったのかもしれない.