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薔薇の牧場に舞う者は (2020/01) 新春#04 『GO!³/この家の内から外へ』   序

  エピソード@モスコスラヴィヤ  

(1850)“学長の部屋”@カザン大学

「ただいま戻りました!」
「おお!久し振りだな!!
 Иван Максимович!!!」
と、顔を挙げて応えたその顔は相変わらずだ。
 真っ直ぐに通った鼻梁。整った顔立ち。
眉間のシワは相変わらずだが、幾分神経質に見えるその眼が気になる。
「はい!ゲッティンゲンより一週間前に帰国したのですが、先ずはサンクトペテルブルグ→モスクワを経由して、ここカザンには本日只今到着です!!
「お元気そうで何よりです。
 Николай Иванович !」
「元気さ!元気でなくてどうする!!学長の地位を退いたとはいえ、まだまだ研究しなければならないことが山程あるんだ!!!」
「ユークリッドの『原論』を超えて進んで行くお話、非ユークリッド幾何学の更なる研究ですね?
 素晴らしい!Хорошо !!
 ですが······」
「ですが·····?ですが、とは何だ?」
「先生の眼の具合はどうか?と、存じまして。」
「何だ!そのことなら心配無用だ。今も、こうして論文を読んでいる。
 眼が悪かったらそれこそ数式も見えない。数学者失格だ。教授職も辞めなきゃいけない。だが現に今この部屋の、この机の前に座っていられる。
 と、いうことは······。」
「大丈夫、ということですね!安心しました。
 実は、私はお手紙をお預かりしております。眼の病のせいでお読みになるのが難しいのではないか?と案じておりました。」
「手紙?私にか?」
「はい、さようでございます。」
「誰から?」
「ガウス博士から、です。」
「何と!ゲッティンゲン大学・同大学天文台所長の、あの、ガウス博士からか?」
「はい!あの、カール・フリードリヒ・ガウス博士からのお手紙です。」
「何故それを早く言わないんだ?見せてくれ。」
 Иван は荷物の中を探り、丁寧な手つきで手紙を取り出すと、注意深くそれを Николай に手渡した。
  Николай は、それをキラキラした眼で受け取ると、貪るように読み始めた。
 それを見届けた Иван は、机の前を離れ、白い枠の嵌った窓辺に歩み寄った。気を利かせたつもりだ。
 
 窓の直ぐ下辺りの庭には一面の薔薇!それを見たИван の顔、口角の両端が上がった。それは、恰も大切な自分の子供が順調にスクスクと育っているのを見つめる親の表情にも似ていた。
 
 天気の良い日だ。こういう日には、西北方面の、
Казанский кремль
 の尖塔を遥かに視認出来る事がある。カザン大学の前を西北方面に真っ直ぐ走るУлица Кремлевская を真っ直ぐ歩いて行ったら Казанский кремль に行き着く。
 “学長の部屋”
とは、よく言ったものだ。ロバチェフスキー博士は学長の地位を退いてこの部屋に移って来たのに、皆ここを、“学長の部屋”と呼ぶ。日当たりの良いこの部屋に入り、窓からКазанский кремль を眺めた日には、それが相応しい呼び名だと誰もが思う。
「そう言えば······」
と改めて思った。
 Казанский кремль には一度も行ったことが無い。カザン大学の学生としてに在籍し、学び・遊びНиколай Иванович Лобаче́вский  の元で研究に明け暮れたあの時期・日々に、あれだけ有名な場所に行こうとしなかったとは!
 今回はいい機会だ。帰りに寄ってみるか!何しろ正教の聖堂とイスラム・モスクが並んで建っている場所なんぞそうざらには無い。少なくとも、先日迄滞在していたヨーロッパでは滅多にお目に係ることが無い代物だ。
「ヨシ!」
と、思わず声を出した途端、別の声が響き渡った。

「Хорошо!!!」

Николай の声だ。
「どうしました?いいお話でも?」
「ああ!いい話さ。ガウス博士曰く、この私を
『ドイツ・科学アカデミー会員に推薦したい。』と、言ってきているんだ!!」
「素晴らしい!凄いじゃないですか!!
Очень Хорошо !!!」
「それともう一つ。
 ガウス博士が何と、モスコスラヴィヤ語の勉強を始めたんだそうだ!」
「それは一体どういうことで?」
「何でも、私の著した論文を翻訳無しで直に読みたい、のだそうだ。」
「何と!それも素晴らしいじゃないですか!!
 私は常々思っているのです。言葉というのは、各々の国・民族にとって民芸品のようなものだ、と。
 それを愛して下さる人がいる。しかもその方が、ガウス博士!他でもない、あの、偉大なる数学者、ガウス博士だなんて!!何て素晴らしいんだ!!!
「私の祖先が生きていたら言うでしょう。
『モスコスラヴィヤの臣民になって良かった!』と。言いますよ、きっと!!
 ええ、ええ、言いますとも!!!絶対に。」
「移住前後の国同士が戦争になる、ということは、よくあることだ。そんなことになるのは当人にしてみれば、身を引き裂かれる思いだろうな。
「だが、君の場合はそんな目に遭わずに済んでいるわけだ。
 確かに幸運だな。」
「はい。我が先祖が先々代の、エカテリーナ女帝にお仕え始めて約100年!もう100年になります。
 今ではもうすっかり、モスコスラヴィヤ人になりました。」
「そうか、100年か······。
 そう言えば、ポチョムキンに《ローズ》を贈ったのも君の祖先だったんだよな?」
「さようでございます。それにつきましては、Цаль のお許しを頂いた上で、ポチョムキン閣下に贈呈させて頂きました。」

「かのエカテリーナ帝という方は、啓蒙専制君主として有名だ。
 この国を《ヨーロッパの強国にする》という志で、ヨーロッパ列強に相応しい国にするべく尽力した。一方で、農奴制などは更に強化して農民反乱等の際には速やかな鎮圧で臨んだものだ。」
「ヨーロッパの強国としての振る舞い、ということでしたら、今の Цаль も負けてはおられません。
 去る、1848年:ヨーロッパの革命の際などには、まさしく。ただ······。」
「ただ······何だ?」
「女帝期、確かに反動政策を採られたことがございましたが、あくまでも国内でのこと。それを国外のヨーロッパにまで適用する、とまではなさいませんでした。
「現帝はそれを敢えて避けようとなさらずに、国内の統制論理をそのままヨーロッパ全体にも適用しておいでです。控えるどころかハンガリーにまで積極的に派兵をなさいました。
「そんな現帝を、ヨーロッパでは何と呼んでいるかご存知ですか?」
「いいや、何と呼んでいるんだ?」
「《ヨーロッパの憲兵》です。」
「成る程!いい得て妙だ。
 今の帝は、子供の頃から《軍人遊び》が好きな方で、且つ軍隊的な教育と訓練を受けてこられた。
《軟弱な奴は大嫌い!》なのだろう。
 しかも、
『我々は、外的な生活については何かを外国人から学ぶことが出来るが、内的な生活について学ぶことは無い。』
と、言っておられる。だから、歴史を重んじる。
「仄聞によると、帝は《我が国の過去》を扱った物なら全てに目を通すそうだ。 
 帝国大学に歴史の講座が設置されたのは現帝の代になってからだ。」
「それと、国歌の制定もそうですね。」
「そうそう!それ!!先代まで我が国の《国歌》と言えば、イギリス国歌《God save thd King》の、モスコスラヴィヤ語訳の歌詞が便宜上使われ、且つ
歌詞のみならずメロディーまでもがそうだったと、いうから驚く!!!
「それを、アレクセイ・リヴォフに命じられた。
『教会でも軍隊でも演奏出来て、
 神秘的で力強く、
 国民性が刻印されたような
 国歌を作曲せよ!』
「それで出来たのが今の国歌だ。」
「いい曲です。それは間違いなく!」
「それまでは、イギリスの国歌を拝借していた、とは!いやはやいやはやだ!!」
「恐れ入ります。
 先生の子供の頃は《我が先祖の祖国の国歌》擬きを歌わされておいでになったとは!
 まことに申し訳無いことでございます。」
「そうとも!君の祖先の祖国の歌だ!!」
「ですが、今や私の祖国は、このモスコスラヴィヤです。そのモスコスラヴィヤが多国に嫌われ批難を受けるというのは耐え難い。胸が痛みます。」
「それはそうだろな。
 でも大丈夫だ。現にガウス博士のような人だっているんだ。
 彼など、今のЦаль が、いくら《憲兵》と言われようと気にはするまい。」
「そうだと良いのですが。
 あ!そうそう!!先生にもう一つ見て頂きたい物がありまして。今、ヨーロッパで話題になっている本があるのです。」
「ほう?どんな本だ?」
「お待ち下さい。」
 Иван は、荷物の中身を探ると、一冊の本を取り出した。






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