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連載 私と受験#6 中学入試本番

志望校選択

 正月特訓も無事乗り越え、中学入試もいよいよ本番が近づいてくる。当時は関西の統一日が3月1日だったので、今より1ヶ月半以上、余裕があるという意味ではまだまだここからの頑張り次第では挽回も可能という気の抜けない展開である。

 志望校については、秋くらいに塾の担任と親子面談をしたときに、ワンランク上のところでも十分受かると進められた。が、やはり失敗するとスクールウォーズ状態の地元中学が待ち構えているので、無理はしないでおこうと思い、その申し出には乗らなかった。結局、5年生で塾に行く前に母が買ってきた謎の問題集のうちの一校を第一志望とすることにした。

 併願をどうするかについてはいろいろ考えた。まず、その塾に通う大半の子が受ける附属池田中学に関しては、そもそも副教科もやらないといけないのでみんな途中から別カリキュラムになっており、選択肢とはなり得なかった。豊中教室から確か10人受けて合格したのは3人だったと思う。時期が早かったので、残念だった子は私たちの進学コースに戻ってきた。結果として、同じ中学に進んだ男子も2人いた。

 もう一つ気になっていたのは、奈良の東大寺学園だった。自宅から通うにはかなり遠かったが、進学実績や校風などを見ても親は関心を持っていたようだった。ここは社会の問題が死ぬほど難しいことで有名だが、私は理科はからっきしだめだったけど、社会はかなり自信があり、塾で過去問をやったときもそれなりに戦えていたので、受けるつもりは満々だった。試験が確か統一日よりかなり早い2月にあったので、腕試しにも十分だった。受験にあたっては小学校の校長印がいるので、学校の担任に親が受けたい旨を伝えた。しかし、担任は「万が一のことがあっては本番に影響するからやめておきなさい」と言って、受験を許可してくれなかった。そんなに私の出来が信用ならないのかどうだったのか、今となっては確かめようもないが、とにかく校長印を出してもらえないので、出願は断念した。時代ですな。

 そういうわけで、その第一志望と、その後にあった京都の洛南に出願することになった。洛南については、中学が私が受ける数年前に新しく高校に併設され、日程が統一日とずれていることもあり、えらい人気校になっていた。今でもここは、共学にしたり小学校を作ったりして生き残っていくための戦略をしっかりやっているという印象だが、当時も高校だけだと運動の学校というイメージだったのが、中学受験をするような生徒を抱え込むことで、その後の進学実績アップの予兆を感じさせる状況だった。あとは、さらにその後にある高槻にも出願していたような気がするがちょっと忘れた。

崩御

 この年で忘れられないのは、昭和天皇の崩御だ。よくNHKのニュースアーカイブなどで当時の報道を振り返る場面などでよく流れるが、あの頃、新聞には毎日のように1面に天皇の体温と血圧、脈拍が囲みで掲載されていた。天皇の健康状態が良くないのは子供ながらによくわかったが、その体温や血圧などを見て、「ああ、今日は天皇さん、しんどそうやな」とか「今日はちょっと体調いいんやろうか」とか勝手に妄想していた。そういう意味でも、ある種、特殊な社会情勢のもとで受験生していたと言える。

 昭和63年が終わり、昭和64年が始まった。塾は大晦日と元旦以外はがっつり授業がある。図書券をもらった正月特訓が終わると、また豊中教室に戻って冬季講習を受けていた。そして、1月7日の朝、昭和天皇は崩御した。朝からテレビ番組はどこをつけても崩御関連の番組ばかり。CMも一切なかった。にもかかわらずだ。何と、冬季講習は普通にあったのである。確か、親が事務所に電話したとは思うが「やります」と。普通に通常の時間に行って、教室で一応、塾の担任が「東の方を向いて一礼しようか」と声を最初にかけたくらいで、あとはいつも通り、がっつり晩まで授業があった。帰宅してから夕刊の「天皇崩御」という見出しが、今まで見たことないくらいでっかい字でびっくりした。

 次の日からはしれっと平成になったが、塾も学校も変わらず進んでいった。子供にとっては案外そんなものなのかもしれない。先日の令和への代替わりも、大人が騒ぐほど、子供たちの日常ってあまり変わらなかったのかなとも思う。

受験当日が初登校

 そんなこんなで本番の3月1日を迎えた。今にしてみれば考えられないことだが、私は第一志望の学校も洛南も受験まで一度も見たことなかった。普通は見学に行くものだと思うし、自分の子供2人はどちらもそうしたが、なぜかうちの親はそうしなかった。なぜなんだろう。初見だと緊張するからと、事前の見学の必要性は説かれるが、確かに私も初めて学校内に入った時にちょっと緊張したかもしれない。

 テストは4教科。緊張はしつつもしっかりできた気がした。理科が不得意で塾でもできたかできてないかすら分からないくらいだったが、今回もそうだった。理科は嫌いじゃないのにどうしてできなかったのだろうと今でも思う。学校の担任の専門は理科だったし、塾では塾長の授業が理科だった。この塾長と相性が合わず、というかこの人の授業の時はどうしても睡魔に襲われ、何度もブチギレられた。最前列で居眠りして腹立ったのでしょうな。その後、病気でほどなく亡くなったと風の便りで聞いたが。

 2日間の試験を終え、3日は洛南へ。第一志望の合格発表がこの日なので、とりあえず受けなければならない。このとき、同じ第一志望を受けた塾の友達のお母さんから「受験番号は3の倍数だと縁起がいいらしい」と言われ、えらい気になった。世界のナベアツかと思うが、第一志望は確か3の倍数で、洛南はそうじゃなかった。でも、子供ながら結構縁起を担いでしまうので、ものすごいそれが気掛かりだった。洛南は先にも書いた通り、人気が加熱していて、当時私が受けた時も80人の募集人員に1200人くらい受けにきていた。それはそれはものすごい受験生の人並みだった。

 ここも受験日に初めて行ったわけだが、まず教室の前に坊さんの写真が額に入れて飾られているのに驚いた。机と椅子がパイプでくっついて一体になっているのも驚いた。椅子を引こうと思ったら、机ごと前に行くのでやりにくくてしょうがなかった。そして、もし入学したら丸刈りにしなければいけないというのも、その時初めて知り、度肝を抜かれた。怖すぎると。

 試験を終え、家路に着く。洛南には母親に連れて行かれ、第一志望の合格発表は父が会社を抜けて見に行っていた。当時は携帯電話などもないものだから、結果を見たら父が先に家に帰って待機し、こちらから電話をかけることになっていた。梅田くらいまで戻った時に、母が公衆電話から自宅に電話をかけ、父から合格の報を聞かされた。母も喜んだし、私もそれはそれは嬉しかった。自分で選んだ学校ではなかったかもしれないけど、やっぱり合格というのは嬉しいし、あまりある朗報だった。

 次の日の朝、もう第一志望に受かったから親に「今日はどうする?」と聞かれたが、最初はもう「やめとく」と二度寝するつもりだった。でも、5分くらい考えて、昨日途中まで受けてそれなりに一生懸命やったのが何だかもったいなく感じて「やっぱり行く」と京都に向かった。翌日、合格発表は日曜日だったので両親が見に行った。私はというと、もう遠くまで行くのがしんどかったので、家の絨毯のところでひとりパターゴルフをしていた。電話が鳴り、また合格を告げられた。あれだけの倍率だったからさすがに無理だろうと思っていたので、それはそれでその後の自信になった。合格者は結構多めに出していたのだろうか。もう調べようがないけど。

 そういうわけで、合格手続きの日になる。確か、どちらも同じ日で、親は調子に乗って両方の書類を持ってきて、梅田駅のところでもなお「どっちにする?」と調子に乗っていた。でも、私は第一志望にすると決めていた。だって第一志望だし、京都は初めて試験を受けに行った時にずいぶん遠いなと思ったし。

 というわけで、私の中学受験は無事に終わった。小学校の間ずっとせがみ続けたファミコンも、近所のおもちゃでようやく買ってもらえた。ディスクシステムもついているツインファミコンというやつ。カセットはパターゴルフ好きということもあり、「ファイティングゴルフ」と、何かステージをクリアするときに着陸しないと一機減るというなぞのシューティングゲーム「アーガス」、そして「ドラクエ3」だった。おもちゃの番台で母が「ドラクエ3ください」と言った時の地元のはなたれ小僧たちの「え、今ごろ?」というどよめき。恥ずかしかった。1年遅れだ。そりゃ、今ごろだ。でも、今まで頑張ってきたのよ。ようやく手にしたファミコンなのよ。今でもゲーム依存症になっているのは、この時の後遺症だと私は思っている。

 次回からは大学入試編。中高一貫校で6年間、ダラダラ過ごすとこうなるという反面教師になるかも。

 今日は休日出勤。いま関わっているプロジェクトの偉い人向けのプレゼン資料を作らなくてはいけなくて、真っ暗な会社に出社した。在宅でもできたけど、あえて気合を入れるために。早めに引き上げて、バーミヤンでがっつり食った。もうギトギト。


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