(14)孔子の人柄を語る

≪ 努力の人 ≫
孔子が生きていた春秋時代は、漢語が未発達の段階であったのに対して、既に方言が多くあり、漢字の意味するところが都市によって異なっていた。漢語は方言(他の都市の言語)毎に発音体系が異なることが多く、方言は聞いてもよく分からないといった状況であった。現在とは異なり、言語学的知識も乏しく辞典もないので、方言を学ぶのは大変な努力が必要であった。
 孔子がテキストとして用いた【詩経】には、他の国の歌を採録したものが多くあり、これらの歌をどう発音するかさえ明確ではない。孔子はこれを編纂して雅言(魯の宮殿で使われる言葉)に統一して発音することで、若者が将来役人になっても宮中を理解できるように配慮した。
孔子は司空になった52歳頃以降に、魯の図書館にあった約三千の詩を編纂し約三百に纏めて【詩経】とした。これは必ずしも簡単ではないが、孔子はそれを実行した。死ぬまで教師としての努力を怠らなかった孔子は「努力の人」である。それを表わす言葉が【論語・述而07-02】に載っている。
子曰:「默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉。」
先生が言った:「黙ってこれを暗記する、学んで嫌気を起こさず、人を教えて飽きることがない。このようなことは、私にとって何でもないことだ」
 
「黙ってこれを暗記する」というのは、詩経の句や、故事、諺などを暗記して、それらを弟子の教育に活用する事を意味する。弟子の教育に熱を入れていたことが感ぜられる。
≪ 用心深い ≫
孔子は人の動きに注目し、人事に気を配った。他人の心の中を読み取って、それを弟子の教育、宮廷での言動に役立てていた。それを示す言動が【孔子家語・致思(八) 】に載っている。
子路、蒲の町長となる。水の備えの為に、その民と共に水路を引かんとする。民の労苦に対して、一人ずつに食と飲み物を与えた。孔先生がこれを聞き、子貢を派遣して、それを止めさせた。
子路は怒って悦ばなかった。孔先生のところへ行き、見(まみ)えて言った:「由は暴雨が将に来ることを知っているので、水害が起こることを恐れたのです。それで、民と共に水路を引いてこれに備えようと考えました。でも、民には食料が乏しく飢える者が多いため、食料を支給したのです。
今、先生は子貢を派遣して之を止めさせました。此れは先生が私の仁の行いを止めさせることです。先生は仁を以って教えながら、仁の行いを禁じることは受け入れられません」。
孔先生が言った:「あなたは民が飢えていると思うなら、どうして倉庫を開いて、民に配給するよう君侯に提案しないのか、何故、自分の食料を使って民に与えるのか。
これは君侯が民に対しての思いやりがないことを示すことで、己の人徳を目立たせようとする行為である。すぐにやめればよいが、そうでなければ必ずや罪を着せられるであろう。」
 
孔子の考え方を纏めると次の様になる。
・君候の承認なく村民を私的に助けることは、「君侯が民に対しての思いやりがないことを示すことで、己の人徳を目立たせようとする行為」と解釈できるので、君侯の承認を先ず取り付けるべき。
・子路の行為は却って、子路の立場を悪くすると予測した。
・政治的に慎重な行動をすべきと考えていた。
 
嫉妬心や名誉欲は誰にでもある。しかし、孔子は権力者のそれは悪影響が大きいと考え、彼らに悪影響を及ぼさないように行動すべきことを孔子は説いている。

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