(五十九)蓼太の句を味わう

大島蓼太(1718~1787年 10月17日)の経歴を略記する。
1718:長野県伊那郡に生まれる。幼少のころ江戸移住する。後に幕府の御用縫物師となる。
1740:雪中庵二世 桜井吏登の門人となり、俳諧を学ぶ。
1747:雪中庵を継承し三世となる。
1742:『奥の細道』を吟行するため奥羽行脚に旅立つ。
 
蓼太は「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の句で知られているが、蓼太は芭蕉流の俳句を重んじていた。1753年生まれの菊舎も芭蕉流を好んでいた。しかし、句を読めば分かるように、蓼太の句には、芭蕉の軽みや凄みが欠けている。芭蕉を好んではいたものの、蓼太には蓼太の個性があり、作風があるのだ。それは、芭蕉のそれとはかなり異なっているのであるから、芭蕉流を慕っても、芭蕉風の句を作ることはできないのである。『奥の細道』を研究することは必要であるが、真似る必要はないのだ。
現代俳句の先駆者とも言える一茶は1763年生まれであり、菊舎とほぼ同時代の俳人である。1780年代の天明時代は江戸の後期であり、芭蕉の時代とは大きく事情が異なり、江戸は既に後退期に入っていた。
さて、蓼太の俳句を見ていこう。☆印は筆者が選んだ彼の代表作。
 
梅が香や 初庚申の 背戸の風呂
初庚申とはその歳最初の庚申の日を言い、祭りが行われる。今年(2023年)の初庚申は1月2日であるが、旧暦では2月12日(新暦3月3日)である。丁度梅の咲く時期である。
 この句の大意は裏庭に設置した風呂に入っていると梅の香りが漂ってくる。近くには神社があるのであろう。自分も行って見ようと思うが、この梅が香も捨てがたい。
 梅が香の優雅なることは言い尽くされてきたことであり、梅が香を句にすることは陳腐になってしまう。ここでは、初庚申祭りの日に、裏庭で風呂に入る事を話題にして、新鮮味を出そうとしている。

歯にしみて 秋のとどまる 熟柿かな
秋も深まり柿を食べてみた。此れから冬となるが柿を食べていると、歯に 染みるのが辛いが、まだまだ秋の気分が続きそうだ。

里は今 綿新しき 日和かな
  晩秋の温かき日、綿の実が弾け白い実が顔をのぞかせている。里の秋を感じさせる美しい風景が作者の前に広がっている。

☆夜桜や 三味線弾いて 人通り
  昼に既に花見をしたが、夜になってもまだ桜が恋しい。三味線を弾きながら人通りの多い所を行き、人の様子を見たいという意味である。昼は桜を見るのが主たる目的であったが、夜は人を観察するのが目的なのである。
 
月草や 澄みきる空を 花の色
月草とは露草の旧名称である。花は朝に咲いて、昼にはしぼむ。秋の晴れた朝の光景を句にしたと考えられる。青空と対比させていることから露草の花の色は青ではなく白であると思う。青い空と白い花を 単純に対比させたものであり、蓼太の句としては素直な句であろう。

☆寝心も 花くたびれの 夜頃かな
季語は晩春を意味する「花疲(つか)れ」である。蓼太は五語の季語を七語に合わせるため「花くたびれ」と詠ませている。
   花見に心身を用いた結果、疲れを感じる事を言うのである。疲れて蒲団に入っても何となく気ぜわしくて眠れないことを述べている。

物言わぬ 夫婦なりけり 田草取り
夫婦二人で草取りに勤しんでいる。言葉を掛け合わなくても、互いに通じ合っているところがあるように思える。そのような雰囲気を感じ取った作者の気持が込められている。

☆旅籠屋の 夕くれないに 躑躅かな
晩春、日が暮れる前に旅籠屋に着いた時には、路傍の躑躅の花に気にも留めなかった。旅籠屋というのは立派な作りの旅館ではなく、比較的簡素な造りの旅館である。
一息つく頃に暮れになり、西の空が赤く染まり始めた。この時に、旅籠屋の前の道端に、躑躅が咲いている事に初めて気が付いた。
日が暮れる前には気が付かなかったのに、日が暮れてから、やっと躑躅の花に気が付いた。

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