(四十四)漱石の漢詩三首を紹介する(その2)

今度は、漱石が四十を超えた以後の漢詩を紹介する。
その1と同じく、岩波書店『定本漱石全集』2018年版(以下、『全集』と略記する)第十八巻から詩を引用する。詩の前の番号は、『全集』に付けられた詩の番号である。
(其の一)
86 無題(明治四十三年十月六日)
天下自多事、被吹天下風。
高秋悲鬢白、衰病夢顔紅。
送鳥天無盡、看雲道不窮。
残存吾骨貴、慎勿妄磨礱。
 
*1:天下自多事、世の中には大小軽重の色々な事が沢山あるという意味。
*2:被吹天下風、「天下の風に吹かれる」をそのまま漢語風に表現した。
*3:看雲道不窮、雲は根がなく空に在って、風に従い東西南北に移動する不安定な存在である。雲から古今不動の道を連想するのはおかしい。雲は自由や気ままさを表わすのに用いられる。
*4:残存吾骨貴、残存は「残存する(生き残っている)という日本語であると考える。殘生(残り少ない人生)という言葉にあるように、漢語の「残存」は「残った少ない部分」という意味である。また、「骨貴」の本来の意味は身分が高いという意味である。
*5:磨礱、磨り減らす。
解釈:
  世の中には大小軽重の色々な事が沢山ある
  その色々な事が世に影響を与えている
  雲高く晴れた秋に耳際の髪が白いのを悲しみ
  病み衰えては若き日の夢を見る
  鳥を見送り、空は果てしないと感じ
  雲を見て、道が極まりなきことを思う
  今私が生きていることは誠に貴い
  行いを慎み、身を損なわないようにしよう

この詩も日本語を漢語化しているため、読んでいて奇異な感じがする。特に、「残存吾骨貴、慎勿妄磨礱」は違和感を覚える表現である。

(其の二)
168 飣餖焚時大道安、天然景物自然観。
  佳人不識虚心竹、君子曷思空谷蘭。
  黄耐霜来籬菊乱、白従月得野梅寒。
  勿拈華妄作微笑、雨打風翻任獨看。
*1:飣餖、文辞を並べたもの。浮いた言葉を並べて文脈が通じない文章。
*2:虚心竹、竹が中空である事を述べた、更には虚心の君子をも指している。参考として、吉川幸次郎の解説を転載する。
    この句は、おそらく、杜甫が薄命の女性を憐れんだ「佳人」の詩に「日暮れて修竹に倚(よ)る」というのを、ひっくりかえした。杜甫は、清潔な薄命の「佳人」にふさわしい景物として、修(ながき)竹を点出するのであるが、先生の「天然の景物を自然に観る」立場からすれば、人間と竹の間にはほんらい関係がない。がんらい、「虚心」な竹を「佳人」が友として認識するわけはない。

まったく、理解に苦しむ解説である。
*3:空谷蘭、人のいない谷に咲く蘭、更には田舎に暮らす陰君子を指している。
しかし、その様に解釈すると「君子曷思空谷蘭」を理解するのが困難になる。むしろ、「君子只思空谷蘭」すべきである。
*4:黄耐霜来籬菊乱、黄とは黄色の菊。それが寒さに耐え来たりて籬に咲いている。従って、この黄色は鮮やかに見えるはずである。にもかかわらず、「乱」と表現している。「ランダムに咲いている」という意味になる。果たして「乱」でよいのか。寒さに耐えた結果、菊の花がランダムに咲くと言うのはおかしい。ましてや、「乱れている」は尚おかしい。私は、「乱」を「美」とするのがよいのではないかと思う。
*5:勿拈華妄作微笑、この句は3+4になっているので、律詩としては破格である。「作微笑」というのは無理に微笑を作るという意味で「作」の字を入れているかもしれない。しかし、「作微笑」は不自然な言葉である。ここはやはり、「請勿拈華妄微笑」とすべきではないか。
*6:「任獨看」という言い方も、通常は「任我獨看」の我を省略したと解釈できるが、今一つ釈然としない言い方である。
 
解説した通りに意訳した。
  浮いた言葉を並べるのを止めるなら大道が開ける
  自然のままの景物をありのまま見る
  佳人は虚心の竹の事を知らず
  君子は人のいない谷の蘭を只思う
  霜に耐えた黄色の菊は籬に映え
  月の光を受けて白い野の梅は寒そう
  花を取って妄りに微笑すること無かれ
  雨風に晒されている花をありのままに見よ
 

(其の三)
181 無題(大正五年十月二日)
  不愛紅塵不愛林、蕭然浄室是知音。
  獨摩拳石摸雲意、時對盆梅見蘚心。
  麈尾毿毫朱几側、蠅頭細字紫研陰。
  閑中有事喫茶後、復貸晴暄照苦吟。
*1:寂寥の様
*2:浄室、寺院。似た言葉に浄宮があり、寺院を意味する。漱石本人は只の「清浄な」部屋という意味で使っている。何故なら、「苦吟」をしているからである。
*3:拳石、拳ほどの大きさの石。
*4:摸、模索、尋求也。
*5:麈尾(しゅび)、払子。
*6:毿毫(さんごう)、長い毛。
*7:蠅頭(ようとう)、蠅の頭程の小さい。この様な小さな文字で印刷されている所謂豆本を指している。
*8:紫研、紫色の硯。
*9:賃、雇う。
*10:暄、日が温かい。
*11:苦吟、通常「勤めて詩文などを詠むことを意味している。しかし、この苦吟は苦心して詩文を作ることを言う。杜牧の「寄張示+古詩」に「仲尉欲知何處在、苦吟林下拂詩塵」とある。
 
解釈:
  世俗を愛さずして隠遁も愛さない
  静かで清浄な部屋が私の心の友だ
  一人小石を擦って雲の心を模索し
  時に盆栽の梅を見て苔の気持を見て取る
  払子の長い毛を紅い几の側に置き
  豆本を紫色の硯の横に置く
  閑でもやることはある。喫茶の後、
  また、晴れるのを待って詩作に苦労する
 
「不愛紅塵不愛林」の言い方は七言詩ではあまり見られない。毛沢東の詩にある「不愛紅装愛武装」という言い方が普通である。また、心を落ち着かせて詩を作ろうとしている者がなぜ、雲意を模索するのか理解できない。
「閑中有事」は不要な言葉である。詩人は元々詩を書くのであるから、事が有るのだ。
 
(其の四)
199 [無題三首 其二](大正五年十二月二十一日)
  元是喪家狗、徘徊在草原。
  童児誤打殺、何日入吾門。
 
「喪家」とは、魯の貴族であった三桓氏に仕える大夫の地位を失ったことをいう、孔子が魯国を追放されて諸国を歴遊していることを形容した言葉が喪家の狗である。従って、犬が元々喪家の狗というのは、正しい言葉の使い方とは思われない。
「何日、我が家に入る」と言っているが、この表現は杜甫の「何日是帰を真似したのかもしれないが、真似損ないである。
 
漱石の詩の良くないところばかりを言うようで、恐縮であるが、詩72番に次の句が有る。
  仰瞻日月懸、俯瞰河岳連。
  曠哉天地際、浩氣塞大千。
 
とある。「日月懸」「河岳連」、「曠哉天地際」「浩氣塞大千」と空虚な言葉を対句にしている。詩とは言え、明治の時代に、このような言葉を連ねるのは感心しない。
 


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