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パナソニック汐留美術館『ベル・エポック 美しき時代』

※行ったのは去年の十月。メモと記憶を頼りに書きます。

前日に美術館に同行した友人宅に宿泊。
二日目は、まずパナソニック汐留美術館に向かう。
19世紀末のパリの展覧会。とある業界の絵描きの常として、彼もミュシャ好きなので、間違いなく気に入るだろう。


第一章 古き良き時代のパリ 街と人々

歴史に詳しくないので、ベル・エポックといっても何なのかよくわからない。
十九世紀末のフランスを概観する。
ナイチンゲールの活躍したクリミア戦争や、その後の普仏戦争も終わった。パリ・コミューンは鎮圧され、ナポレオン三世がパリの街を大規模に再開発した。1874年に第一回印象派展が、そして1900年にはパリ万博が開催された。音楽だとドビュッシー、文学だとちょっと前に、ゾラ『居酒屋』やモーパッサン『脂肪の塊』、ユゴー『レ・ミゼラブル』なんかが書かれている。ファーブル『昆虫記』がこのころ。
日本では西南戦争が終わってて、ドイツではワーグナーが、アメリカでエジソン、イギリスでシャーロック・ホームズがブイブイ言わせてた。
だいたいそんな感じ。

古き良き時代と言うけれど、当時のパリっ子にしてみれば、街は再開発されたばかりだし、第二次産業革命の内燃機関の活用で生産と流通がガンガン上がり、技術革新により新製品もバンバン出て、市民の気分はアゲアゲ、消費もアゲアゲという、古いだなんてとんでもない、まさに全てが最先端。
その証拠みたいに、きらびやかなドレスや装身具が展示されていた。
きらびやかではあるんだけれど、どこかシャープというか、クールなシルエットで、街を闊歩する様子が想像できそう。実際には、そこまで動きやすくはなさそうだけど、ソレ以前のジオングみたいなドレスに比べたら、隔世の感がある。

隔世の感、と言えば、子供服の展示。以前から、貴族階級や富裕層は、子供でもそれなりの恰好はしていただろうけど、例えばベラスケスの描くマルガリータ王女が着てるような、あくまで大人のドレスをダウンサイジングしたものだった。だけど、ここで展示されていた物は、子供の体形に合わせて動きやすさまで考慮して、デザインされているようだった。

世紀が変わり1910年になれば、イタリアのモンテッソーリが『子供の発見』を発表する。子供は大人とは違う人格のある存在として認められる素地が、もうできてきていたのかな。

服飾・装身具の展示品は、おおよそが文化学園服飾博物館の提供とあった。行ってみたい博物館のリストに追加する。

絵画もたくさんあったけれど、油彩画は少なくて、水彩画やパステル、グアッシュ、インクや鉛筆によるドローイング、リトグラフなどの版画がやたら多い。このあたりは、印象派同様、購買層が市民階級になった事も大きいのかな。一つの作品の制作期間が短縮され、単価が下がる。
印象派と違うのは、なんかやたら女の人の絵が多い。風景や男は数えるほどしかない。描かれてるのは、パリの街を闊歩したり、カフェやサロンでくつろいだりしてる、都市生活をエンジョイしてる若い女性の姿。
時代の最先端の輝きを、ハッキリと形にして見せるのは、今も昔も若い女性ということか。
「パリジェンヌ」の誕生だ。

……まあ単純に「オッサンなんか描いても、誰も買わねぇよ」ってだけの話かもしれんが。

第2章 総合芸術が開花するパリ

総合芸術とは、音楽・美術・舞台など、様々なジャンルを統合した作品のことだそうで。例えばオペラとか。現在だと、映画をはじめとする映像作品がそうなのかな。しかし、映画はまだ発明されたばかり。1895年、パリのグラン・カフェでリュミエール兄弟が入場料を取って上映したのが最初。
実はコレ以前から、カフェの出し物として、影絵芝居というのがあった、というのは今回の展覧会で初めて知った。カンカンやオペレッタといったダンスや軽演劇から、いきなり映画になったのではなく、その間にスクリーンを使う出し物があったわけだ。
影絵芝居というと、インドネシアのワヤンくらいしか思いつかない。植民地化とか関係あるのかしら? と思ったけど、フランスが植民地にしていたのは、インドネシアじゃなくてインドシナでした。影絵芝居は中国にもあるから、インドシナにあってもおかしくないとは思うけど。実際どういうものだったのかはよく分からなかった。展示は「影絵芝居が人気でした」という解説と、影絵芝居で賑わうカフェの絵とポスターくらい。映像記録が可能になる前だから、仕方ないか。あるいは、カフェの出し物は他にもたくさんあって、そのうちの一つに過ぎなかったって事かな。
文化が後世に残るには、やはり優れた芸術家の手が必要か。

そして、トゥールーズ・ロートレックが登場する。人気者は他にもたくさんいただろうに、アリスティド・ブリュワン氏の名がとりたてて今に伝わるのは、ロートレックのポスターに負う処が大きい。この頃のパリの文化と言えばムーラン・ルージュというイメージからして、だいたいロートレックのせい。シャ・ノワールのポスターを見るまで、他にもたくさんカフェはあったことを失念していました。それ以外にも、ロートレックのイラストレーション的な表現、とんでもなく個性的に思っていたけれど、そうでもないみたいだ、などと色々発見があったり。他の画家でも、かなり大胆な構図やデフォルメ、ライティングなどは、みんなやっていたみたい。描くものがカフェの舞台なので、人工照明の青白い光で、下から照らされるなどの、自然にはありえない照明。照らされている俳優は、鉛白の病的な白い色で顔を塗っている。ダンサーは幾枚も重ねたペティコートを翻し、ドロワーズが見えたり見えなかったり。そんな情景を描くのだったら、激しい筆跡のうねりや、一瞬で目に焼き付いた顔の特徴など、どうしたってデフォルメした形にしかならない。ただ、他の画家はそれを、これまで基本とされてきた構図やデッサンの上に乗せるというか、折り合いをつけるように描いていたのが、ロートレックはそんなの知るかとばかりに、好き勝手にバリバリ描いていたのが、一味違うところ。
ただ、画家によっては、ロートレックよりもクールというかスマートな印象がある、今のイラストレーションにより近い感性の作品も多くあって、色々と発掘しがいのあるジャンルかもしれません。

印刷技術の発展は、美麗なポスター以外にも、石版画集を兼ねた詩集の発行などにも繋がっていたようです。フローベール、ジョルジュ・サンド、マラルメ。当時の書籍が展示されていましたが、良く知らなくて全然わかんなかった。
『悪の華』なら知ってる。押見修造やBUCK-TICKじゃなくてボードレール。大昔に、チラと読んだような気がする。もう全然覚えてないけど、なんか中二病というか暗くてドロドロしてたって印象だけ残ってる。展示されていたのは、書物とルドンの石版画。1890年発行というから、石版画が作られたのはもう少し前かな? 子供を亡くして気持ちは一番落ち込んでいるのに、作品には鬼気迫るものがあふれ出てて、一番ヤバい時期だ。そんな時期に『悪の華』の挿絵を描かせるなんて、この版元は血も涙もないのかな?
『悪の華』絡みの作品の蒐集は、この美術館の自慢のひとつなのか、ジョルジュ・ルオーの石版画もありました。ルオーの作品は、第一次世界大戦の後なので、ベル・エポックとはあんまり縁がなさそうですが。
しかし、それを言い出せば『悪の華』自体が、この世の春と享楽を謳歌していた世間に対する、皮肉というには毒々しすぎる何かですね。
既に、一部の芸術家はキナ臭さに漠然たる不安を抱いていたのでしょう。

第3章 華麗なるエンターテイメント 劇場の誘惑

そんなことはお構いなしに……いや、うすうす、こんな繁栄はいつまでも続かないと、感づいているからなのか、大衆文化はさらに爛熟してゆくのでした。

1892-1893 アンリ・ガブリエル・イルベス
「自由劇場」のプログラム。

ロートレックにもあったんだけど、こういう芝居のワンシーンを切り取った版画とか、訳者の大首絵とか、やっぱりジャポニズムの影響があったのかな。
ゴッホが『タンギー爺さん』を彼の浮世絵コレクションを背景に描いたのが1887年。商業美術のスピードは早い。浮世絵的な作品コンセプトは、すっかり定着していたとしても、おかしくない。

1893-1894 アンリ・ガブリエル・イルベス
挿絵つき上演目録。

まあ浮世絵よりも、よっぽど今時のコマーシャル・アートに近い気もする。カッコよくポーズを決めたタレントの全身像をドーンと出すとか。定着しすぎて、他にどんな構図があり得るのかすら想像がつかない。

1895 シャルル・モラン『ロイ・フラー 黄色の衣装 オレンジ色の衣装』

そしたら「こういう構図がありますよ」なんて感じで展示されるコレ。長い袖を翻すダンサーの姿。ダンサー以外は闇に消えて、ただ翻る袖が、動きと空間の存在を示す。ほとんど抽象画みたい。後期印象派は、セザンヌが『サント・ヴィクトワール山』を描いた頃。抽象化への動きは、商業美術の方でも進んでいたのかな。

1891 ジュール・シェレ 『音楽』『パントマイム』
1891 ジュール・シェレ 『コメディー』『ダンス』

このあたり、色彩が与える印象を計算し尽くしている感じ。バウハウスが設立される二十年以上前だけど、他の作品での色の使い方とかから考えると、経験に即した色彩理論みたいなのは、既にあったんだろうなあ。
もちろん、印象派とのフィードバックも多くあっただろう。

1900頃 作者不詳 『フランソワ・フラテリーニ』

キャプションによれば、この絵のモデルは、そこそこ有名な道化師1だったとか。白塗りに、眉間・小鼻・唇の三か所に、最低限の化粧で道化師を示すセンスはさすがだ。耳を塗り残しているところもポイント高い。1900年、華やかにパリ万博が開かれる中、一人ギターを爪弾くピエロは何を想うか。

第4章 女性たちが活躍する時代へ

ベル・エポックは、市民階級の芸術にアール・ヌーヴォーというタグが付き、美術工芸をはじめとした各方面に、新しい波が来た時代でもあった。ポスターの流行が、ロートレックからミュシャに。ミュシャを世に出したのは、当時、多くの文化人の中心的存在であった大女優サラ・ベルナール。
印象派は後期印象派に移っていて、ルノワールのモデルを務めていたシュザンヌ・ヴァラドンは、息子のユトリロを産みつつ、自身も画家として活動を始めている。同じような経歴は、ちょっと前のベルト・モリゾもそうなんだけど、シュザンヌはもっと攻撃的な感じがする。ユトリロはしんどかっただろうなあ。
参考品として、マリー・キュリーが1898年に出した論文の初版があった。初めて「放射能」「放射性物質」という単語が使われたものだという。
彼女たちは、時代の変化をその姿に現していたパリジェンヌが、時代を作る側になった事の象徴かもしれない。

最後の方で、エミール・ガレ、ルネ・ラリックの工芸品や、ストレートなシルエットのドレスなど、アール・デコの作品が展示されていた。1920年代には、女性の社会進出が決定的になる。芸術の傾向も、大きく変わるのだけど、その最大の原因は第一次世界大戦だ。

男性が戦場に行き、社会の運営が女性に委ねられる。悲劇と破壊が、暴力に対する文化の無力感や、文明に対する失望を引き起こし、理性の価値を見失った芸術家は、ダダイズムやシュルレアリズムに向かう事になる。

美しき時代は戦争によって失われるけれど、パリジェンヌは素敵なデザインのドレスを纏い、ラリックの香水瓶を愛するのだった。


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