古川美術館『パリの100年 ~バルビゾンから印象派、エコール・ド・パリまで』
印象派とエコール・ド・パリの展覧会。それだけなら、よくある企画展ですが……
古川美術館は、以前篠田桃紅氏の展示を見にいったところ。クセが強いというか、ちょっと変わった美術館です。前回の記事でも、なんとなく伝わるでしょうか。
いや、民間の美術館って大抵、創立者のコレクションを基にしているせいか、どこも個性が強いんですけれど。美術品を蒐集して、その美術館を建てちゃうなんて、変人に決まっていますから、美術館もその性格が顕れて、面白いったらないですね。
今回、古川美術館で開催された展覧会は、印象派からエコール・ド・パリまでの作品を集めたものです。これだけだと、まあよくある企画展としか聞こえませんが……何がとんでもねぇって、今回の展示作品は全部「個人蔵」なんです。
美術館じゃなくて、個人が持ってるの!
ゴッホも! モネも! ルノアールも! シャガールも! 藤田嗣治も!
美術館じゃないの! 画廊でもないの!
どっかのお金持ちが、自分の家に飾ってるの!
推しのポスター貼る感覚で、教科書に載ってるような画家の絵を、お部屋にかけてるの!
いや、国立西洋美術館だって松方幸次郎のコレクションが基だし、愛知県下の公的美術館も本多静雄氏のコレクションに拠るところが大きいし、そもそも、最初に芸術家の絵を買うのは基本的に個人なんだから、美術館が持ってる事の方が、特殊なのです。
そりゃ、頭じゃわかってるんだけどさぁ! いざこうして、こんなにスゲェ名品逸品の数々が、どれだけ美術館に通っても見られない、個人の持ち物なんですよ、なんて、思い知らされるとさぁ!
しかしまあ、どれもこれも、代表作と言えるレベルのスゲェ作品です。全部油彩の完成品で、習作とかスケッチはない。大きさだって、どれも縦なり横なりが、1メートルはある。50号以下ってことはない。中には100号かと思われる大作すらある。だから、今後もこうして、展覧会に貸し出される事だってあるでしょう。だから運が良ければ、また見られる。それが慰めと言えば慰めかな。
この展覧会、22日で終わってしまいましたが、次に出会える時のために、ここに記録を残します。個人の持ち物なので、図録もなければ撮影も不可。目に焼き付けてきたのを、忘れないため、書けるだけ書こうと思います。
シスレー『サンクロワの風景』
シスレーらしい風景画。鮮やかな緑の草原と、同じくらい明るい青の空が、画面を分かち合っている。その地平線は細い雲か低い丘が連なっているみたいに、柔らかく溶け合っていて、ちょうどよく中央から少し右にずれたあたりに、青リンゴみたいな丸い樹が、ポコッと置かれている。
本当に、テーブルの端に置かれた青リンゴみたい。そのせいなのか、画面から爽やかな甘い香りがしてくる。暖かい風が吹いてくる。
丸い樹の左側は、鋭く細い三角形が、地平線の切れ目のように流れている。それは遠い町並みのようだ。細かい筆遣いで描き込まれた短く細い直線が、縦横に刻まれていて、それがキラキラ光って、白い壁や窓ガラスの反射に見える。
ピサロ『林檎の木』
ピサロについて色々読んでいると、温厚で柔和で、印象派の若い連中の優しい父親みたいだ、なんてイメージを持つことになる。
この絵も優しい感じ。木立のとぎれた草原に、葉をみっしり繁らせたリンゴの木がある。日差しは強い逆光で、リンゴの木の手前側は黒々と濃い影になっている。でも草原に落ちるリンゴの木の影は明るくて、影になっているはずの草原の葉の緑色もクッキリしている。それは、陽射しを浴びた地面が温かくなっているせいだろうか。光の当たっているところはそれ以上に輝いている。そんなリンゴの木の右側の陽だまりに二人の女性が、寄り添って立っている。母子だろうか? それとも姉妹? 二人は、温かい陽射しに、抱きしめられるように包まれている……
ピサロは本当に、優しい人だったのだろう。
ルノワール『モンマルトルの庭の娘たち』『髪を梳かす少女』
『モンマルトルの庭の娘たち』は筆で描かれたというより、フェルトを梳いたみたいな画面だ。画面の左端なんかもう、フワフワした赤が、フワフワした灰色の中に、絡みついているだけで、何が描いてあるのか分からない……いや、そもそも何も描いてない。
画面右端には、鮮やかな赤い服の女性が、荒い筆触ではあるけれど、ハッキリと描かれている。視覚混色や筆触分割など印象派の技法を、ああでもないこうでもないと模索している感じがする。
『髪を梳かす少女』になると、自分の技法をかなり確率している。「自分は、肌、肌着、髪の質感にこだわるのだ」と、肚をくくった結果こうなった。そんな感じ。
質感と言っても、直接触れた感触ではなくて、少女の輪郭をフワーッと包んでいる、温かく湿ったかぐわしい空気の層を描いている。少女の姿は、ほとんど光り輝くように描かれているんだけど、少し上げた二の腕と脇腹の間が、じっとりと暗くて……やっぱりルノワールはエッチですね。
ゴッホ『ボートの浮かぶセーヌ川』
コレ、見覚えあるなあ……美術館の企画展に貸し出されてた。ゴッホの点描の風景画。
分類すれば点描だろうけれど、視覚混色は使われていない。色彩よりも、筆致の効果に意識が向いているようだ。水面や木立や空のイメージを、筆のストロークの太さと長さで表そうとしている。
近くの水面は、一つ一つの筆遣いが指ほどに太く長いのに、遠くなるほど短く、細くなって、岸辺あたりはクリップほどだ。向こうの木々はさらに小さくなる。同時期にスーラも、シニャックもいたのだけれど、彼らの点描の思想からすれば点は均一でなければならないはず。それこそ、液晶モニタやオフセット印刷の画素が、大きさ形は皆一様であるように。ゴッホが、筆触の変化を主要な表現方法の一つとして極めていく、その過程が想像できる作品。
モネ『霧の中の太陽』
かの『印象・日の出』に近いけれど、太陽と、水面に映ったその輝きは、よりクッキリしている。霧も青く濃い。
絵具の層が厚いのかな? かすかに煙突らしきものなどが、うっすらと見えるのだけど、靄のこちら側に浮き出しているというより、霧の向こうに埋まっているように見える。
空気の存在感について、より意識的になっているのかな?
ゴーギャン『鵞鳥の戯れ』
川か池か、水辺の風景。水面はまるで油みたいにヌメヌメと斑になっている。鈍い鉛色とくすんだ灰色。冬なのかな? 奥の空き地は明るい緑色なんだけど、のっぺりとした様子で草は地に這っているのかな。手前の地面ものっぺりと赤くて枯草が土に帰りかけているのか。毒々しいほどの赤さ。紫の縞すら混ざっている。のたうち回るような細い樹が伸びて、カサカサした粉のような、細かい薄黄色の枯葉がまとわりついている。奥には平屋があるけれど、白い壁が斜めに伸びているくらいしかはっきりしたことは分からない。水面の白い影が鵞鳥なんだろうか? まるで幽霊か、ドクロのようだ。よく見ると、赤い地面と鉛色の水面の間に、洗濯をしているらしい女の姿がある。彼女のまっ白な頭巾だけかまぶしい。寒々しい風景のダメ押しに、むき出しの彼女の肘から先は、真っ赤になっている。
全体の雰囲気はおどろおどろしい、異様な風景なんだけど、妙に引き込まれるのは、無意識のうちに彼女のたくましさが伝わってくるからだろうか?
セザンヌ『風景』
太い樹の幹が交差しているのか? 太い筆で、生の絵の具の塊を、グチャッ、ベチャッと、なすりつけたような描き方をしている。コレ本当にセザンヌ? もっと後の、フォーヴの作品のようだ。セザンヌの頃から、フォーヴに繋がる要素はあったという事か。
シニャック『サクレ・クール寺院の創建足場』
点描の画家になる前の、素直に印象派していたシニャック。初めて見た。印象派といっても、かなり画面を単純に抑えている感じ。日本の初期の油彩画でも、こんな雰囲気の作品を見た気がする。草土社あたりかな? その前は何だっけ?
とにかくそんな感じで、基本に忠実な描き方。シニャックのこんな絵、初めて見たから、どんな感想を抱けばいいのか、よく分からない……
それでも、空の青さや壁の白さに草木の緑色といった、色彩の明るさと鮮やかさは、抜きんでている。この色彩を、さらに明るく鮮やかに、光そのものにするために、シニャックは点描を選んだのかなあ、なんて想いを巡らせてみる。
レオナール・フジタ『カーニュの風景』『女ともだち』『体操の時間』
1918年の『カーニュの風景』は、風景画といいながら、一見平面構成のよう。大きな白い壁、路地の石畳、奥に別の建物の壁、全てがモノクロームに沈んでいる。建物の隙間の奥に小さく見える青だけが色彩だ。その細い路地は、海に降りる坂道なのか、小さな人影がある。真っ黒に塗りつぶされて、下半身は既に坂の下に隠れている。第一次大戦終わり頃の、鬱屈した生活をしていた時期の作品か。この後、細い輪郭線と乳白色の肌の婦人像で、一世を風靡するんだけど。
1925年の『女ともだち』はその例なのかな。肌着姿の女性が二人。上半身を起こして座る金髪の女性に、体を預けるように横たわる女性。黒い後ろ髪を、金髪の女性の胸元にあずけるようにしている。ふくよかな二人の上半身を描いた作品。『女ともだち』って題だけど、藤田嗣治の友達なのか、この二人が友達同士なのか。たぶん後者。友達というには艶めかしい様子だけど。
『体操の時間』は1957年、A4くらいの大きさの小品。戦後、日本から離れてフランスに帰化した頃。教室らしき部屋で、子供たちが等間隔に並んで手足を伸ばしている。子供たちの姿は妖精のようで、絵そのものも、幻想的な雰囲気があり、絵本の挿絵のように物語を感じさせる。
ピンポイントで藤田嗣治の作風の変遷がわかる三枚。やはり意図して集めたのかな。所有者のコレクター魂を感じる。
ドービニー『沼の風景』
ぱっと見、スゲェ細かく描き込んでいるのにビックリする。
よく見ると、水辺に生えそろった葦は、絵具を引っ掻いた跡が並んでるだけだったり、並んで泳いでいるカモは、絵具の滴を飛び散らせただけだったり、岸辺の木々の繁った葉は、毛をバラバラにした筆で叩いた跡だったり、その木の幹は、ナイフの先で削った線だったり、雨が近そうな雰囲気のある空は、筆跡が残るほど、乱暴に塗りたくっただけだったり。いい加減に引いた短い線に、白い点をポツポツと描いただけなのに、舟に乗った人物に見えたり。
こんなワイルドな描き方なのに、どうして写実的な描写に見えるんだろう?
いや、荒っぽい描き方のように見えるけど、結果的には細部まで読み取れるって事は、実質的には細かく描いているって事なのかな?
とにかく、眼力と筆力がとんでもないのだ。
ムンク『ブルーベリーを摘む子供達』
画面は明るく、そもそも題材もほのぼの系。
二人の少女は、青とピンクのエプロンドレスで、フワフワの金髪はタンポポの綿毛みたい。濃い緑の大きな木に、夢中になってしがみついているのか、今にも埋まってしまいそう。だけど、薄く空の色を写したように明るい、白い壁の大きな家が、二人を見守っているみたいで、何の不安もない。
幸せな風景……コレほんとにムンクなの?
いやまあ、ムンクだって、ずっと叫んでいたわけじゃない。ムンクといえば、不安・孤独・恐怖と決めつけていたのが、申し訳ない。ムンクにだって、幸せになる権利はあるよね!
この絵に出会って、ムンクにも確かに幸せな時があったんだと分かりました。それがとても嬉しい。
ターナー『フォントヒルに建築中のゴシック様式の修道院の眺め』
大きい絵なんだけど、描きかけなのか、退色したのかと思うくらい、全体が薄いベージュのフワーッとした風景。襖絵を横にしたみたいな感じ。絵の前に立っていると、建築中の修道院とか、丘陵の輪郭や、そこにポツポツと乗っかっている灌木など、だんだん見えてくる。しかし、見えれば見えたでどんどん分からなくなってくる。この風景を見てる自分は、いったいどこに立っているのか?
地平線は画面の半ばより少し下。視線の高さがそこならば、フワフワ浮かんでいるのかな?
ローランサン『婦人像(少女・インドの扇)』
黒い瞳に白い肌、金髪も銀かと思うほどに薄青い。髪飾りはリボンかな。薄い緑青色と柿色の、薄い帯がゆるりと、頭の上から肩のほうへ流れている。その流れは、首飾りの曲線に繋がって、卵型の頭の周りを、首と胸元まで含んでクルリと囲む楕円をつくっている。さらに頭のてっぺんから肩、二の腕への曲線は楕円の半分。つまり三つの楕円が、女性の顔を焦点に重なっている、そういう構図。
ローランサンの作品を見るとき、雰囲気や色彩の穏やかさ、優しさに気持ちを持っていかれがちだけど、実はそこには、宝石のカッティングみたいな、クールというか、スマートな構造があって、キリリと引き締められている。
知的な優しさとでも言うのかな。たまりません。
キスリング『マルセイユの港』『花』
少し上目遣いの、やたら眼力のある瞳と、艶めかしいのに、キリリと結んだ唇の、女性像が印象的なキスリング。
こういった、風景画や花の絵は、あまり見た記憶がない。
『マルセイユの港』は、海も船も桟橋も、ポスターカラーで塗られたみたいに、ペターっとしている。1932年の油彩画なのに、現在のイラストレーションみたい。むしろ、油彩なのにこんなピカピカした画面がつくれるのか、っていう驚き。南国リゾートを描いた、シルクスクリーンのポスターのような魅力。アルプス北のポーランド出身のキスリングが、南フランスのマルセイユの港を見た時の、驚きや喜びを表すために、こういう描写になっているのかな。
『花』は、花の絵が描かれた花瓶に、花が生けられている、という冗談みたいなモチーフ。花瓶に描かれてる花の絵は、イラストレーションどころか、マンガみたいに単純化された楽し気な絵柄だ。その代わり、花瓶に活けられた花は、妙に生々しい。ドロリとした油絵の具の質感を残し、筆でヌルリとなすった跡を残す。テカテカ光って、ガラス細工みたい。
ユトリロ『村のカフェ』『ヴィックシュールエーヌ教会』
『村のカフェ』は1909年の作。画家としてデビューしたての頃。既に白い壁が画面の大半を占めていて、人物はいない。でも広々とした壁も空も明るくて、窓は光っているし、空と建物の間の輪郭線も、白く描かれていて、全体的に明るい雰囲気。光に満ちた、初期印象派の影響かな。それが1915年の『ヴィックシュールエーヌ教会』では、光が弱々しくなって全体的にセピア色の影に覆われているみたい。画面が重い。最初に見た時、ゴッホの『オーヴェールの教会』に似た感触があった。構図は似ているが、もちろん、色味も筆致も全然違う。それでもやはり、まとわりつく孤独や不安と格闘しているような気配は似ている。ちょうどユトリロも、このころ精神を病んでいた。最盛期の白の時代が終わって、これからどうしようかって頃。空も黄土色に濁って、輪郭線も茶色く滲んでいる。窓は黒くて、開いているかどうかわからない。横切る板は、格子か、打ち付けられているのか。頭の赤い人物らしき姿が、いくつか黒い杭のように立っている。
ユトリロの絵に人物がいるなんて珍しいなあ。人間らしさはないけど。彼らはいったい、誰だろう?
モディリアーニ『若い女の顔』
全般的に薄塗りなのか? 栗色の眼も瞳がはっきりしない。薄っすらと青みがかった白の印象。1918年だったら名古屋市美術館の『おさげ髪の少女』と同じ頃だろうけど、雰囲気が違いすぎる……いや、モディリアーニの代表作なんて、最後の数年でまとめて出てるんだから、いろんな傾向の作品が出てるのは当然なんだけど……完全に自分の個人的な感覚で言っていいのなら、ちょっと冷たすぎるような……
この絵を飾ると、部屋が少し寒くなりそう。
ルソー『待ち伏せする虎』『アフリカ雄ライオンと雌ライオンのいる南国の小路』
ルソーが描く植物は、熱帯植物園のスケッチを基にしているとのこと。まっすぐな茎の左右に、大きくて分厚い葉が並ぶ植物なんて、虎のいる地域の植物じゃない。そもそも実在の植物ではない。でかすぎ。虎が葉っぱに乗りそうなレベル。熱帯の日光に焼かれて、重なる葉は黒々と濃くて、いったいこのジャングルはどれだけ奥まであるのだろう。無限の遠くまで、ベットリとした緑の闇が織りこまれている。
その一方でライオンのいる世界では、まっすぐな一本の茎に肋骨の様に左右に葉を伸ばして、頭に丸々とした花をつけた謎の植物が、一列に並んでいる。その向こうはすぐ、薄汚れた雲のように細部のないのっぺりした遠景で、上半分は白い空。その真ん中に赤い丸。夕陽や朝日にしては小さい。昼の太陽がこんなに真っ赤なはずもない。満月の夜を色だけ黄砂の午前に変えたような風景。
無表情のライオンは、顔を見合わせるでもなく、お互いの存在に気付いてもいないようだ。そもそも感情すらなさそう。虎の目も虚無を感じる。どこまでも、感情移入を拒むような風景なのに、だからこそ、自分の中にかき立てられる感情を意識せずにはいられなくなる。
ヴラマンク『花瓶の花束』
色ガラスを練ったみたいな画面。A4くらいの大きさ。実物の大きさかしら。背景は左右に白黒真っ二つ。背の高い細いグラスのような花瓶は、光の屈折で背景と逆に白黒真っ二つ。白いガラスに、赤いガラスを少し混ぜて、溶かした塊をグイと引き延ばしたみたいな、大きな花弁が三つ四つ、グラスの上に盛り付けられている。花の絵なのに、茎も葉っぱもなくってモノクロだ。白い丸の中にシュッと走った赤い筋だけが、コレは花だと、強引に分からせる。
実物を置くよりも存在感がありそうだ。
シャガール『おおきな花束の新婚夫婦』『春と夏の間』
『おおきな花束の新婚夫婦』は、花束をメインにした作品。画面は全体的に花びらで埋め尽くされたように赤い。縦長の画面の半分を埋め尽くす勢いの、赤い花が活けられた、壺のような形の花瓶が、画面の中央、上から下まで、めいっぱい描かれている。
その足元、左右に小さな花瓶。大きな花瓶と同じ形。左側の花瓶を覗き込むように結婚式の衣装で寄り添う男女。右側の花瓶の上には、村の教会。下にはロバ。
シャガールのいつものモチーフ全部乗せ。まあシャガールはいつだって、モチーフは一通り描くんだけど。でもここまで花束をドカンと押し出したのはこれくらいかな。
『春と夏の間』は、画面が赤紫、緑、赤、黄色と切り分けられて、それぞれに男女、リンゴのカゴとパンと飲物のビン、村の風景、太陽が描いてある。モチーフの連続で、物語性を出してくるパターンの作品。ビンと村の間には花束の活けられた壺様の花瓶。塗り分けられた背景が、まるで舞台と幕と背景のホリゾントみたい。幅二メートルくらいあるかなあ。画面が横長なのは劇場っぽい。タイトルからして、季節の一シーンを切り取っている。境界が交差していて、各シーンがメリーゴーランドみたいに、クルクル移り変わっていくようにも見える。本当に、音楽が聞こえてきそう。
この絵が飾られた部屋は、いつも楽し気な空気に満たされているだろうなあ。
展示されている絵画の全てに、愛される理由と、愛されているという事実がありました。
最初に書いた通り、美術品はまず個人の手に渡る、という事は承知していたし、企画展などで、何度も「個人蔵」という単語は見ていたけれど、自分はその意味を、本当には解っていませんでした。
美術品は美術館で見る、という経験ばかり積んできたため、それが先入観になっていたかもしれません。
感動が、あくまで個人的な経験だというならば、芸術が感動から生まれ、感動を生むものであるならば、芸術は個人から生まれ、個人に対して働きかけるものだ。
そんな事、とっくに分かっているつもりでした。
しかし今回、個人の手にあって、その人と生活を共にして、人生の一部になっている作品たちと実際に向き合って、全く分かっていなかったと思い知りました。
愛されている作品には、愛されている理由がちゃんとある。愛されていることが、はっきりと伝わってくる。
そういう作品は、もうその家の一員になっているのです。
例えるなら、美術館にかざられている作品は、学校や会社にいる人で、個人の家にある作品は、自宅にいる人、といった感じでしょうか?
人間に、社会での価値とプライベートの価値があるように、美術品にも、美術館での価値と、個人の家での価値がある。だとすると、自分は今まで、美術の価値の片方だけしか見てこなかったという事になります。
自分には、美術品を持つような生活ができるかどうか、分かりません。多分、無理です。今の自分が見る事の出来ない、美術のもう片方の面は、永遠に見られないままでしょう。
それでも不思議な事に、自分は嬉しく思うのです。
自分の好きな美術というものには、自分が想像した以上に、大きな価値と、深い意味があったのです。
それが、自分には永遠に理解できない、味わえぬものだとしても……いや、だからこそ……自分の器を、遥かに超えたものだからこそ、憧れるし、愛したいと思うのです。
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— レオナール・フグ田🐚 (@LeonardFouguta) January 5, 2025
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