東京国立近代美術館『ハニワと土偶の近代』
またも順番は前後しますが、東京箱根美術館めぐり二日目に行った東京国立近代美術館『ハニワと土偶の近代』の感想を先に。なぜかというと、次の配信を見たからです。
実はこの、「ハニワと土偶の近代」の展示についての感想はちょっとモヤモヤしたものだったのですが、こちらの配信を見てそれが解消されましたので、それについても記録できればと、とりいそぎ。
おおまかな感想。
最初の感想は「見たかったハニワや土偶がない」……
てっきり、大好きな動物系の埴輪、馬の埴輪やお猿の埴輪、ムササビの埴輪とか、色々見られると思ってワクワクしてたんだけど、そういう展覧会じゃなかったのがデカい。
そういうのは、十月十六日からの東博の展覧会で見られるという話。でもその前々日に自分は三河に帰るので、見られません。まあ、ちゃんと調べてなかった自分が悪いんだけど。
動物埴輪以外だと、靫(ゆき)形埴輪とか、蓋(きぬがさ)形埴輪とか、翳(さしば)形埴輪とか、盾(たて)型埴輪とか、そういう、具象で作っているのに抽象に寄っちゃった系の埴輪も好き。でも無かったなあ……
「靫(ゆき)形埴輪」というのはこういうの。
一目瞭然、矢を刺して持ち運ぶアレ。
挂甲の武人埴輪の、背中にもペタッとついてるヤツ。
「蓋(きぬがさ)形埴輪」というのはこういうの。
この資料のモノは単純な形のフタだけど、この上に、左右に広がるでっかいウィングがついてて、スッゲェかっちょいいヤツとかある。
「翳(さしば)形埴輪」というのはこういうの。
翳(さしば)って何ですか、という方がほとんどでしょう。私も今知りました。日本古代史Vtuberのきら子さんが、下の動画で説明されているので、ご参照ください。
盾(たて)形埴輪はこういうの。
正確には、コレ石見型盾形埴輪というのか。無かったなあ。
盾の上に人の頭がひょっこり出てる「盾を持った人物埴輪」はあったけど……
そうじゃない! そうじゃないの! 盾だけのが見たいの! 御幣のような形に幾何学模様のデザインを見て「ヒューッ! クールだぜぇ! コイツが千五百年前かい?」って、口笛を吹きたいの!
まあ、何が無かったかを話してても、仕方がないんだけど……なんというか、基本的に埴輪は人物系に絞っているのかな? いやそれでも、埴輪目当てに来た者にとっては、この少なさは辛い……それが最初の感想でした。
展示意図が見えすぎるのも善し悪し……?
一通り見終わった時の感想。
「地面を掘ると、何か昔のモノが出てくるぞ」から始まり、それをただ面白がる「好古趣味」だったのが、「考古学」になる。明治維新の後、日本人というアイデンティティを創る過程に、いかに土偶や埴輪が関わってきたか。
太平洋戦争が近づいてくると、埴輪の武人は国威発揚の絶好のモチーフに。相応に迫力のやはり国の支援があると、デカい作品ポンポン作れるな。とはいえ、そういうのは基本的に同じテーマ、画一的なメッセージになりがちなので、見応えがあるかどうかというと……うーん……
戦争が終わると、土偶や埴輪も、明るい博物館の展示室で、すっきりした女性たちに鑑賞される存在になる。さらには、解放されてドッと入ってきた芸術、美術に与えられる、様々な舞台に伴って拡散していく表現。
それに耐え得るモチーフ、芸術家にエネルギーを与える源として、土偶や埴輪は新たな活躍をはじめる。
新しい活躍の場は、漫画等のエンターティメントの世界まで広がってゆく。すでに古典となったその代表が、NHK教育の『おーい! はに丸』というわけ。
うむ、それは分かる。分かるが……うーん……
たぶん間違ってるけど、雑にまとめればこんな感じ。
個人的には
「この作品のコレと、あのあ作品のアレ、つながってるんじゃないか?」とか、
「コレやコレを作ったこの人、アレとかアレ作ったあの人に影響受けてそう」とか、
自分で繋がりを見つけて、自分なりのストーリーをそこに作っていくのが楽しいのに、それを展示側で全部、お膳立てされちゃったような気分に。分かりやすいのは良いんだけど、色々と、もっと面白くなるはずのトコロが、ポロポロ落ちてるんじゃないかなあ、と気になる。
「好古と考古」には、もっと波乱があったのでは?
例えば明治維新の後に、日本人としてのアイデンティティをどう作って行くかなんて、おそらくほとんどの日本人が悩んでいた事だろう。
横山大観なんて水戸藩士の子だから、国粋主義バリバリで、彼の描く富士山は皆、皇統の象徴だとか、フェノロサと岡倉天心による救世観音の発見は、信仰の対象が鑑賞の対象へと変わる物語だとか、民芸運動には、浄土系の思想から鑑賞を信仰に近づけようとする一面があったのではないか、とか。江戸末期まで趣味や娯楽、日常生活だったものが、いきなり民族のアイデンティティにかかわる存在にされてしまった事で、どれほど多くの悲喜劇があったか。
……そういえば、柳宗悦の民芸運動に、好古の要素はなかったのかしら。いつだったか、弥生式土器を花入れにあつらえた茶室を見た事があるけれど、そんな感じで。百年前の民具を愛でるんなら、千五百年前の民具だって、愛でずにはいられないだろうに。
河鍋暁斎や都路華香が、埴輪の作者を記紀にある野見宿禰に仮託するのは、自分の生業も日本民族のアイデンティティの確立につながるのだ、という自負があったのだろう。
しかし出土物を学術的に分析する考古学は、そんな思い入れをはぎ取っていく。すんなり受け入れられたとは思えない。そのあたりはどうだったんだろう?
救世観音の封印をはがしたのが大事件だったんだから、古墳から副葬品を持ち出すのも、相応に抵抗があったと思うんだけど、特にそういう解説もなかったような?
大正時代の扱いが薄くなるのは、よくある話。
特に大きく印象に残る作品もないまま、戦前のプロパガンダ作品に移っていく。
あれ? 日清・日露の戦争から、その後の大正デモクラシーまで、さらっと時間が消えている? この時期は梅原龍三郎や萬鉄五郎や岸田劉生が暴れまわってんだけど、土偶や埴輪には関係なかったのかな?
戦中についても疑問がある。
国威発揚のためという名目で、埴輪や土偶をモチーフにした作品が、プロパガンダとして、どれだけの効果を上げていただろう? そこがよく分からない。
それこそ、従軍画家になった藤田嗣治は戦場の様子を、小磯良平も占領下の諸国の風景を描いている。そういった直接的な作品の方が、効果があったんじゃないかしら。
コレは、埴輪の武人のイメージが、どんな風にどれくらい、当時の世間に認知されていたかによるのかな?
場合によっては、埴輪などに象徴化しようというのは、少しでも直接性を廃して、現実から離れたいという努力だったのかもしれない。それが是か非かは別として。
「戦時下の芸術家は、埴輪の武人のイメージを使って国策に従った作品を作っていました」
なんていう単純な話じゃないのは、確かなんだけど……
戦後、拡散するイメージ。
戦後の美術家たちの展示の事を書く前に、一つ告白など。
「自分は、耳学問の半可通だな」と思い知った話。
冒頭に挙げた動画で、儒烏風亭らでんさんが
「好きな吉原治良さんの作品があったのが嬉しかった」
と語っていたのですが、自分は気づかなかった。それで図録を見返してみたら、確かにあった。自分は、吉原治良氏というと『円』しか知らなかったから、気付かなかったのです。
で、吉原治良氏について調べてみたら、シュルレアリズムの画家で活動の中心人物なのでした。戦前から、エルンストの『セレベスの象』を思わせるようなダイナミックな作品などをバンバン出してる。
自分は代表作の『円』のシリーズだけ見て、分かったつもりになっていた。ちょっとしか見てないのに、分かったつもりになるなんて、全く知らないよりも、よっぽど悪い事だ。
それに比べて、儒烏風亭さんは真っ当に学び、知識と経験を積み上げているから、たくさん並んだ一枚の絵であっても、見落とす事がなかったのだ。
やっぱり「ちゃんと勉強をした」人は違う……その場の興味に任せ、手当たり次第に食い散らかしている自分とは、世界を見る時の理解度、解像度がまるで別次元だ。
この事に気づいた時、まるで頭の後ろをブン殴られたようなショックで……しかしこの、目からウロコが落ちる感じが……気持ち良くって、もう、たまらない……という。
儒烏風亭さんを追っていると、こういう快感がしょっちゅうあるから、儒烏風亭さん推しがクセになってしまって、
「ああ、儒烏風亭さんにもっとブン殴られたい……」
などと、ヤバい事をつぶやきはじめるオッサンが自分です。
キモい性癖告白につきあわせて申し訳ない。閑話休題。
吉原治良。
で、その作品はどんなだったかというと、『涙を流す顔』という油彩。作家の名前は憶えていなかったけど、作品自体はインパクトが強くて印象に残っている。
土偶や埴輪のスケッチが多数残っている。この作品も土偶を基に発想されたのではないか、との事。しかし、デフォルメされた人物は、藍色の背景に、染め抜かれたように白くて、まるで闇の中の空虚のようで、土偶のような存在感はない。いや、あるんだけど、周りの深い藍の重さのせいで、土偶のような生命力じゃなくて、その逆、地中深く埋められているような、マイナスの存在感というか……引っ掻いたような線とフロッタージュのような画面処理は、素焼きの質感に見えなくもない。そこだけ赤いリボンと両手の、暗く沈んだ色が、土器に塗られた弁柄を思わせるのか……というのは、ちょっと苦しいかな。
そこだけ妙に生々しい、滴る二筋の涙……この作品を作っていいる時に、吉原治良氏は何を考えていたんだろう? それは土偶や埴輪になぞらえるのにふさわしいものなのか?
戦前の作品と比較したり、ここから『円』に至る変化を追わないと、ちょっと分からんなあ。
日本の抽象絵画の重要人物らしいし、これから折を見て勉強してみようかしら。なにより儒烏風亭さん推しの画家だ。「推しの推しは推し」と、ゲーテも言っているし。
斎藤清。
ウルトラマン! もう誰が何と言おうとウルトラマン!
あれ、成田亨氏ってこのころだっけ?
……後で調べたら、成田亨氏が二十歳くらい年下でした。
男性全身像の『ハニワ』で、体を大胆に色分けするあたり、どう見てもウルトラマン。顔もなんだかスペル星人っぽい。1954年だからまだ十年も前だ。『埴輪(婦人)』の横顔も、小さく細い目、幾何学的な耳、単純なフォルムに還元された頭の形とか、どう見てもザラブ星人とかキュラソ星人とかの感覚だったり。
斎藤清氏は、マティスに師事した版画家ということなので、そりゃあこういう画風になるのも、むべなるかな。
この後、成田亨氏によってデザインされるウルトラマンも、どこか埴輪ッポイと言えば言えなくもない。
目鼻口の単純化とか、鼻筋のつくりとか。
埴輪から斎藤清、成田亨といった1950-60年代の現代美術、そこからウルトラ怪獣、そしてそれ以降の、特撮やアニメのキャラデザへと続くライン。実感として確かにありますね。
この展覧会でも、大映『大魔神』のプロップや、色々な漫画も展示されていましたが……この辺は、美術からエンタメへ、という別の話になっちゃいそう。土偶や埴輪がその軸として機能しているのは何故か、というのは、非常に強力なテーマだけど、そんなの、どれだけ語ってもキリがないですね。
イサム・ノグチと岡本太郎。
現代美術……というよりも、1960年代以降の日本の社会に、縄文時代の魅力を広めたのは岡本太郎氏だというのは、もう通説なのだろう。イサム・ノグチ氏も、多大な影響を受けていた……なんてのは意識してなかった。だけど、実際に作品を見せられると、なるほどって感じ。でも、どちらかというと埴輪に近いかな。むしろ、弥生式土器の影響じゃないの? って作品も多かったけど。
花器サイズの立体造形作品、十畳か十二畳かって広い床に、ポンポンと置く展示方法、流行ってるのかな? その方法でイサム・ノグチ氏、岡本太郎氏の作品以外にも、陶の作品が色々出典されていた。
ほとんどがテラコッタ、でなければ土味を生かした作品。
しかし、どこまで土偶・埴輪の影響を受けた作品なのかは、一概に言えない気がする。
ヘンリー・ムーアやマックス・エルンスト、ホアン・ミロの影響の方が大きいのでは?
そういうの、立体以外の現代美術の作品でも、色々と感じる所があって。確かに土偶や埴輪、縄文から弥生、古墳時代に至る、過去の人々の感性に迫ろうとしている、そんな古代のエネルギーを取り入れようとしているってのは、間違ってはいない。でも、それはその作家や作品のごく一面にすぎないじゃないか! その作家がそういう作品を作った背景には、もっと色々あっただろ? という違和感からは、どうしても逃れられなかった。
戦前と戦後の前田青邨。
『小碓尊』はヤマトタケル、1903年ごろの作品。日露戦争の前年だ。『大久米命』は神武東征の英雄。1907年の作品。二年前に日露戦争終戦。『石棺』は1932年の作品を、1962年に
リメイクしたもの。1932年は満州事変の翌年、5・15事件が起こり、翌年に日本は国際連盟を脱退する。
時代や世相の影響も、そりゃあるだろうけど、『小碓尊』『大久米命』が描かれたのは二十歳そこそこで、『石棺』をもう一度描いたのは七十歳寸前。そっちの方が影響大きいんじゃないかと思う。
若い頃の作品は、やっぱり脂っこくて、分かりやすい。
『石棺』は、枯れた印象もあるけど、謎めいた雰囲気の方が強いかなあ。弁柄の赤は燃えるようにまぶしいのに、人物はどこまでも静的。死んでるんだから当然だけど、冷たいのに何か穏やかというか、時間が止まったような感じがする。
1932年Ver.はどんな感じなのかな。五十歳過ぎか。斜めじゃなくて、まっすぐ横向きに石棺が描かれていたそうだけど……そこまで改変したら、リメイクじゃなくて新作では?
同じ作家の、戦前と戦後の違いというのも、また別の大きなテーマだ。
猪熊弦一郎・三岸節子・鳥海青児。
土偶・埴輪のモチーフはドンドン広がり、それなりの画家はみんな描くものになった。しかし、芸術家に言わせれば、
「確かに、インスピレーションは土偶や埴輪から受けているけれど、描くのはあくまで、今ここに生きている自分自身なんだ」
というだろう。それこそ岡本太郎氏も、イサム・ノグチ氏も斎藤清氏も、吉原治良氏も、前田青邨氏も。
最初に、そこに気づけなかったのは、自分がまだまだ彼らの作品をよく知らないせいだった。
それに気づいたのは、猪熊弦一郎氏の作品を見た時だ。展示されてたのは1969年の『驚くべき風景(B)』という作品。土偶や埴輪に絡めて、猪熊弦一郎氏の作品を展示するなら、『顔』のシリーズとか、もっとそれらしいのが、いくらでもあるだろうに。それでも、あえて、土偶や埴輪からは遠い、むしろ正反対の、都会的な作品を持ってきている。
とはいえ、決して根源的なものは失われていないのだけど。三岸節子氏や鳥海青児氏の作品もそうだ。モチーフとしては土偶や埴輪が描かれているけど、近代日本の洋画家としての自己主張がしっかりと入っていた。
最終章は、土偶や埴輪から受け取った根源的なモノを、守りつつも克服していく様子を示すコーナーだったのかな?
芥川(間所)紗織と、今回展示されなかったひと。
でもやっぱり、日本人の根っこにある土偶の泥臭さや、埴輪の抽象性というものには、抗いがたい魅力がある。
芥川紗織氏は、ロウケツ染めで古事記の一節を描く。
名古屋市美術館で見たのは、スサノオに対しウケイを仕掛けるアマテラスを描いた作品だった。
こちらで展示されているのは、黄泉の国から逃げるイザナギ、それを追うイザナミという作品。
火花のようなトゲトゲ、水のようなグルグル、所々に目玉や手首など、人の体の一部のようなモノがある。土偶や埴輪とは違うけれど、縄文の、火炎土器を思わせる作風ではある。
古事記に取材した作品なのに、前田青邨氏の作品とは真逆の印象だ。縄文を手掛かりに、新しい日本の美術のありようを開拓した作品、ということか。
実はそういうの、自分は大好きで、いくつか気に入っている作家もいたり。
今年初めに、愛知県美術館の『コレクションズ・ラリー』に展示されていた作品なんだけど。
一人は、加藤紘一氏。画家だったのだけれど、後にテラコッタによる陶芸作品の制作を盛んに行う。素朴にも程があるぞと言いたくなるほど、テラコッタという素材でしかありえない純真無垢なイメージの作品たちだった。
もう一人は、岩村通氏。埴輪のような象を創るけれど、その作品の表面には細かく波のような模様が刻まれ、縄文土器のような質感にしていた。埴輪のプロポーションに、縄文土器のテクスチャーをまとわせて、現代風のキャラクターに仕上げている。
この二人の作品は、こちらの展覧会には来ていなかった。
この展覧会を組んだ人と自分の、感性というか土偶や埴輪に対するイメージが、ちょっとズレてるなと感じたのは、このへんも理由。
良い展覧会ではあったんだけど、自分にはちょっと消化不良だった。東京国立博物館で、はにわまみれになっていれば、きっとスッキリして、この展覧会の価値も、もっとしっかりくみ取れていたんだろうなあ。ちょっと悔しい。
……はに丸王子で少しだけ報われたけど。
見に行きたくなった展覧会について。
というわけで、リベンジを考えたのだった。
追いカツオや追いマヨネーズ、追いオリーブオイルなんてのまであるんだから、追い美術館とか、追い展覧会があってもいいじゃないか!
幸い、近場に、それにピッタリな展覧会がいくつかあった。問題は東京・箱根遠征のレポートを書き終わってないこと。行きたいけど、いったいいつになることやら。
豊田市博物館「旅するジョウモンさん」
目玉は十日町博物館の国宝火焔土器!
展示資料一覧によれば、他にも深鉢土器とかいっぱい。
大好きな釣手土器もそこそこあるのが嬉しい。
出土場所が、豊田市周辺が多いのは地元だから当然だけど、九州・北陸・甲信越あたりが多いのは、やはり弥生人に追いやられたせいかなあ……滋賀は畿内に入るかな?
「旅する」なんてタイトルなので、そういう縄文人の移住についての解説もあるのだろう。
豊田市民芸館「アイヌの美しき手仕事」
アイヌは弥生人に追いやられた縄文人だという説が、あったようななかったような。
確かに縄文土器のうねり巻き付くデザインは、アイヌ工芸の意匠に通じるものがある……ような気がする。
でもソレ言い出したら、アジア各地やオセアニア、アラブやアフリカ、南北アメリカ大陸にも、みっしりと詰まった太い渦巻き模様の意匠はあるんだよなあ。
伝来した事実が無かったとしても、生活の様式や環境が近いなら、採用するモチーフが同じだったり、感性が似ていても不思議じゃない。
十一月は色々忙しいんだけど、さてどうなる事やら。
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