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高浜やきものの里かわら美術館・図書館『美術鑑賞の「さしすせそ」』


美術鑑賞の入門となる事を目指した展覧会とのこと。
あえて、ややこしい話になりそうな主題・時代・技法などは無視しようという、思い切った提案。
その代わりとして「さ」「し」「す」「せ」「そ」の五つの視点で見て欲しいという、なかなか攻めた企画です。

さ=作品

堀泰明『祇園新橋』

日本画。
瓦屋根の建物とアスファルトの道路。平坦と思われるけど、屋根と道路を無意識のうちに見分けてしまう。これは微妙なグレーの違いが見事だからかなあ。人の姿が見えないので、白い光が薄くかかっているような明るさのせいもあり、早朝の風景に見える。それとも、人はこの緑の繁った下に隠れているのかな? 人の姿は描かれていないのに、どこかにいるような気配がしている。

戸田提山『炎』

書。
絵画ではなく書だ。炎という字が書かれているはずなのに、光という字に見える。筆跡の下は輪郭が濃くクッキリして、上はぼやけて白い紙に溶け込んでゆく。
まるで炎の光そのもの。書だけど、絵画なのかもしれない。

川瀬巴水『尾州半田新川端』

川瀬巴水『東海道風景選集 尾州半田新川端』

版画。
川瀬巴水の現物は、なかなか見る機会がないけれど、見れば見たでどうしていいのか分からない。
このグラデーションとか、版画なのにどうしてこんな表現ができるんだろう?
しかしこの、スゥーッと均一な色の感じは、版画でなければできない表現だ。この染められた色味のために、版画という表現を選んだのだろうと思う。
それにしても、細かい雪ががちりばめられて、空気が梨地になったような画面、気が遠くなりそうだ。傘に書かれた黒い文字に、雪がかかって斑に消えているトコなんて、いったいどんな手を使っているんだろう?

名取久作『郊外晴日』

名取久作『郊外晴日』

写真。
……写真なのこれ? これこそ、版画に見える……
アクアチントか何かでしょ? でなけりゃ木炭画か……
違うの? やっぱり写真? うわあ……
写真は対象を忠実に写すもの、という概念が壊れちゃった。
このジワーッと光が溶けて、滲んだような空。まだ濡れてる薄墨みたいなテロテロ感……コテコテした土手の黒は、木炭の粉がまだ積もっているようにモヤモヤしている。
どうやって撮ったんだろう? 撮ったらこういう絵になる、って分かってたのか? なんで? とんでもないなあコレ。

し=色面

関野準一郎『長崎孔子廟』

関野準一郎『九州 長崎孔子廟』

上から見下ろすと、屋根がいくつも重なり合って、ずぅっと下の方へと下っていく、いかにも「坂の街・長崎」の風景。
折り重なる屋根、その隙間にねじ込まれたような樹木の緑、そこにピッカー! と光る金色の屋根。色ばかりではない、形もピンピンとツノが立っている、異質な存在だ。それを、
手前の屋根を、左右にかきわけて覗いた。そんな、見る側にはっきりとした意思が存在する構図。
すげぇライブ感。

関野準一郎『那覇壺屋』

関野準一郎『九州・沖縄 那覇壺屋』

石垣も、その上の斑の土壁、シーサーの乗った筒瓦の屋根。壺屋は、沖縄の陶工の街。沖縄の陶器「壺屋焼」は、民藝に求められる野趣、使用感、庶民の生活の力、職人の熟練と、全てを備えている。この建物のように。
この屋根が斜めになって、脇腹を見せるようにネジった姿は肩をイカらせて揺すっているようだ。
その周りを巻くように道が続いていて、画面全体が、建物の周りをグルグル回る視線のように動いている。
こちらもライブ感すげぇ。

中島佳子『ぶどう棚シリーズ・風景』

ブドウ畑の中に、白いビニールハウスがある風景……だけど、どうしてこんなに不穏なんだろう?
黄色く濁った暗い白の上に、紫がかった黒い線が横たわり、グシャグシャと絡みあっている。ベッタリと平面に押しつぶされた、内出血のような色。赤錆色の細い柱は、ブドウ棚の支柱だったものだろうか? 感情を殺したように、無表情に垂直に、ただ立っている。光るように白いビニールハウスの中だけが、何か生き物がいる感じがするんだけど、うっすらと透けるのは、赤みがかった紫色で、何かまがまがしい感じで、よけいに不安を煽る。

西村千太郎『バルコニーから』

西村千太郎『バルコニーから』

色面は、色だけではなく、塗られた部分の質感も含む。
この絵は、だいたい絵具を盛り上げて描いているのだけど、バルコニーのこちら側は、見るだけで、ガリガリした感じが伝わってくる。手で触っている気がする。手すりのゴツゴツした表面で、手のひらをすりむきそうだ。だけど、手すりのむこうの遠景は、細かいけれどにじんだようで、触った時の感触が全く思い浮かばない。
透視図法や空気遠近法だけじゃない。遠近感は画面の触感で表現することもできるようだ。
写真だと伝わらないなあ。やはりゲンブツを見ると違う。

山田光春『角の魚周』

山田光春『角の魚周』

これも、写真では伝わらないだろう。
縦80cm、横65cmのカンバスなのに、中の建物は妙に小さく感じられる。実在の建物のはずなのに、見ているのは油絵のはずなのに、なんだか手の上に乗るサイズの、ミニチュアを見ている気がしてくるのだ。
ダンボールを雑に張り合わせて、絵具を塗ったような、壁の質感もそうだし、地ベタから屋根まで、同じくらいの目線で見ているようで、二階だからといって、見上げている感じは全くない。煙突から出る煙もオモチャみたい。
ただ、物干しにぶら下がった小さなシャツだけが、塗り方が全然違っていて、ここに誰かが住んでいると示している。

す=スケッチ

宮脇晴『裸婦デッサン』

宮脇晴の裸婦デッサンは、あまり美人に描かない感じ。少し垂れてたり緩んでたりする。かといって、それほど生々しいというわけでもない。見えない普段着を着ているというか。
ポーズを取ってはいるんだけど、ポーズを決める前か後か、ちょっとズレたタイミングを捉えているようにも見える。
形ではなくて雰囲気を描いているのかな?
視覚で捉えた形をただ紙に乗せるのではないのだ。
スケッチは、自分が何を見ているのかはもちろん、どれだけ見えていないのかまで、全てあからさまにしてしまう。
恐ろしいなあ。

杉本健吉『寺院風景』『明日香』『屋根』

杉本健吉『寺院風景』

杉本健吉のデッサンがずらり。それだけで浮かれてしまう。杉本健吉美術館が閉館してから、なかなか見る機会が無くて寂しかったんだよなあ。デッサンだけでもありがたい。

デザイナーとしても活動してたせいか、やはり対象の印象を重視したスケッチだと思う。東大寺の土蔵に暮らし、奈良を描き続けて掴んだものは何だったか。
同じ雑木の藪、荒っぽく描いているけど、樹の種類の違いがなんとなく感じられる、筆の走らせ方の違いが面白い。
直線的だったり、弧を描いていたり、太さ、濃さ、筆圧から速さまで全部違う。

杉本健吉『無題(明日香)』

ゆるりと覆いかぶさる、蒼穹の明るさが、薄い灰色の格子にメモされているようだ。木に覆われた小山は、濃い墨の色で盛り上げられて、分厚い葉を幾重にも茂らせた、たっぷりとした水気を感じる。
奈良盆地の湿度の高さまで描かれているのか。スゲェなあ。

杉本健吉『屋根』

建物の方はウネウネした感じに描かれる。材質の木材や瓦が人の手で作られ、長い年月を経てきているイメージ?
それに、奈良と言えば築地塀だ。土の色、積み上げたままの質感の塀。柔らかくて、上に乗った瓦屋根も、ゆるい曲線を描いて、寝そべった竜の背のよう。

杉本健吉『東大寺大仏殿』『無題(東大寺遠望)』

杉本健吉『東大寺大仏殿』

普通は近い場所ほど細かく見えるのに、これは真逆に描かれている。足元は走り描きの地図みたいに簡素で、かろうじて道だか田んぼだか、想像できるレベル。
その向こうの家並みも、折り紙の箱みたい。屋根がついてるから家かな、と思える程度。しかし切妻と寄棟を描き分け、向きを変える事で、家と家とが寄り集まっている感じを表現してるのは流石。
その後ろの森だか山だかは、線の密度と濃さが違う、三段のストロークで、大きな塊として表現されている。
こちらも遠くなるほど細かくなる。特に空との境はしっかり塗られて、梢の存在が見えそうなほど、森の輪郭がクッキリしている。
そこに、ヌッと現れる大仏殿は、鴟尾に通った筋や、隅棟が端が跳ねる所まで、丁寧に描かれている。軒下の暗がりに、組木が想像できるほど。
空を見上げている気分になる。というより、そもそも画家が遥か高みにある大仏殿を見上げている、その気持ちをここに込めたのだろう。
目に映る光景には、自分の心が正直に映し出される。飾りのないスケッチは、それをそのまま顕す。

杉本健吉『無題(東大寺遠望)』

せ=線描

井野吟紅『甍』

書である。さっきの戸田提山『炎』同様、「甍(いらか)」という字なのに「夢」という字に見える。戸田提山とは滲み方がずいぶん違う。細い線が何重にも巻いているのが、光の玉が飛び回った軌跡みたい。そのまわりに薄く広く、墨色の光がにじんだフィールドがある。やっぱり絵みたいな書。

地主悌助『瓦と石』

写真みたいに細かく写実的に描かれているけど、同じような大きさの瓦と石がポンポンと縦に並んでいて、意味が分からないのはシュルレアリズムだ。ダリとか古賀春江のように、個々のパーツをリアリズムで描いて、それでさらに描かれた状況の特殊さを強調するのは、よく使われる手法。さらに言えば、瓦などの陶磁器は、粘土や硅石の粉を高火力で溶かして固めている、いうなれば人口の石なのだ。だからこの絵は、人口の石と天然の石が並んでいる絵でもある。

島田章三『横浜外人住宅の赤い瓦』『イタリア・アッシジの瓦』

ペン画にパステル彩色。カリカリとした線に、ふんわりした色。線は形と空間、色は量感と質感を示すという、方向性の違いをハッキリと見せている。外人住宅の赤い瓦の屋根は、無造作に並んでいるように見えて、その下の建物を縫う路地の様子まで目に浮かぶ。アッシジは古い街なのに、青い壁に赤い屋根という、モダンな建物を描くのも面白い。ペンの線が傾いて、遠近法が歪んで消失点がズレているのが、実際に歩きながら眺めているような動きの表現になっている。

高橋郁子『メスティソの女』

壁面に神々、それを観ている母親の背に赤ん坊。母親の背中は小さいが、わが子を背負った背中は、神々を宿したぶ厚い壁に負けないくらい存在感がある。赤ん坊が立体感を押さえた描き方がされているのは、壁画の神々に比する存在として描かれているのかもしれない。画面全体は赤く、炎に照らされているようでもあり、土にしみ込んだ民族の血のようでもあり。

田渕俊夫『旅の窓から 萌える』シリーズ

ほとんど同じモチーフを、鉛筆画、日本画、石版画で描いている。年季の入った石造りの家から、緑に萌える植物が生えている景色。風化していく壁や屋根は丁寧に繕われていて、TVのアンテナも付け加えられ、あからさまな人影や生活の品が描かれているわけではないけれど、生き生きした人の営みを感じ取られる絵。瑞々しい緑の葉がたっぷりと繁っているのは、人の姿の代わりだろうか。
緑の葉の向こうに窓がある。旅の窓というのはこの窓の事? 普通に考えれば、この絵が窓から見た景色なんだろうけど。普段の生活をしている窓から見た景色としても、不思議ではないような風景なのに、旅先っぽい雰囲気なのはなぜかな? タイトルのせいだけじゃないよなあ……などと、「窓」とか「旅」とか、いくらでも意味を乗せられる単語だから、再現なく想像が膨らんでいく。

そ=想像力

清水九兵衛『PACK-14』『PACK-9』

清水九兵衛『PACK-14』
清水九兵衛『PACK-9』

アルミニウムの筒を陶が包み込む『PACK-14』と、陶の筒をアルミニウムの箱が包もうとしている『PACK-9』……逆に、箱から出てきたのかな? 単純な直方体や円筒ではないから動きがあるように見える。
さらにこの中に、何かがPACKされている感じ。いや、何かをPACKしてほしいと、この器が求めているみたい。
何を入れようかな? どうせなら、何か形のないモノを入れたいなあ。生き物でもいいか。穴や隙間があるから、中から何かが覗いたり、声がしても楽しそう……
そんな想像も楽しい。

表面処理で、故意に質感を近づけているように見える。全く違う素材を使う場合、違いを強調する事が多いけど、あえて似せているのは面白いなあ。陶の黒いのは、土の色かな?  マット釉かな? よくよく見ると、内側に少し赤みがある。炭化焼成かしら?
何であれ、陶ってこんなこともできるんだなあ……

斎藤吾朗『屋根の上の汽車』

斎藤吾朗『屋根の上の汽車』

汽車に描かれた1994は描かれた年。鉄格子の貨車はバク? 板作りの貨車はゾウ? 汽車を先導するように、小さな鳥が飛んでいて、手前ではそれをネコが見送っている。
棟の丸瓦の紐(屋根のてっぺんの丸い瓦の帯状の部分)が、汽車の枕木みたい。バクの貨車の屋根に、同じ形が反復しているのも面白い。夕焼けの汽車は、どこかに去るように思われる。1994年が去っていく。バクとゾウを連れて。

吉川三伸『一九四〇年追想』

実際に特高警察に10カ月拘留された経験の追憶を描いた作品とのこと。やっぱり汽車が右から左に走っているけど、人も乗っていない、生命を感じさせない、何かを想う事もなく、心の存在も知らないまま、ただ機械的に走っていく、そんなシステム。光は頼りない懐中電灯一本、あらぬ方向に向いている。カラッポの椀。だまし絵のように、壁がへこんで部屋があるみたいに描かれている。部屋といっても、突き当りは真っ黒な壁、向こうを覗くこともできない、鉄格子のはまった、顔より小さな窓があるだけ。
美術館の壁に突然現れた、冷たい空気が詰まった独房……

堀尾実『(題名不詳)』『斧』

こちらは、古代の遺跡の壁が突然現れたみたいな作品。
洞窟の壁に描かれていたような絵。人の姿のような、動物の姿のような、神の姿のような、これがあと一万年もすれば、文字になるのかな、とも思われる図形。白い粉、緑の粉を、手のひらでなすりつけたような色も楽しい。

岡田徹『未知への旅立ち』

蛍光緑の草原。銀の星が見え隠れする濃紺の空。緑がかった黒い地平線に、うっすらと紫がかった白い光が見えるけど、朝が来るとも思えない。場所も時間も定める事ができない、異界の白夜。立ち上がる黒いシルエットは、カラスが人間に変わりつつある姿。よく見ると、光る緑色の植物も、グニャグニャと蠢きながら、何か別の生き物に姿を変えつつある。遠くに、寄棟のような家屋の黒い影があるけど、それすらも何か別のものに姿を変えつつあるようだ。
『未知への旅立ち』というタイトルだけど、この絵の世界が既に未知の世界。既知の世界はどこにあるのか?
今生きているこの世界が、未知の世界ではないと、どうして言えるのだろうか?

佐々木豊『トルソ』

遠景として、サントリーニ島の風景があるんだが、パレットナイフでかきむしられている。はぎ取られた漆喰から、再び捏ね上げられたような女性の、頭も腕もないトルソ。
背景を塗りつぶした赤黒い紫色は、引きはがされた肉の色のようだ。

佐々木豊『画家とモデル』

赤黒いテーブルの上に横たわる裸婦がモデルかと思ったら、だらりと垂れた右手に筆、見えない左手にパレットを持っているようだ。この裸婦が画家なのか、画家でありモデルでもあるのか? テーブルの上には、今にも消えそうな、花瓶とネギ。コレを描いてたのか? こんなもん描いても、仕方がないだろうに。遠方には病的な色と体系の裸婦らしき二人がいる。逃げるモデルと追う画家か? 追う画家は、獣の頭をしているようだ。

収蔵品による展示の面白さ。

今回の展示、全てかわら美術館の収蔵品。
瓦に関係した作品だったり、地元出身の作家だったり、この美術館の収蔵基準が良く分かる展示でもあった。まだまだ、その域には至れていないのだけど、将来的には、美術館そのものを、一つの作品のように味わえるようになりたいなあ。


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