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ポーラ美術館『フィリップ・パレーノ:この場所、あの空』

※訪問したのは、去年の十月です。企画展は終了していて、青い綺麗な花も今は咲いていませんが、記録として、メモと記憶を頼りに書いておきます。


箱根の山を歩いてポーラ美術館へ。

十月半ば、私は箱根におりました。
好天に恵まれて風もなく暖かい日でした。マップを見れば、宿からポーラ美術館まで、徒歩で1時間かからないくらい。
「せっかく来たんだから、箱根のお山を少し歩こうかな」
……その選択、正解でしたね。
それなりの坂が続くから、少し歩けば汗ばんでくるけれど、山から吹く乾いた風が、それをぬぐっていくのが心地よい。木陰を歩くうちに冷やされた体も、木立の切れ目に入れば、青空から降る陽射しに暖められる。
箱根の空の色は、地元とはいささか違う。これが富士を染める青なのか。

山道の途切れ目に見上げる箱根の空。

……なんていうのも最初の15分くらいでしてね。
「天下の険なめんなコラ」とばかりに、坂道に次ぐ坂道で、20分もすると、汗が乾かなくなってきて、いよいよTシャツ一枚に。ヒイヒイ言ってもまだ30分しか経ってない。
ヘタにふらつけば、峠道をアクセルONで駆け上がるクルマにはねられかねず。
いよいよ目が回り始めた頃、ようやくポーラ美術館に到着したのでした。

本館に向かう橋にて小像に出迎えられる。

足もとが石畳に変わった。それが岼から浮き上がり、窪地を渡る橋となる。
いつの間にか通り抜けた透明な壁が、グルリと周囲と頭上を取り巻いて、気付けばガラス造りの建物の中にいる。

建物と山の境界はあいまい。

いや、頭上の空があまりに広いから、建物の中に入った気がしない……長いエレベーターで降りていく先は、白いガラスと石材の空間なのに、まるで森の坂道を下るようなイメージ。
頭上に交差するトラスは直線的な金属で、見た目は全くそうでないのに、まるで交差する木々の枝のように感じられる。そんな長い道を歩いているうちに、美術の世界に浸る準備がすっかりできあがっておりました。

鈴木のぞみ『The Mirror,the window, and the Terescope』

入ってすぐの展示室では、鈴木のぞみ氏の個展。寡聞にして未知の作家氏。事前情報としても認識していなかったけど、面白そうだったので廻ってみる。
イヤ大正解。すごく良かった。
古い眼鏡や望遠鏡、拡大鏡や化粧鏡など「見る」事に関するアンティークの数々、そのガラスの部分に、古いインクのようなセピアや青みがかったグレーで、モノクロームの写真が焼きつけられていた。
拡大鏡のレンズには古い書物のページ、コンパクトの鏡には女性の顔、鉄枠の窓ガラスには隣家の庭、眼鏡のレンズには街角の雑踏。そのガラスが透かしていただろう姿の数々。
忘れ得ぬ風景が、瞳に焼き付くというのなら、ガラスだって光景を記憶するかもしれない。
あるいは、私たちは世界を見ていると思い込んでるけれど、実は、ガラスに浮かんだ幻影を見ているのかもしれない。今この瞬間だって、私は眼鏡というガラスを透かして世界を見ている。いや、見ているのは世界じゃない……モニター画面というガラスだ。何重にも重なったガラスの向こうに、本当に世界はあるのか?
素材のアイテムも写真も、レトロなのがまた面白い。記憶の中の世界から取り出されたような雰囲気。思い出はアイテムに組み込まれていて、ガラスのスクリーンの上に浮かび上がる。記憶というものは、アイテムの様に手の中で弄ぶことはできるけれど、ガラスの向こうのように手が届かない。そんな感じかな?
それとも、私たちがガラスを通さず見ることができるのは、記憶や夢だけ、ということか。
何重もの隠喩が重ねられた、文字ではなく真鍮とガラスで書かれた、質量のある詩という趣。それがコトリ、コトリと棚に座っている有様、たいそういとおしく感じました。

フィリップ・パレーノ『この場所、あの空』

この期間の、ポーラ美術館の目玉企画展。こちらはネット上でも度々取り上げられていて、展示室の中にプカプカ浮かぶお魚たちは、訪れた人が皆、写真をUPしていたり。

床近くにじっとして窓の外を眺めるお魚。

このインスタレーション『私の部屋は金魚鉢』は、展示室をまるごと水槽にしてしまったような作品。大きな窓の存在が外界を意識させるからこそ、この展示室が、隔離された別の空間であるかのように感じる。

水槽の角、底と水面近くに溜まる群れ。

四角い部屋の中の空気は、ゆるゆると巡っているみたいで、お魚たちはジワジワと、本当にゆっくり、向きを変えたり、位置を変えたりしている。四角い水槽の中、熱帯魚のための濃い水も、こんな風に、水槽の中をトロトロと蠢いているのかな、などと思う。お魚を静かに押している水の塊が、自分の体にも巻き付いているように感じる。それによって、お魚たちと自分との間を、生暖かい流れが結びつけているみたいな気持ちになってくる。面白いなあ。

風船を使ったインスタレーションとして、別室ではこのような展示もあった。

天井を埋め尽くすバルーン。

丸い風船の一つ一つから、ピョロリとシッポのようなものが垂れている。題名『ふきだし』Speech Bubbles。発せられた言葉が、誰にも受け取られず、その場に溜まっていくイメージなのかな。
でも、そんな作者の意図なんてほったらかして、怪獣大好き男の子だった自分は「『風船怪獣バルンガ』だ!」などと、はしゃいでしまうのだった。

バルンガは、ありとあらゆるエネルギーを吸収して大きくなっていく怪獣。エネルギーを吸収して大きくなる以外は何もしない。意志も感じられない。それがとてつもなく不気味、というお話だった。
日々溜まっていく人々のつぶやきも、どこかに吸い込まれているのかな? 何かがどこかで、人々のつぶやきを吸収して際限なく膨れ上がっているのかもしれない。頭上に溜まったそれは、いつかこの世界を押しつぶすかもしれない。
神様がいた頃だったら、それらは皆、空の上に引き取られていったんだろうけれど、行く当てのないつぶやきを聞いてくれる神様は、もういない。

15分とか20分の映像作品もあったのだけど、自分は美術館での映像作品の展示全般が、うまく鑑賞できないので見送る。しかしこの『HDKの種子:2025年の予言』は面白かった。

UHDディスプレイに動画+サーバの展示。

夜の砂浜を思わせる場所に、膨らんだ海獣の死骸か、戦前のレーシングカーのようなフォルムの物体がある。その周囲や表面を、小さな甲殻類みたいな物体がチラチラと瞬くように蠢いている。画面半分を占める黒い空も、色味が斑にゆっくりと滲んでいて、薄い雲がたなびいているかのよう。星とも海底に降るマリンスノーともつかない小さな光が、かすかに瞬いている。
映像作品は苦手なはずなのに、コレには心動かされたのは、絵画として鑑賞できたからかなあ。
大好きなイヴ・タンギーの風景画の、あの感じ。
隣でランプをチカチカ光らせて、がんばって働いてるサーバーも健気で、可愛いったらない。

オブジェ作品『マーキー』も何か楽しかった。
宇宙船みたいなデザイン。今にも並んだ電球を点滅させて、何かのメッセージを語り出しそう。
英単語「marquee」は、映画館入口のタイトルやキャストを表示する電飾看板という意味だそうで、さもありなん。

まぶしい。

しかしこの作品のキモは、作品そのものよりも、置かれている展示室かもしれない。真っ暗で、壁も床も黒く塗られたスペースがやたら広い。広々とした暗闇の奥に、この電飾が輝いてて、無意識のうちに引き寄せられる。夜の街で、ネオンに誘われる感じそのもの。
しかし、近づいてみると、光り輝いている電飾そのものより下にトグロを巻いている大量のケーブルが気になる。近づいた者を絡めとる触手か何か? 山積みになっているせいで、ものすごく重たげだ。光という、質量の無いものとの対照のせいだろうか?
規則正しく整列した、明るく輝く光は幻影で、このズッシリと重たい、混沌とした金属の渦こそが本体なのか。粘菌類の菌糸体と子実体みたいだ。

ポーラ美術館はコレクションも素晴らしいとの事で、常設展に向かう。建築自体も素晴らしくて、吹き抜けに青空から降る光が心地よい。

吹き抜けに展示された作品。

その光を受けとめるように、ケリス・ウィン・エヴァンス『照明用ガス…(眼科医の承認による)』という作品が、中空に置かれている。知らない作家だけど、どこかで見たような気がしてたまらない。それもそのはず、デュシャン『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の一部を取り出したものだ。その作品について調べたところによると、「照明用ガス」が、機械としての独身者を動かしたり、花嫁に向かって上昇したり、様々な形態をとりながら巡るというストーリーが展開するとかしないとか。よく分からない。
要するにこの『照明用ガス…』という作品は、この美術館の建物を、デュシャンの大作のような一つの作品として解釈して欲しい、というメッセージなのかな。

女性像たち。

ヘンリー・ムーア『《座る女》のための習作』

吹き抜けには、ヘンリー・ムーア1980年の作品も。ムーアの作品というのは、周りが開けていればいるほど良い。曲線や曲面に、光や空間が回りこんだり、巻き付いたり、広がったりしていくのが楽しい。前後左右だけじゃなく、上や下にも広がったこの場所は、本当に理想的だ。

エミール・アントワーヌ・ブールデル『パリジェンヌ』
エミール・アントワーヌ・ブールデル『バッカント』

展示室の前には、ブールデルの婦人像。クールでオシャレな『パリジェンヌ』と、パッションを燃やす『バッカント』。この、女性の対照的な二つの面を表現した像を、阿形吽形の如く並べる感性も、とんでもないな。
展示のセンスが良すぎる。

ピエール・オーギュスト・ルノワール『レースの帽子の少女』

ルノワールの作品の中でも、特に女性を美しく描いた逸品と思われる。この唇の瑞々しさといったら! チークの薔薇色も輝くばかり。
化粧品会社のコレクションとして、これほどふさわしい作品もないけれど、表面の美しさだけじゃなく、女性の生き方の美しさまで語るのなら、むしろルノワールには前座になってもらって、ベルト・モリゾに主役を譲るべき。

ベルト・モリゾ『ベランダにて』

そのベルト・モリゾの作品は、母親としての眼差しを感じさせるものだった。ルノアールの描くような、若い一時期のみではない、女性のライフステージに満遍なく目を向ける。

ヴィルヘルム・ハマスホイ
『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ30番地』

ハマスホイのこの作品とかを持って来るのは、そのあたりの感性かな。落ち着いた感じの女性は、ともすれば初老にすら見える。だけど、この静謐さには、神聖さすらある。空間に落ち着きを与えるような、そんな雰囲気の女性というのは、実際にいる……ずいぶん昔だけど、色々とお世話になったカトリックのシスターが、そんな人だった。

アメデオ・モディリアーニ『婦人像(C婦人)』
アメデオ・モディリアーニ『ルニア・チェホフスカの肖像』

モディリアーニは、悪人ではないんだけど、関わる女性を不幸にしちゃうタイプってイメージがある。でも女性の内面を描く事に関しては、誰よりも真摯だったのだろう。実際に彼の作品が、女性の内面をどれだけ描き出しているかは、女性について詳しくないので明言できないけど、女性のファンが多いようだから、つまりそういうことだ。
あるいはモディリアーニの眼差しは、女性がこう見られたいと求める眼差しに近いものだったのかもしれない。

フェルナン・レジェ『鏡を持つ女性』

鏡を持っているだけじゃなくて、机の上にビンも並んでいるから、コレはお化粧をしているシーンなんだろう。レジェは視覚に入ってきたものを分解し、再構成しているんだけど、化粧をしている最中の女性の瞳だけは、そのまま描かざるを得なかったようだ。なんという眼力!

印象派の作品たち。

ポール・セザンヌ『プロヴァンスの風景』
フィンセント・ファン・ゴッホ『アザミの花』
ジョルジュ・スーラ『グランカンの干潮』

セザンヌ、ゴッホ、スーラ。
印象派には色々な要素があるけれど、展示作品のチョイスを見ると、やはり色彩と陰影と筆触の組み合わせを重視してるみたい。メイクアップも同じだからかな? あんまり、化粧品会社って事を意識しすぎるのも良くないか。

スーラの絵の、上から下に光の粒が降っているのは、展示室の中央に飾られたフェリックス・ゴンザレス・トレス『無題(アメリカ#3)』と題された立体作品。天井から42個の電球が流れ落ちるように垂れ下がり、床に溜まっている。その灯が、額のガラスに反射して、こぼれおちる星を描き足したみたいになっていた。

クロード・モネ『散歩』
クロード・モネ『セーヌ河の日没、冬』

モネの作品にも、空から降る光の粒のように映りこむ。
星がこぼれて弾けてるみたいで、ちょっと可愛い。
展示されているモネの作品は、年ごとに次第に、筆触に拠るところが多くなって、描かれているモチーフは、輪郭を失っていく。
『散歩』では、まだ地平線があったのに『セーヌ河の日没』では、すっかり溶けてしまって、遠景がにじんだ帯のようになっている。

クロード・モネ『睡蓮の池』

それにしても、映り込んだ光の粒は絵になじみすぎるなあ。
本当に、池に光の滴がしたたって波紋を描いているみたい。

『睡蓮の池』では、橋や柳の樹が、それらしく描かれていたけれど、続く『睡蓮』では、睡蓮の花も葉も、水面のきらめきや水の紋に溶け込み始めている。

クロード・モネ『睡蓮』

その流れで、リヒターを見せるというのは、分かりやすいというか、説得力があると言うか。
まるでリヒターの作品も、睡蓮の池を描いたものであるかのように思えてくる。それとも、モネはすでに抽象画を描いていたのか。

ゲルハルト・リヒター『抽象絵画(649-2)』

ガラス工芸とルソーの森。

ガラス工芸のコレクションも、印象派と同じくらい充実した展示がされていました。
やはり化粧品はパッケージも大切。香水瓶とか。

ドーム兄弟『花形ランプ』

でも展示されているのは、花器や卓上ランプばかりだなあ。化粧品のビンは見当たらない。
一番たくさん種類もあるし、数も出ているし、化粧品会社のコレクションとして、何より説得力ありそうなんだけど。
いやむしろ、それっぽすぎるからあえて避けてるのかな。

エミール・ガレ『草花文耳付花器』

色ガラスを盛り上げて描かれた草花紋。器形も陶磁器の写しを思わせるシルエット。いや、器形はペルシア風か?
黄色がかったガラスといい、左右で取っ手の色味が違うし、色々な方面からのハイブリッドが面白い作品。

ルイス・C・ティファニー『花形花器』

すごいインパクトの器形。表面処理の色も、金属箔を含んだような質感。このど真ん中に花を飾ると、どんな感じになるのだろう?
やはりこれは、花を飾って完成になるデザインなのかな? でもこのインパクトに負けないのは大変だ。生け方も、花のチョイスも、並大抵のものでは済まなさそう。

ルイス・C・ティファニー『ヴェネツィア風テーブルランプ』

足から笠まで、全てがステンドグラスで作られたかのような豪奢なテーブルランプ。
どんなテーブルに置けばいいんだろ? お部屋自体も、それなりのお屋敷らしい場所じゃないと似合わないだろうなあ。
巻き毛の執事が何人も控えている大食堂? 壁を革の背表紙が埋め尽くしている書斎の小卓?

アンリ・ルソー『エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望』

ルソーの絵画はいつも不思議だ。お日様と夕焼けが別々のところにあるとか……いやほんと、コレどうなってるの?
橋がかかった河? どこからどっちへ流れてるの?
エッフェル塔ってこんな森の中から生えてたっけ?
手前の樹も茂りすぎで、パリだかジャングルだか分からん。

アンリ・ルソー『ライオンのいるジャングル』

隣りを見れば「ジャングルはこういう感じだよ」という絵がかけてある。親切。しかしこっちはこっちで、ジャングルにしてはスカスカなのでは。まっすぐで、葉も数えるほどしかない木々が、キレイに整列している。しかもその列の向こうには、もう遠い山並みが見えている。月がちゃんと見えるように、枝がグルリとよける親切さ。手前には低木が同じような感覚で並ぶ。これじゃパリの方が密林だ。
それでもジャングルっぽく見えるのは、色と陰の湿度の高さのせいだろうか。

アンリ・ルソー『エデンの園のエヴァ』

エデンの園にズラリと並ぶのは、また奇妙な植物で、まるで軟体動物か原生生物。植物らしさを脱ぎ捨てて、蠢く様子は生命力があふれ出していて、なるほど、命の始まった場所、エデンの園はこんな感じだったのだろう。エヴァは、その妖しい生命たちにかしずかれる女王のようだ。

ついさっきまで、本物の森の中をヒイヒイ言いながら歩いていた身としては、見た目は全くリアルじゃないけれど、この生々しさは、確かに森林の得体の知れなさを、よく表わしていると思う。誰もいない、何の声もしないのに、何かの気配に満ちている、何かがこちらに近づいてくる、そんな感じ。

ポーラ美術館を囲む森。

一通り見終わって美術館を出ると、周囲の森をグルリと廻る遊歩道があった。ルソーの描いた密林からようやく抜け出して、なじみのある日本の森に戻ってきた気がした。

ポーラ美術館の遊歩道。

最初から、無茶な山歩きなんかせずに、こっちを散策すればよかったんだよなあ。歩きやすいし、木立の合間には彫刻が飾られている。なんとも楽しい。

綺麗な青い花が咲いていました。

陽だまりに、小さな青い花も揺れている。なんとも可憐で可愛らしい。瑞々しく、柔らかそうな花弁に、思わず手を伸ばしそうになる。

傍らに立札。
「お知らせ
青いきれいな花をつけているのはハコネトリカブトです。
日本三大有毒植物のひとつとされ、強い毒性があります。
手にとらないようにしましょう」
……うわあ……


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