個展・植村宏木『ゆきて たずねる こえ』
まずはお断り。
この展示自体は、九月二十八日までやっているのですが、私が行ったのは一か月前。その日はアーティストトークということで、作者の植村氏から色々と興味深いお話をしていただいたのですが、聞き違い、記憶違いなど、多々あるかと思います。
最悪、植村氏に「私、そんなこと言ってません」などとお𠮟りを受ける可能性も多々あるというレベル。
この記事の文責は全て私にあります事、何卒ご承知置き下さいますよう、宜しくお願いいたします。
豊田市民芸の森 『森のアート展』
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民芸の森は、猿投古窯などの研究をされていた、本田静雄氏を記念する施設です。竹林と雑木林の中に、古い和式建築が点在しています。その各建築や林の中に、古陶磁をはじめとした本田氏のコレクション等が展示されています。
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毎年『森のアート展』と銘打ち、公募で現役美術家の展示を行っています。今年の夏は、ガラス作家、植村宏木氏のガラス作品の個展でした。
去る八月四日、植村氏によるアーティストトークがあるということで、行ってまいりました。
今回は植村氏と、豊田市民芸館の都築館長、お二人の案内によって廻る型式。参加者は十数名といったところ。
田舎家「青隹居」広間 『もの考 -矢作川-』『有無のはかり』
豊田市民芸館は、平戸橋公園に隣接してあります。勘八峡とも呼ばれる桜と紅葉の名所で、季節には矢作川の流れによく映えます。
矢作川は、かつてはガラ紡や猿投窯、今は愛知用水と、三河の産業と生活を養ってきた河。
田舎家「青隹居」の広間を丸々使って、その矢作川をテーマにしたインスタレーションが展示されていました。
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広間を覗いて目につくのは、大きく弧を描いた二本のワイヤー。ガラスや陶の管が通されている。
これが『有無のはかり』。
今回の個展は『目にみえないもの』がテーマとのこと。
ガラス工芸家として活動していく中で
「ガラスは見えるものなのか?」という問い。
もちろん見えるもののはずだけれど、存在として不確かである。
確かな感じと、不確かな感じが共存している、という話。
確かに、ガラスを見ていると思っていても、実際に眼に入って来るのはガラスを通り抜けてきた光であり、見えているのはガラスの向こうの風景だったりする。
窓の向こうや、カメラを覗いたりモニターを見るとき、ガラスを見ているはずなのに、ガラスの存在は認識されていない。
そういう事なのかな、と言うのを頭に置きながら見ていく。
そう言われれば、空間も、重力も見えないものだ。張り渡されたワイヤーの弧が、それを見えるものにしている。
畳、柱、梁、障子、直線しかない室内を横切る曲線。
その日は風もあまりなく、太陽は高く上がって陽が差し込む時刻でもなく。だけど交差した弧は、静かな室内なのに、何がが通り抜けるような雰囲気。
単なるワイヤーのみではなく、陶とガラスの管があるせいか、何かチリンチリンと音が聞こえるような気がする。
古い和室の独特の空気と、窓の外の夏の緑のせいで、無意識のうちに風鈴でも連想してるのかな。
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茶人だったか能演者だったかの逸話で、どこに何を置けばどう目線が導かれるのかを、折鶴を吊るして吟味した、なんて逸話を、さてどこで聞いたやら。
昔に読んだ本の記憶はすっかり消えてしまった。これも「見えないもの」の一種かしら。
畳の上や縁には、小さなガラスの円筒がポツリポツリと置かれている。中には小指ほどの、水滴のような空気の泡。
こちらが、『もの考 -矢作川-』という作品。
空気を封じられたガラスの円柱には、座標が書かれていて、それは空気を採集した場所なのだそうだ。
今回、民芸の森での展示を行うにあたって、この場所を生かした作品にしたい。この場所でこそ成立する展示にしたい、という事で、矢作川を室内に持ってくる事を試みたと。
そのために矢作川から、そのカケラを切り取ってきた。
矢作川源流の茶臼山の空気から、矢作川河口の空気まで。
また、過去には別の場所を流れていた、矢作古川についても各地で空気を採集。工房に持ち帰りガラス円柱の中に封入したとのこと。
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空気だけではなく、土や水も採集。
「本当に、矢作川各地の空気か? 水か? 土か? と疑われても、何も証拠が出せるわけではないのですが、実物を使えば説得力を持たせられるのではないかと」
説得力があるかないか……私がどう感じたかは、さておき。
この作品を創るにあたり、この三河の地を養ってきた、命を育んできた存在である矢作川に対して、どれほどリスペクトを以て当たったか、植村氏は非常に熱心に語ってくださいました。
むしろ、この場所で暮らしている自分が、さてそれほど矢作川に思い入れを持っているか? と言われた際に、答えに詰まるほど。
川が生活の糧であった、水運や軽工業を支えてきた時代は、すでに昔、ももちろん農業用水、工業用水としては今でも不可欠な存在なのだけれど、そんな関わりがない者としては、川の風景を楽しむのは桜の季節と花火大会くらいで、毎日の生活の中で矢作川を意識する事といえば、橋のところで渋滞が酷くて困るなあ、くらい。
普段から自分の周囲を見ていないと、美術の鑑賞の時に、それが枷になる……いや、逆かな? 美術だの芸術だのというものは、普段の自分が、どういうふうに、どれだけ周囲を見ているのか? それを問い直してくるものだ、ということかしら。
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ただ、この空間はとても魅力的で、心がときめくのは確か。
しかし困った事に、襖の柄も砂壁の色味や質感、この広間に見どころが多すぎて、自分の心を動かしているのは、植村氏の作品なのか、古民家の魅力なのか、よくわからない。
そんな居心地の悪さをもてあましていたら、
「作品と空間の境目もあいまいにしたいのです」
という植村氏の言葉に、救われました。
確かに、床の間に軸や額が掛けられ、敷物や家具があつらえられれば、それもまた部屋の一部。インタレーションでも同じ。よそから持ち込まれたモノでも、なじんでしまえば、別の物として考える理由はない。部屋の一部として認識するのが当然。いやひょっとしたらその逆で、部屋がオブジェクトの構成要素? 部屋とその中のオブジェクトの境界線は何? 主体はどちら? オブジェクトと部屋が「どちらも同一の存在で、別の部分にすぎない」と認識されるには、どんな条件があるのかな?
そういえば、この床の間に飾られている朝鮮の民画も、川の風景だ。源流を思わせる山々、下流のトロリとした水面に浮かぶ、蓮と鴨。これが、展示されている作品と、この部屋を繋ぐ役目を果たしているんだろうか。
「いえ、その絵は前から掛かっていました」
……そうですか。考察はここまで。
コンクリート電柱の社付近 『静なる心』
この民芸の森には、日本最古のコンクリート電柱を三角に組んで、小さな社を祀るように、石碑を据えた一画があります。
夏の盛り、木立が程よく繁り、敷き詰められた木陰は、木漏れ日で穴だらけ。その木漏れ日の珠に混ざって、零れ落ちてきたように、ガラスの珠がパラパラと苔の上に座っていました。
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というか、木漏れ日と区別がつかない。陽射しがそのまま固まって、転がったみたい。
人が作った作品というより、元からこういう自然現象があったんじゃないか、なんて思ってしまう。
植村氏が制作技法について話す。
「空中で形成してます」
丁寧な説明だったのだけど、ガラス工芸には詳しくなくて、よくわからなかった。つまりは、重力やガラス自身の性質に委ねる部分が多い手法なのかな。
そうだ、木漏れ日も雨だれも、空中でできるのだ。
日光や雨水ではなく、ガラスが、木漏れ日や雨だれと同じ過程を経ると、こういう形になるんだろう。
ポッテリと膨れた水の感覚、トロリとたわんだ重み。
そのままバチンとはじけて水たまりになりそう。
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「決まった置き場所とかはありません。時々、日差しの具合や天候に合わせて動かします。見に来た方が動かしちゃうこともありますが、よっぽど変な事されてなければ、それもありなので、そのままです」
時刻と雲と天候で刻々と変わる陽射し、季節が変われば木々の葉の色も、それを透かしてくる木漏れ日の大きさや強さや色も、土も苔の色も変わるのだろう。
さらには通りすがりの人の気まぐれまで取り込んで、この作品は作られ続けるわけだ。
どこからどこまでが作品なのか? 誰が作者なのか?
インスタレーションなのか、彫刻なのか、ひょっとしたら造園かもしれない。
良く晴れた夏の日中だったんだけど、しとしとと打たれながら水たまりと混ざり合う雨の日や、秋の紅葉の季節や、月明かりの夜には、またまるっきり違う作品になっているんだろうなあ。
茶室「松近亭」 『呼吸を追う』
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こういうの、草庵茶室というのかな。
千利休の茶室「待庵」みたいな雰囲気。
古材に荒い土壁。室内の壁は黒い。墨だろうか?
壁の下に白い紙が貼り廻されているのは、茶室のお約束なんだけど、たいてい一尺くらいなのに、膝くらいまであるのは珍しいかな。
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炉と茶堂口のあたり、本来であれば茶をたてる亭主が座るところに、薄造りで内側を白く曇らせた、五リットル入りペットボトルのような作品がひとつ。
その奥、勝手の床には、やや小さい透明な作品が、中をうかがっている。
亭主の位置に座っている白く曇った瓶の口は、たった今、茶を立て終わったように炉を左手に見て、貴人口の方に向き直っている。
貴人席には、床の間を右手に、とがった先端を頭と見立てるなら、亭主に向かって礼をしているかのように、大きく丸く膨れた、澄んだ球が座っている。
次の間には、それよりやや小ぶりな、内側が白く曇った作品が控えている。
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この茶室に展示されているのは、皆、吹きガラス。
この一連の作品のタイトルは『呼吸を追う』。
「コロナ以降、多くの人々が、呼吸について意識するようになりました。呼吸とは何か? という事で、吹きガラスで、呼吸を閉じ込めてみました」
ああ、確かに吹きガラスは呼吸の形だ。ずいぶん綺麗な形。
「いや、本当は、呼吸の自然な形をとらえるように、ガラスが勝手に膨らむのに任せて、偶発的な形にしたいんです。しかし、無意識のうちに綺麗な形に整えてしまうんです」
あれ? 拭きガラスは、シャボン玉みたいにガラスを膨らませていく技法……途中で割れたり垂れ落ちたりしないように気をつけなきゃ、そもそも形を残す事すらできない……壊れないように気をつける事と、綺麗な形に整える事は、違う事なんだろうか? どのあたりが境目なんだろう?
「空気を吸い込んで膨らむ自分と、吐き出した空気で膨らむガラス、結果としてそこに映し出されるのは自分自身なのかもしれません」
とすると、無意識のうちに形を整えてしまおうという所まで含めて、自分自身の反映という事になるのかな。
「そもそも、茶室は自分と向き合う所でもありますから」
呼吸によって、作者自身の分身となったガラスの器が、もてなす茶人と、もてなされる貴人のように、配置されているのはそういう事だろうか。
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茶室の勝手側にも、忙しく立ち働くような二つのガラスが。
白いのと、透明なのは何だろう?
「自分の呼吸に触れられないか、と考えました。それで、呼吸の形をとらえたガラスの器を割ってみたのです。呼吸に触れて形に成った内側をなぞって、それで呼吸に触れた事になるかと」
白いのはなぞった跡なのか。細く白いタッチが曲面の流れを浮き立たせて、まるでデッサンされたようだ。
澄んだ透明な球と、白く曇った球、シルエットも対になっている。呼吸も、呼と吸の対だ。透明なのは冷たく乾いた吸気、白い球は、温かく湿気を含んだ呼気、といったところだろうか。
旧海老名三平宅 『光を描く』『点へ降る線』『山景』『手は口ほどにものをいう』『水平線を持ち上げる』『拍子をうつ』『一日を測る』
海老名三平と言う人は、挙母藩の剣術指南を務め、明治の廃藩置県の後は小さな農家で余生を過ごした武士。その小さな農家を移築したのがこの建物とのこと。
土間と板の間と……八畳くらいの一間。時代や身分を考えたら、鴨長明もオヤオヤと笑いそう。
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こちらには、道具をテーマとしたミックスドメディアの作品の展示がされていました。実を言うと苦手なジャンル。何をどう鑑賞すればいいのか分からない。
しかし今回は、作者の植村氏が同行している。
鑑賞方法を勉強する良い機会。
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『光を描く』
上の写真、一番手前、左側。
硯の材料の那智黒石を枕に、横たわった筆、よく見ると、穂がガラス。
先ほどの茶室の展示で、ガラスの内側に、白い線がデッサンのタッチの様に、無数に刻まれていた事を思い出す。
あれは、描かれた側のガラス。ではこちらが、描く側のガラスという事だろうか? と訊いてみる。
「いえ、それは考えていませんでした」
考えすぎたかなあ。でも正解があるわけでなし、発想を刺激されて、この作品とあの作品の解像度が、わずかながら上がったことは素直に嬉しい。
『点へ降る線』
一番手前の右側。
鋼線の水糸の先に、鋭い錘重。垂直線は見えない重力を見えるものにし、錘重の先端は遥か地下深く、見ることができない地球の中心点を指し示す。
これはちょっと分からなかった。見えないものというテーマを改めて思い出したくらい。
ただ、デザインとしてこの展示台の角に、重力と下向きの動きを感じさせる要素があるのは、全体に緊張感と安定を足しているかも。こういう平べったい展示の仕方だと、上下の空間を意識しなくなりがちだからなあ。
『山景』
白くキラキラしている固そうな粒の山。ガラスだ。
原料の硅石を採掘する山のイメージ。ふもとをグルリと巻くのは、帯鋸の刃。そこに熊手。山を削り取るイメージ。
ガラスという素材を使っている以上、原料を採るのに山が削られている事は意識しなければならないと。
「それでも、ガラスという素材に可能性を感じているので、工芸の範疇を広げたいのです。工芸は、生活の色々な場面にあって、その時、その場所を豊かにしていくものだから。道具と言えば、プラスチックや樹脂の者も多いですが、自分は工程に関われない素材にはなじめないのです」
この作品は、ガラスという素材に対する想いの表現ということか。やはりお話を聞いてよかった。この作品だけポンと魅せられても、それはちょっと分からなかったかも。
ガラスに対するこだわりなら、今までの他の作品の方が、よほどハッキリ伝わってきたしなあ。
『手は口ほどにものをいう』
丸い鏡の上に、陶で作られた手が乗っている。
手の形は箸を持っている姿。
「ただの棒が、二本そろうと箸という道具になります。人間の手という道具が、ただの物を道具にするのです」
そこにあるのは片方の手だけなのに、鏡に映ってもう片方の手もある、というのも面白い感じ。
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『水平線を持ち上げる』
鋳鉄製のジャッキに、石が乗っている。石にはぐるりと、漆で金線が廻してある。金線は水平線を表し、さて、水平線を持ち上げることができるか? という禅問答のような作品。
ただ、この石、石川県珠洲市で拾ってきたという話で、今年の能登の震災で、この石を拾った場所も隆起したという話を聞いて、色々複雑な想いを抱くことに。
石を拾ったのが震災前か後か、話していただいたはずだけど失念してしまった。
地面が隆起した時、水平線は上がるか下がるかが妙に気になって。標高が上がれば、遠くなるのは分かるけど。
『拍子をうつ』
上の写真、手前左側。木槌にアオゲラ……キツツキの羽根。これはキツツキ? キツツキなら、うたれるのが木なのに、これだとうつ方が木。さてどんな音がするのやら。
『一日を測る』
上の写真、一番手前。
目いっぱい広げたキャリパスに、真鍮線が張られ、沙羅の花が一輪。
沙羅の花は夏椿とも呼ばれ、六月初夏の頃、朝に開いた花が、夜にはポトリと落ちる。そこから、一日花という別名も持っている、とのこと。
キャリパスは径を測る道具ということで、一日を測るという作品になっているのだけれど、キャリパスというのは、何センチ何ミリと計測する道具ではなくて、同じ長さを保存する道具。同じ長さの物をたくさん作るときに使う。
「同じような毎日を繰り返している自分には、心に刺さるものがありますね。それでも、花はあるんだというメッセージは、優しくて素敵ですね」
と感想を述べると、
「いや、そこまでは考えていませんでしたが、良い解釈を戴き、嬉しいです」
と喜んでいただけた。考えすぎも、悪い事ばかりじゃないですね。
管理棟 『街の際 ー平戸橋ー』
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管理棟の茶室には、八月のワークショップに向けた準備が進んでいました。
陶土を手に街に繰り出し、色々な型を取ってこよう、というイベント。
彫り込まれた看板の文字や、木の切り株、排水溝や電柱のネジ、草花の穂や枝。
陶器やガラスのカケラ、拾った釘やネジをそのまま埋め込んで焼いてみたりも。脆いはずの陶やガラスは溶けても光っているのに、金属は焦げ跡を残すくらいで消えてしまっていたり、イネ科の草がその含んだ鉄分で赤く発色していたり。
インスタレーションとして展示されるのは八月末だとか。
この記事を書いている頃には、もう皆さん楽しまれているでしょう。
展示は九月二十八日まで。九月末ともなれば、自分が訪れた八月頭から、気候も草木の色味もすいぶん変わっているでしょう。もう一度行けたらよいのですが。
ほぼ同じ期間、九月二十三日まで、関連施設の豊田市民芸館では特別展『或る賞鑑家の眼・大久保裕司の蒐集品』が開催されています。こちらもお勧め。
特別展『或る賞鑑家の眼・大久保裕司の蒐集品』についての私のレポートはこちら。よろしければご参考までに。
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— レオナール・フグ田🐚 (@LeonardFouguta) January 5, 2025
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