出光美術館『物、ものを呼ぶ』


出光美術館『物、ものを呼ぶ』展。

今年いっぱいで改装工事に入ると聞いて、まだ行った事がなかったのでこの際にと。伊藤若冲の白い象さんが見たい。
同行の友人は、先のアーティゾンは
「この展示、面白いねぇ! アートディレクターが良い仕事してるなぁ」
などと、大変ご機嫌であったのだけど、その前の茶道具はつまらなそうだった。出光美術館は日本画である。
たぶんあまり興味がないかも。でも連れまわしてしまう。
すまん。

伊藤若冲『鳥獣花木図屏風』

この若冲の屏風は、小さな正方形の集合で描かれている。升目描きと言うらしい。びっしり詰まった正方形は一センチ程というから、尺寸で言えば二分か三分か……四角の中もベッタリではなく、分割されたり点が入っていたりするから、最小構成単位は一分ってとこか。
「うおぉおぉ! スゲェ!」
友人が感嘆する。
彼は今でこそディレクションをメインにしているが、元々はグラフィッカーだ。まだPCが256色しか出せなかった頃、ドットでCGを描くことから始めた筋金入りである。
「タイル処理とか、グラデのかけ方とか……ようやるなぁこのサイズで」
実際にさんざんやってきた者の言葉は重みが違うなあ。自分は、CG作業は傍で見てただけだったから、大変そうだなあと想像するしかできない。

解説によれば、織りからの発想だという……どちらかというと、モザイクタイルみたいな見た目なんだけど……そういえば、西洋のモザイクのような技法は、明治以前の日本美術では、あまり見た事がないなあ。象嵌とかがソレに対応してるのかな?
若冲ならビザンチン美術くらい知ってたかも知れない、なんて勝手にイメージしちゃう自分は、若冲をいったいなんだと思っているのか。宇宙人か何かか。

格子に縛られない、格子描き。

イヤ実際おかしいんだけどね若冲は。
白い象さんの輪郭とか、格子を無視して曲線を描いてる所も多いのに、部分部分で、曲線を廃して格子に合わせてガタガタにしてる所もある。コレ、どうやって使い分けてるんだ?
例えば鳳凰の胴、朱とアイボリーの境界線はタイルに合わせてカクカクなのに、それ以外の輪郭線は全て曲線だ。ヒクイドリも下腹だけカクカクで、それ以外は曲線とか。
そんな感じで、どういう基準なのか、突然カクカクが現れる。しかも、迷いも間違いもなく、画面の中のアクセントとしてバッチリ決まるトコに、ズバーッと入ってる。
なぜ? どうして? こんな事ができるの?

というか、格子を無視した曲線の方が多いし、白い象の輪郭とか、それこそ鳳凰のほとんど全ての描線など、見せ場は逆に曲線を強調しているようでもある。
いや逆に、曲線を強調するための格子描きなのかな?
例えば金屏風は四角い金箔で覆われているから、その境目が升目に浮き上がったり、升ごとに色味が違っていたりする。そこに絵が描かれる時、その金箔の格子をものともせずに伸びる、鶴の首や松の枝などは、格子なしの画絹に描かれたものとは違う種類の、伸びやかさや力強さを感じさせる。

若冲はそんな効果を狙ったんだろうか?
だとしたら大成功だろうなあ。格子が目立てば、それこそ檻に閉じ込められてるように見えてしまいそうなのに、格子の色が明るくて、象さんや鳳凰に溶け込んで、その一部になっている。閉じ込めているなんてとんでもない、むしろ通り抜けてこちらに出てくるみたいだ。
あえて、第四の壁を靄のように薄く見せることで、見るものと描かれたものの境界を取り除くような演出なのかな。
型にはめるための升目ではなく、最初から、破るために作った型だったわけだ。
むべ若冲を型破りというらむ。

印象派のはるか以前に視覚混色?

色の表現だって、色々とおかしい。
色を作って塗っているマスもあれば、マスの中に別の色の四角い点を入れて……あるいは、マスの中の四角の中に、さらに別の色の四角を描いて……遠目で見ればその色の印象が混ざり合う、という表現をしているマスも多い。
主に、地面の緑をそれで表現している。画面の三分の一くらいかな?
コレは……視覚混合? いやちょっと待て。コレ描かれたの、ジョルジュ・スーラの百年前……印象派だって影も形もない頃だぞ!

もちろん印象派以前にも、それこそモザイクや織物などで、視覚混合の技法は使われてきた。
だから、タペストリーの下絵を描いていたゴヤが、経験から隣り合う色が混ざるという事を知っていて、資格混色の技法をその作品で使用し、それがのちにロマン主義から印象派へ、なんていう流れがあるんだけど……
若冲が視覚混合を意図的に使っていたとしたら、それはどこから来てるんだ? 少なくともゴヤからじゃないよね。年下だし。そもそも地球の裏側だし。
まあ、自分が知らないだけなんだろうけど、この辺も勉強したい……知りたい事が無限に増えていくなあ。

でももうじき改装で、見れなくなっちゃう。悲しい。でも確か、若冲のこのモチーフの作品は、静岡県美術館にもあったはず。こうなると、そっちも見なくっちゃいけないね。

酒井抱一『風神雷神図屏風』

「うおぉおぉおぉ! ゲンブツ初めてみたああぁぁ!
スゲェエェエェ」
友人と一緒に叫びましたよ。まあ、みんなそうなるわさ。
画像ではもう、誰も彼もが、嫌というほど見てるブツだ。
風神・雷神という言葉に、このヴィジュアルが頭に浮かばない者はいねぇよなぁ。風邪薬はルル派の自分でも「風邪ひいてマンネンワ」の声は今だに耳に残っている。

でもやっぱり、ゲンブツを目の前にするとなあ。
有名人に直接会ったら、こんな気分なのかしら。
昔、警備員やってたあるイベントに、秋篠宮ご一家に御行敬いただいた時とか、東京で世話になっていたシスターのお供を申しつかったら、出先に吉永小百合さんがいらっしゃった時とか。

尾形光琳の『風神雷神図屏風』に対面したときの酒井抱一もこんな気分だったのかなあ。
その後、裏に『夏秋草図』を描いちゃったんだけど、そのあたりの精神状態はちょっと分からない。尾形光琳の『風神雷神図屏風』も見ないとダメかしら。となるともちろん、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』も見ないとダメ、ということになる……全部見られるのはいつになる事やら。

でも今対面している相手は酒井抱一。抱一も比べられる事は覚悟の上、ともすれば勝負を仕掛けたまであるが、見た事のない作品とは比較できない。メディアの印象はアテにならんのは、たった今思い知ったばかりだ。

風神の腕は、酒井抱一の腕だ。

とはいえ、色々と語るのに、絵がないと分かりにくいので、参考リンクは貼っちゃう。

さてこの酒井抱一、何といっても、筆がすごい。風神のかざした風袋、頭の上にでっかく弧を描いて膨らんでいる、この布の中にミッシリ風が詰まってる張り切り具合。太い筆の線に籠った力、勢い。
この長さ一間もありそうなブットイ線、抱一はコレを描くとき、思いっきり腕を伸ばして、力いっぱい、振り回したんじゃないか。

描き始めは、ギュウッと肘をまげられるだけまげて、胸に食い込むほどに引き付けて、ギリギリと力をためて、ためて、息を吸って、これ以上無理ってトコまでヘソの下に力を込めて、肚をくくったその瞬間……ブゥン! と腕を振り回し、筆が全力疾走! 一気に線を引き切った終わりには、腕は肩から肘から手首まで、ビィーン! と伸びきって、そのまま肩から引っこ抜けて屏風の外に飛び出していく。

つまりこの風神の両腕は、まさにコレを描いた抱一の腕なのだ。右腕も左腕も、肩が脱臼しそうなくらい、背中に回っている。肩にギュウッと引き付けられた右手は描き始め、ビィンと伸びきって、屏風を突き抜ける勢いの左腕は描き終わり。真っ白な風袋は、振り回された腕の軌跡だ。ビュウゥーッ! という、抱一の腕が、筆が、風を切る音が聞こえてくるのだ。

雷神の脚は、酒井抱一の脚だ。

この雷神が長く引いている裳、片面の半ばから始まって、もう片面の端の角まで届いている。曲線だし、緑色だからピンとこないけど、この何かを求めるようにギザギザに伸びて、こちらに届きそうな様子は、稲妻なんだろうか?

屏風の大きな画面に絵を描くときは、布団みたいに床に敷いて、上に板を渡して、そこに乗って描くそうだ。
縦ならば座って線を引くことができそうだけど、横に長い時は大変だろう。四股を踏むように両足を広げ、限界まで……左足の踵が尻の割れ目に食い込むほどに……腰を落として左に持っていく。左の膝はミッシリと曲がり、右脚はピーンと板の端まで伸びて……股関節が脱臼しそうなくらい、股を一文字に開いて……右腕を左に伸ばして描き始める。グルリ、グルリと向きが変わる筆を、ブレさせないように、体重を低く、体幹は垂直に保たなければならない。線が右に行くのに合わせて、尻を板に擦り付けるように、左膝を少しずつ伸ばし、右膝を少しずつ曲げて、ジリジリと、上半身を平行移動で右に持っていく。描き終わった時、描き始めとは逆に、左脚は限界までピーンと伸びて、右膝は太ももとふくらはぎが押しつぶし合うまで曲げられる。

雷神の両腕が、この絵を描いた時の抱一の腕ならば、風神の両足は抱一の脚だ。
しっかりと腰を落として、緑色の裳の姿をした稲妻を、グイグイと伸ばして地面までとどかせる。伸びた左腕は、雷神の屏風の外まで飛び出しそうな勢いとは違い、握りしめた筆を、グッと押さえつけるような、力のこもり方。

雷といえば飛び散るような稲光、ひらめく稲妻という瞬間がある一方、その正反対の、雷鳴のドスン、ズシンという重たさもある。それが、四股を踏んだ瞬間のように、踏みしめられた両足と、落としきった腰つきに現れている。
この重量感と、雲に乗る軽やかさの落差は、天と地の間に走る稲妻そのものだろう。

酒井抱一『十二ヵ月花鳥図貼付屏風』『十二ヵ月花鳥図(軸装)』

やっぱりコレは、お茶席のためのものなのかな?
季節の移り変わりに合わせて、茶道具も変える。掛物はその最たるもの。床に飾る花や、草木の香、着物や茶道具の柄、組み合わせは無限大。
「ヒマワリと朝顔は分かる」
「コレは牡丹かなあ。こっちは菊科の何か?」
「梅とか桜は分かりやすいが。アレはバラか?」
ともすれば図鑑の絵みたいに精緻な描写に、友人との会話はついついそんな読み解きに走ってしまう。
ひととおり、ああでもないこうでもない、と話して、ふと見ると、壁に「コレはアレ」と解説が貼ってあった。

本当に、日本画とか工芸の類を見るたびに、花や草木の名前をしっかり憶えておけばよかった、という気持ちになる。
できれば虫や魚も。それが分からないと、読み解きをはじめられない作品が多い。モノによっては季節すら分からない。いかに日本の美術が、風土に根差したものであるか。

そんな一面に気をとられていると、逆に、写実のみでなく、作者がその花や草木、虫や鳥のイメージをどう広げて、どんな味付けをしているのかを感じ取るのがおろそかになる。
でもその辺までガッツリ味わおうと思ったら、和歌やら俳句やら、下手すりゃ漢籍まで手を伸ばす羽目に……

いや、まずは本当の花や草木を見て、自然を味わう事から始めるべきなんだろうな。ここはビル街のど真ん中だ。自然と言えば、遠くに皇居のお堀と、その向こうに森があるばかり。遠いなあ。そんな人工物のど真ん中で、花鳥風月を想うとは、考えて見れば不思議なものだ。
思えばこの夏、ヒマワリも朝顔も、他人のお庭に咲いているのを、通りすがりにチラリと見たくらいだ。それで絵の出来がどうこう言おうなぞ、了見違いも甚だしかろう。
まあ、ソレを言い出したら、お姫様も神様も、パリや離島の風景だって、ホンモノを見た事はないんだが。

与謝蕪村・浦上玉堂・池大雅の山水図。

前言撤回。こんな風景は、玉堂も大雅も見てないだろう。
話に聴いた桂林の風景か。グリグリと盛り上がった山水図。
だけど、生えている樹や水系の有様は、何度も見て、何度も描いて、体に入っているモノなのかな?

与謝蕪村の山水は、岩山や雲霞、樹影に水景など、一つ一つのオブジェクトをクローズアップしていくと、ドンドン細かい描きこみが目について、現実に見える。だけどカメラを引くように視界を広げていくと、今度は次第に存在感が薄くなっていく。その全体は、まるで夢の中のようにユラユラして、見ている自分までフワフワ浮いている心地になる。まさにこれこそ仙境か。

池大雅は、季節の移り変わりを十二ヵ月それぞれに山水画に描いている。冬の小さな枯れ木が森へと膨れていき、背後の山塊も生き物のように盛り上がっていく。同時に、墨の色も生命力そのもののように、太く濃くなってゆく。樹木や岩山の描写は、決して写実を捨てているわけではないのだけど、作品そのものが、自然に宿っている形のない生命力や、各季節の空気や光、さらには人の心の中にある、各々の月のイメージといった、形のないモノを表現しようとしていて、細部の写実的な描写も、そのための手段でしかないようだ。

浦上玉堂の作品は……もう、これは本当に絵なのか? いや、もちろん絵なんだけど、墨をいかに走らせるか、ほとばしらせ、にじませ、かすれさせるか、筆をどんなふうにねじり、ひねり、押し付けるか。そんなコトばっかり考えているように見える。どちらかと言えば、書に近いんじゃないか?
文字を書くかわりに、山水を描く書だ。ジャクソン・ポロックのアクションペインティングに、墨一色の作品があって、それがどうしても、書にしか見えなかった事を思い出す。

書・絵巻物。

そんな事を考えていると、
「いやいや書というのは、こういうのだよ」
と、紀貫之や小野道風の書が展示されているのだった。
なんかすいません。
偉そうに「ポロックのアレは書だ」なんて吹かしてはみたけれど、書なんて全然分からない。殊、能筆祐筆なんて、読めもしやしない。良寛様とか、アッチ系の分かりやすい書が、なんとか「いいなー」って思えるくらい。

絵巻物の絵は、物語の挿絵だけに、読み取ろうと思えばいくらでも読み取れる。しかも今回、展示されているのは、伴大納言とか西行とか、英一蝶の風俗モノとか、いわゆるエンタメ系の作品ばっかりだ。
この展覧会の目玉でもあるから、沢山の人がジッと見入っていた。なかなか動かない。山水や書よりもよっぽど分かりやすいし、デフォルメの効いたオッサンや子供やおばちゃん達の姿は、いくら見ていても飽きない。

どうしようかなーって思っていたら、同行の友人の疲れた様子が目についた。そうだよなあ……美術館を三つハシゴは、しんどいよなあ……普通の人は……
自分もさすがに少し疲れた。半日新幹線に乗って、後の半日は旅行カバンを抱えたまま美術館めぐりをしていたのだ。五年前ならまだ行けたけど、もう若くないみたいだなあ。

書や絵巻物は、改装後の機会を待とうか。事前の勉強をする時間ができた事にしよう。


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