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愛知県美術館『パウル・クレー展』その4

その3からの続き。


クレー展の話題に入る前に大物を片付ける。参考作品として展示されていた、ジョアン・ミロの『絵画』についての話。

ジョアン・ミロ『絵画』

1925年の作品……今からピッタリ百年前!
ミロの絵は「何が描いてあるのか分からない」と言われる。「何か」を描いた絵ではないから、当たり前なんだけど。
音楽を聴いたとき
「このメロディーは何を描写しているのかな?」
「ここの和音はどういう意味なのかな?」
とか考えないんだから、絵だって同じ。
色のハーモニーや線のリズム、筆触の質感を楽しめば良い。
小さい画像では分かりにくいんだけど、実物は畳一枚ほどもある大きさで、迫力がスゴイ。威圧的な要素は見当たらないのに、不思議な存在感があるのも面白い。

ミロやクレーの持つ、こういう方向性が進んでいった先に、ジャクソン・ポロックとかがあるのだと思う。

繰り返しになるけど、だからこそ「音楽のように、造形にも裏付けとなる理論を!」というのが、他でもないクレーや、カンディンスキーが、バウハウスでやろうとしていた事だ。そんな、音楽のように魅せる作品に、あえて『絵画』というタイトルをつけるところが、ミロの面白いところ。

画面を塗りつぶした、薄い雲のかかった春の空のような青。潤った春の空気の、風と暖気の中間のような、音になる前のソワソワした感じ。わずかな青・黒は、春めいた空気が満ちた中に、ほんの少し残った冬の名残の風の音か。小さな白は陽だまりのようで、今年初めての陽炎がゆれる音。くっきり赤いのは、鳥の声。
「何かを表現しているわけではない」とさっき書いたばかりなのに、文章にするにはモノに例えるしかないので、こんな書き方になっちゃったけど、要はそんな感じの音楽に近い、と言いたかった。お察しください。

さらにクレーが、造形理論を基にした作品について、あえて物質的な性格を強調して創作してみせたように、このミロの作品も、音楽的なのに画面は「俺は絵画だぞ」という主張が強い。青も黒も白もこれ見よがしに筆跡が残されて、筆が画面にバシバシ叩きつけられたり、グリグリと擦り付けられる音が聞こえてきそう。黒い線は細く震えていて、カリカリと刻まれる音が聞こえてきそう。

実際、背景の青を塗りたくった刷毛の暴れっぷりのせいで、カンバスの木枠の形が画面に浮き上がって見えているのだ。張られたカンバスも、心なしかたわんでいるような……
クレーの手作りの額と同じで、作品がいかに物質であるかを見せつけてくるスタイル。

描かれている物は、具体性を捨てて、音楽並みに抽象的。
画面の構成は、純粋な理論を志向する活動に根差している。
それなのに、作品そのものは、まぎれもない物体であることを主張する。
言葉にするとシッチャカメッチャカなのに、ちゃんと一つの作品としてまとまっている。ミロすげぇ。
なんでこんなスゴイ創作ができるんだろう?
もっと見たいなあ……

……3月から、東京都美術館で『ミロ展』あるんだよなあ。
行きたいなあ……

ハンス・アルプ、再び戦争とクレー。

ハンス・アルプ『森』

1917年頃。「その1」で取り上げた、クレー『インテリア』と同じころ。クレーの作品は目の粗い布に描かれていたが、アルプは分厚い板で作っている。
解説によれば、この時期に、自然の造形を取り入れた作風にたどり着いたとのこと。クレーがバウハウスに参加していたように、アルプもデ・ステイルという運動に参加していたという話。バウハウスが基本は建築の学校であったのに対し、デ・ステイルはデザイン中心で、雑誌がハブだったとか。

調べていたら、また間違って覚えてたことが判明しました。モンドリアンが居たのはバウハウスじゃなく、デ・ステイルの方でした……と言われても、自分もよく知りません……
デ・ステイルの影響下にあるクリエイターのうちで、日本で一番知名度があるのは、ディック・ブルーナだそうです。
そういわれると、俄然興味が湧いて来た。

バウハウスみたいに、デ・ステイルも、展覧会とかドンドンやって欲しい。行きたいです。他のクリエイターもみんな、ブルーナみたいにシンプルで洗練された、柔和で温かい作風なのかなあ。
すくなくとも、ハンス・アルプはそうみたい。
ブルーナの源流がデ・ステイル、創立したメンバーの一人がアルプで、クレーはそのマブダチということは、ブルーナとクレーもつながっているのか。
だからクレーの絵にも絵本みたいな優しさがある……と考えていいのかな?

パウル・クレー『攻撃の物質、精神、象徴』

1922年。「その2」で取り上げた『Ph博士の診察室装置』や『淑女の私室でのひとこま』等と同じ頃に描かれてたもの。カリカリした銅版画のようなタッチこそ絵本っぽい。だけどネタが物騒だ。まだ戦争を引きずっているのかなあ。
左端の人物は、フラフラ迷い込んできたようだ。背中に矢が突き刺さっている?
真ん中の人物は、大きく脚を上げ、踊っているのか行進しているのか分からない。グルリと体をひねっていて、不自然に上を向いた眼から、何かが噴き出している。首から又の間へブラブラぶら下がっている小さな矢。
左端では、ついに倒れ伏して、既に人間の姿をしていない。壊れて捨てられた傘のような姿。ただ矢印だけが、いまだに左を差している。

『攻撃の物質、精神、象徴』というタイトルだ。「象徴」は矢がそうだろうか? 「物質」はこの人物……人体と言った方がいいか? この人物の、肉体ではない方が「精神」かな? 「攻撃の」というタイトルだけど、攻撃される側だ。
クレーが実際に戦場で見た光景だろうか?

この真ん中の、のけぞった姿は、14年後に現実になる。

パウル・クレー『蛾の踊り』

パウル・クレー『蛾の踊り』1923年

今回の展示、天使のシリーズが無くて、残念に思ってる人も多かっただろうけど、この絵がそれを補ってあまりあるようでした。
天から降る光の中で、胸を開いて上昇していく女性のような姿。いくつもある下向きの矢印は、荒い落とされていく罪や穢れのようでもある。顔の真下の足元には、小さな涙の滴が一粒。
背中に黒いレースのような斑がある。羽ばたく翅の残像か、鱗粉だろうか? 蛾という題を意識して見ると、彼女を包むボンヤリとした白は、繭のようでもある。
上昇しているように見えたけど、実は繭の中でまどろんで、ゆっくりと踊っているのかもしれない……
見るたびに、見え方が変わる。そのイメージの変化こそが、踊りなのかもしれない。
彼女は画面ではなく、観る物の心の中で踊っている。
クレーの天使に会いに来た人々は、自分も含めて、おそらく皆、この絵で、求めていたものを得られただろう。

……ただ、彼女の胸に、矢羽根まで深々と、矢が突き刺さっているのが、どうにも気になる……

パウル・クレー『上昇』

パウル・クレー『上昇』1925年

下から伸びる黒い影は尖った山の頂上みたい。上にかぶさる黒い影は、星空かな。左右には輝く雲。
あるいは、下の鋭角の黒は道? 左右は壁か木立とか。
遠近法のような色の背景と、描かれたモチーフが小さいのをあわせて、空間の広がりがとんでもない。だから、ハシゴの頂上まで上っているのに、まだまだ上に行けそうだ。

タイトルの「上昇」がどういう意味なのかにもよるけれど。
左側に散らばった塵が、赤い矢印で右側に行き、円と直線の図形に変わるあたり、混沌から秩序へ変わることも、上昇のうちなのかな?

パウル・クレー『羊飼い』

キュビズムもシュルレアリズムも通り越して、原始に還ったみたいだ。油彩なのに、白い滑らかな石の壁に刻んだような赤黒い線。線の外ににじむのは、擦りこまれた酸化鉄の赤のようだ。原始人の洞窟画のような、人物と動物。

手前に4匹の狼、手に杖を持って立ちはだかる羊飼い、後ろの動物は羊だろうか? 横長に大きな1匹と小さな動物が2匹。その下に、縦に幅のある1匹と、人物が1人?
小さい2匹は牧羊犬? 下の重なり合った動物と人物は、馬に乗っているところ?
細かいところはよく分からないけど、物語のシーンとしては何が起こっているのかハッキリわかるのは、ハートマークという見慣れたものがあるせいかな?
片方の犬と小さい人物以外は、火でも噴いているみたいに、口から放射状の線を出している。何かを叫んでいるのかな? 何を叫んでいるんだろう?

聖書の「良き羊飼いの喩え」に基づく作品なのだそうだ。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。

新共同訳聖書『ヨハネによる福音書』10章 14-15節

この作品が世に出た1929年と言えば、スターリンがブイブイ言わせてたり、ヒトラーがジワジワ勢力を伸ばしていたり、年末にはブラック・マンデーで世界恐慌突入、という色々とキナ臭い時期。
「その2」で取り上げた『戦っているポップとロック』はこの翌年1930年に描かれたもの。
エルンストは不気味な『森』のシリーズや『百頭女』などの謎めいた版画などを制作している。
カンディンスキーやモンドリアンは、日に日に弾圧の高まるバウハウスを、必死で守っている。

四頭の狼の前に立ちはだかる羊飼いは誰だろう?

パウル・クレー『殉教者の頭部』

パウル・クレー『殉教者の頭部』1933年

この絵が描かれた1933年、ナチス政権によってバウハウスは閉鎖された。この殉教者は、いったいどんな想いで、どんな教えに殉じたのだろう?

額縁もオリジナルなのかなあ。傷だらけだ。
まるで、鞭うたれ、茨の冠でも被せられたみたいに。
ぶ厚い塗りのせいで、剥がされた顔面の皮が貼りつけてあるようにも見える。周りに布目を残されているから、布に顔が写ったようにも見える。
聖ヴェロニカの、聖顔布のイメージなのかな。

パウル・クレー『花のテラス』

1937年の作品。解説には「中央にある『S』の字は蛇です。この作品は、アダムとイブが追放された後の、エデンの園を描いたものです」とあった。
単なる「S」の字を蛇だなんて、ちょっと強引だと思ったが、同じころ、蛇をテーマにした作品が何枚もあって、よく似た「S」の字が蛇として主題になっていたとのこと。
確かに『殉教者の頭部』も『聖ヴェロニカの聖顔布』という古典的な主題だった。この頃のクレーが、古典的なテーマに回帰していたなら『楽園追放』も描いて当然だ。
しかしクレーが描いたのは、定番の「楽園から追われ、泣きながら去るアダムとイブ」ではなく、アダムとイブが去った後、蛇が我が物顔で支配するエデンの園だった。

バウハウスが解散して以降、ドイツからは、多くの文化人や科学者が去っていた。1936年、ベルリンではオリンピックが開催され、ドイツの反映を見せつけていたけれど、それこそ蛇の支配するエデンだったかもしれない。

ハンス・アルプ『星座』

1932年の作品。クレー『殉教者の頭部』の前年。クレーの、血の汗を流すような作品と比べると、ずいぶんスッキリしている。アルプは既にフランスに移住していたから、ナチスの影響は薄かったのかなあ……と思っていたら、この頃、母親を亡くしたばかりだったようだ。喪失感が昇華されて、透明になっちゃったのかな?
アルプは、ドイツとフランスの境、アルザス地方の出身で、移住した後、名前もドイツ語読みのハンスから、フランス語読みのジャンになった。時代の流れに翻弄される事に対してクレーとは、ずいぶん違う感情を抱いていたかもしれない。それとも、もうそんな事には動じるつもりはなかったのか? ただ純粋に、造形の世界に生きる事を選んでいたのか?

3月から東京のアーティゾン美術館で、アルプ夫妻の展覧会があるとのこと。行けば少しは理解できるのかなあ。
ミロといい、アルプといい、クレー関連の展覧会が続く……
やっぱり、夏前に東京に行かなきゃダメかしら……

その5へ続く。

終わらないよう……
というか『黄色の中の思考』とか『回心した女の堕落』とか『恐怖の発作 Ⅲ』とか『山への衝動』とか、そしてなにより『無題(最後の静物画)』とか……難しすぎる!
感じた事は色々あるんだけど、どう言語化すればいいのか、そもそも、そんな事できるのか? ぜんぜんわがんない!

「夏前にもう一度、東京に行かなきゃなあ。
東京都美術館の『ミロ展』を観なくちゃなあ。
アーティゾン美術館の『アルプ展』も行かないとなあ」
という、最終的な結論が出ちゃってる。だったらもう、これ以上は書く必要、ないんじゃないかって気もします。

だけど、せめて『無題(最後の静物画)』についてだけでも語りたい……
「カードの天使の像は、本当に『まだ醜い』なのか?
ヤコブと天使の格闘じゃないのか?」
とかなんとか、ネタは色々あるのですが……

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