わたしの町のスペイン料理やさん
町の不動産屋で働いていた。サザエさんでいう花沢不動産みたいな。
「あそこ、また店変わってるな」
そんな店舗があなたの町にも一つはあるのではないだろうか。
事故もなく立地も悪くない、なのにお店が定着しない。
駅前にある『銀杏ビル』にもそんな一室があった。
銀杏ビルは全部で四店舗が入る二階建てのシンプルな外観のテナントビルだ。
ここの一階端、D室は入居者が次々変わる。
古着屋さんに宝石やさんブティックが入ってそれから事務所。
オーナーに退去があることを伝えると
「またD室ですか」
と言われる。
たまたまで、霊的なものではない。
たぶん。
そんなD室も半年ほど『空』のままである。
そろそろオーナーさんからのプレッシャーが…と思い始めた頃「堀田」と名乗る男性から問い合わせのメールが届いた。
スペイン料理店を開きたいので条件の合う物件資料をいくつか送って欲しいとのこと。
早速『銀杏ビル』の資料も含め4店舗ほどを紹介した。
わたしの地元でもあるこの町はスナックは多々あれど洒落た料理店は少なく友人との外食時の選択肢は非常に少ない。
そんな町にスペイン料理店なんてハイカラなものがやって来るかもしれない。
スペインのことはなにも分からないが、食べには行きたい。
うちがダメでもどっかの不動産屋、なんとか仲介しておくれ!
急激なスペイン料理熱が吹き荒れていたとき
「何件か物件内覧をしたいです」
という嬉しい連絡がきた。
ぜひ、わが町にスペインの風を吹かせたい。
個人的な思いにより、いつもより暑苦しい営業をかけたが堀田さまは冷静にそれぞれの物件の立地や契約条件を確認していた。
すごくいい。
経営には冷静さが必要ですもんね。
ポッと出の不動産屋の言葉に乗せられるようではこの先の経営に不安があります。
それから何度か内覧を重ね慎重に物件を見定めた堀田さまは『銀杏ビル D室』への契約をきめた。
店内の改装を経てオープンすると早速、友人を誘い食事に行った。
パエリアと見たことない器に乗ったスパニッシュオムレツが美味しく、そのうち
「新しく、おいしいお店ができた」
と、人から店の名を聞くようになった。
口にすれば「だから何?」となるので、心の内だけで「わたしが仲介したんですよ」と誇らしく思ったりした。
わたしは仕事をやめ町を出たが、あれからもう変わることなく銀杏ビルD室はずっとスペイン料理店だ。
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この夏に帰省した際、わたしの娘は父母が見てくれると言うので妹と久々にランチに行こうかと例のスペイン料理店へ行ってきた。
変わらずパエリアがべらぼうに美味しくて、2人でワインをガブガブ飲んでどんどん食べた。
まだお昼で、ワインは冷えていて、食べ物は美味しくて、妹と楽しく話ながら陽気に実家に戻ればお留守番していた娘がクーラーのきいた部屋で昼寝をしていた。
隣にごろんと寝転び読書をしながら
「天国とはここにあったんだな」
とそのうち眠くなったので一緒に昼寝をした。
スペイン…
いまだにその地はよく知らないしアンダルシアに憧れることすらないのだが、この夏、天国を見たわたしをその入り口に連れて行ってくれたのは、かの地の料理とワインとわたしの町のスペイン料理やさんであることは間違いなさそうだ。