見出し画像

2人の悪魔 #20

信ずるものこそが



「なぁ、人間で言う『彼氏』ってなんだ?」
「ッブボバファ!!ゲホッ!」

汚いわね…と少女の呟きを背負いつつ、ルキフェルは知己の男から問われた内容に理解が追いつかず目を回した。額に手を当て、一旦沈黙を返す。今この男は何と言った?

「それを知ってどうするんだい」
「坊がこの前そんなこと言ってて…でもその単語?にもあんま聞き覚えなくて…どういうのを指すんだろうなと」

ルキフェルなら人間との関わりもあるし、知ってるんじゃないかと思って。そう話す男はこの話題に関して特に何の疑問も持っていないように思えた。恋だの愛だのそういうのは全く疑問の範疇にも入っていなさそうだったので、とりあえずなぜその疑問が出てきたのか経緯を聞くべきだろうかと青年は蝶の瞬く鳥籠を膝に抱えたまま改めてフェニに問うた。

「確認のために聞くが、どんな文脈で出てきたものなんだ」
「えーと……坊がハーゲルの態度に対して言った言葉、かな。確か…『こんなに束縛の強い彼氏嫌だ』とかなんとか」
「………?」

あまりの衝撃に脳が考えることを放棄したらしい。この男が何を話したのか全く理解できなかった。間違いでなければ、ハーゲルというのは例の湖畔の悪魔ではなかろうか。一度だけアダムスの気まぐれで雪山の山中にて膝を突き合わせたあの男が『彼氏』と称されるなら、その対になる相手はもしかしなくとも目の前にいる知己なのでは?つまりどういうことだ?さしものルキフェルも降って湧いた異常事態に困惑を禁じ得なかった。

「君は……あの湖畔の悪魔と付き合っているのか?」
「付き合うってなんなんだよ…俺、まずそれがよくわからなくて」
「………じゃあそれはわからなくていい。今、まさにこの瞬間までの間、君と湖畔の彼の関係性はなんだ?」

それならわかる、とフェニは少しばかり笑みを見せながらルキフェルに対してこう言ってのけた。

「俺がハーゲルのものになっただけ」
「は?」

反射的に出た言葉に咳払いをする。いやいや、待て待て。流石にこの話だけでは判別できない。なんならこの男はこと恋愛云々に関係する全ての常識がないということを思い出せ。そう己に暗示をかけると、「もっとわかりやすく」と説明を促した。

「俺が元々ハーゲルに戦い挑んだりしてただろ?首に傷作ってきたりとか…この前も足に大穴開けられたり…それから俺が降伏して、その対価として俺がハーゲルの駒になった」
「条件は君が駒になることだけか?」
「命も、体も、髪の一本も血の一滴ですらハーゲルのものだって」
「はぁ………」

それは所謂呪術契約とかにかなり近いのではないだろうか。そうでないなら、かなりの執着と独占欲の表れとみるべきか。以前に対峙した時の印象だけで言うなら、あの男は全てを承知した上でフェニに何も伝えていない可能性が大いにある。その性悪さを兼ね備えていて、かつうまいことその手に強大な駒を有したとも言うべきだろうか。結局この男は純粋で、それが最大の長所であり短所でもある。そこを上手く絡め取られたというべきか。元々この状態に持ち込むのを見計らって行われた行為だというなら、かなりの手腕である。ここでルキフェルがフェニに対していくらか手を貸す余力があればまた違ったのだろうが、生憎ルキフェルの関心は全て手元の蝶(彼女)に向いている。

「まあ君がそれでいいならいいんだ、私からは何も言えないな」
「…その煮え切らない態度、なんかあるだろ」

おかしい。訝しげにこちらを見つめる男を横目で見つつそんなことを考える。ルキフェルの知るフェニならば適当に返しておけばそうか、と納得して勝手に悶々と考えてくれるはずなのだが。

「俺だっていつもはぐらかしてくる相手と喋ってんだ、適当なこと言って追い返そうとしてるのくらいわかる」
「どこで覚えてきた、なんて言うこと自体野暮だろうな…」

教育の賜物というべきだろうか、とルキフェルは内心溜息をついた。なんとも面倒なことをしてくれたとも。

「全く……降参だ。彼氏云々というのは人間でいう恋愛関係における関係上の名称だが、これが君達の関係に当てはまるとは状況的には非常に言い難い。彼の…アダムスのいつもの戯言のひとつだな。最も的確な関係性としては主人と犬が近いか」
「ハァ…………お姫さんにも可愛いワンちゃんね、って言われたばっかなのに……」
「まさにそう見える」

犬は嫌だって言ったのに結局犬なのかよぉ、と情けない呟きが聞こえたが、ルキフェルはこの関係性にこれ以上首を突っ込んでは面倒だと腰をあげた。

「というかフェニはどうしていつも私に聞くんだ、それこそ湖畔の彼に聞けば楽だろう」
「そんなの鼻で笑われて終わりだよ、馬鹿」
「…そうか」

ますます犬だな、と思ったのは内緒にしておく。本来の気質ならば掴みかかられても御の字くらいだ。

「これ以上聞いてはいられないな、そんなに彼が好きならいっそあの雪山付近に引っ越したらどうだ?少しばかり気休めにはなるんじゃないか」
「あっおい!ルキフェル!だから好きってなんなんだよーーー!?!」

本当に付き合ってられない!とルキフェルはやれやれと言わんばかりのプシュケーを片手に今度こそその場を後にしたのだった。

場所は変わり、ハーゲルの住処にて。

「……で?お前の何でも知ってるオトモダチに教えてもらえなかったからって僕に聞きにきたのか?馬鹿か?少しくらい自分で考えろ」
「だ、だって…」
「聞かねえ、考え事するならその辺の川に頭突っ込んで冷やせ」
「物理的に冷やそうとすんな!これでもマジでわかんねえから聞いてんのに…」
「真面目に、ねえ」

ふーん?とハーゲルの厳しい視線がびしびしと肌に刺さるようで、うぐぐとフェニは胡座をかいたまま縮こまった。

「好きだのなんだのは考えないとか言ってなかったか?」
「だ、ハーゲルだって俺に最初に…さ、触った…とき、に!好きなやつのことでも考えろって言ったけど!好きなやつって気に入ってるやつのことだろ、そんな奴全然思い浮かばなくて…!」
「なら今は」
「え」
「今はどうなんだ」

腕を組んだまま、座り込むこちらをじっと見つめる若草色が何かを期待しているかのように見えて、フェニはごくりと唾を飲み込んだ。

「考えろ」
「そ、んなに…見られたら考えられない…」
「じゃあ川に顔突っ込んでから雪に頭突っ込んで凍るまでの間に考えるか?」
「アッいい、いいです今考える」
「よろしい」

好きなやつ、好きなやつ…と呟きながらぎゅうと目を閉じて必死に考える。あの時は初めての快楽を外に逃すのに必死で何も考えられなかった。けれど2度目も、その後もこの体にハーゲルが触れる機会は何度もあった。抵抗することもいつだって出来たはずなのに、いつもあの若草に見つめられて『いい子、』と言われてしまうと胎の奥がぎゅうと締まってなぜかひどく堪らない気持ちになって、頭の中が彼でいっぱいになってしまう。そうして、早く触れてほしい、中まで拓いて欲しいと望んでしまう。

「ぅ、…」
「おやまぁ……」

健気なやつだな、とハーゲルの機嫌の良さそうな声が聞こえて、喉奥からきゅう、と甘える声が漏れ出てしまう。この男の機嫌がいいと、たくさん褒めてもらえると思ってしまうからだろうか。素直に話せば褒美が貰えると思ってしまっているからだろうか。彼が言う事を何でも聞いてしまいたくなるからだろうか。

「条件反射ってやつかね、躾の副産物だな。僕もまだまだ腕は鈍ってないらしい」
「は、げる、おれ……好きなやつ、わかった気がする…」
「へえ?」

答えを促され、やけにぼうっとする頭のまま「前ならともかく今は好きなやつって言われたら…ハーゲルしか思い浮かばない…」と口にする。途端に、目の前の男の顔が見たことがないくらいわかりやすく崩れる。それはあまりにも優しくて、甘ったるくて、昔のフェニなら気持ち悪いとでも言いそうなほど満足げな顔だった。

「可愛いやつ、本当にそこまでになったのか?いつもなら少しばかり意地悪するんだが…さすがに甘やかしてやらねえと可哀想だな…」
「あ、ぅ、は、ハーゲル?ま、待って、俺なんか変、で」

ぺたん、と胡座をかいていたはずの足はいつのまにか床についていて、尾は勝手に服従の姿勢になっていた。それが一番屈辱的だとわかっているのに、なぜかそうしなければならないような気がして。フェニが改めて顔を上げたときにはハーゲルは既に椅子に座っていて、己の目と鼻の先に彼の膝があった。

「来い、撫でてやる」
「う、ん…」

ずりずりと身を彼の方へと引きずり、ぽんと顎先をハーゲルの膝の上へと乗せる。彼の冷たい手を熱で溶かしてしまわぬよう、耳元の炎へ意識を向けてなるべく炎の勢いを落とせないかと苦悩するも、自身の胸の鼓動に共鳴してか全くその勢いは衰えることなく轟々と燃え盛っている。その様子を見て面白そうに「ッハ、」と息を漏らす男に媚びるようにツノを膝へ擦り付けた。手を前につき、顎先を上へ持ち上げる姿勢は、意識せずとも己の芯を床に擦り付ける形になり、知らぬうちに硬さを増していたことに恥じらいを感じつつ男の反応を待った。

「犬みてえだなァ、毛並みも極上だし…お前の全部が僕のもの、よくわかってるみたいだが」

額と頬を覆うツノは彼の手を傷つけはしないだろうか、痛くはないだろうか、鱗を剥がされたりはしないだろうか。そんなことを考えながらじっと男に撫でられる。ひとたび撫で始めて満足したのか、ハーゲルの手が頭から顎先に降りてきた。

「恋だとか、愛だとかを今更教えてやる必要はないと思ってるが。例えば…お前が自分の体に触れる相手が僕じゃなきゃ嫌だと思う感覚が、お前の求める答えに一番近いのかもな?」
「それって…アンタが喜ぶことをしたいっていうのと同じか…?」
「そうだな」

フェニ、と男が名を呼ぶ。この男に呼ばれる自分の名が、いつしかとても愛おしく忘れられない音になって。夢でも見て、己を慰めるときにも男のこの音が耳に染み付いて離れなくて。胸の高鳴りを抑えたまま、顔を上げてハーゲルの顔を見やる。

「僕のことが好きか」

そう聞く男の顔があまりにも優しくて、普段どれだけ無碍に扱われているのかが全てすっぽ抜けた頭で、「すき、」と口にした。それが、それこそが。フェニが初めて知った感情の正体だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?