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見えすぎて困る

メガネの度数を落とした。

小さい頃から、視力があまり良くなくて、メガネなりコンタクトなりで矯正された視界の中で、日常のほとんどを生きてきた。裸眼で測る視力検査ほど嫌いなものはなかった。あれほど善悪がはっきりした残酷な空間はない。

ああ、これも見えないんですね。。じゃあこれは?

ああ、これも見えないんですね。。。。。じゃあ、ええと。。

と、見えることが普通であり、見えないことが悪である(おそらく検査している側にそんな気持ちはない)かのように扱われてしまうような空間がとてつもなく苦手だった。

その反抗の一種として、メガネやコンタクトを使って度数を矯正することによって、無理やりすべてのものをくっきりはっきり見えるようにしてきた。成長とともに視力は緩やかに下がり続け、遠くのものの輪郭をはっきり捉えるためにレンズの厚みも増していった。遠くのものがくっきりはっきり見えることが当たり前のように扱われてきたし、自身もそれを絶対的な正として認識していた。

こうして、幼少期からこれまで視力を矯正してきたが、会社員として、日中パソコンを使用しているとどうしても目が疲れてくる。この外出自粛中のなかで、web会議などリモートでの仕事も増え、パソコンとにらめっこし続けることも珍しくなくなり、目の疲れはどんどんと増していった。遠くのものをよく見えるように作っていたメガネでは、近くを凝視し続けることは不向きらしい。

考えてみると、日常生活のほとんどは自身の手がとどく距離で視界が完結している。朝起きるとスマートフォンやパソコンを眺め、人と会話をしたり、本を読んだり、、その範囲内の視界がクリアになっていればそこまで問題はないのかもしれない。もちろん車を運転したり、スポーツをしたりというときなどはまた別の話だけれども。

こんなことを考えて、手の届く範囲で見える程度まで、度数を落とした。目は全然疲れないし、生活にこれといって支障は出ていない。

当然だが視界はぼやける。外を歩いてもなんとなくぼんやりしている。だからといって信号は色でも判断できるし、車も人も認知はできるので交通ルールは守れる。気になるものがあれば近づけば見ることができるし、すれ違う人の表情の変化にもひとつひとつ気にしなくていい。遠くの看板に書かれていることをいちいち読まなくなったし、見えなかったしまあいいかと思うことも多くなった。思ってたより、というかむしろこれまで以上に快適にすごしている。

これまでが見え過ぎていたのかもしれない。遠くまでくっきり見えてよかったことが本当にあったかと振り返ってみると、日常的にはそこまで思いつかない。視界がぼやけることによって、視覚情報が削ぎ落とされ、余計な情報が自身のなかに入ってこなくなった。いちいち考えることが少なくなって、すっきりした気分で1日を終えることができるような気がする。無意識のうちに見えすぎて困っていたのだろう。見たいものがある時にくっきりはっきりとそれが見えることは素晴らしい。しかし、その副作用として見たくないものや、特段見なくてもいいものまでくっきりはっきりと見えてしまうとそれはそれで問題がある。視力が悪いからこそ、主体的に視界を選択できるのだから、視力のあまり良くない人間としてそこはうまく使いたい。

そんなことを考えながら、コンタクトを外すのを忘れて、自宅の風呂に入ると、いつもの数十倍汚れが目立って見えた。こんなに汚かったのか。

目を背けてはならないものも世の中にはあるらしい。

よく見えるコンタクトをつけたまま、入念に風呂を掃除をした。

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