シオンの眠るとき(Moonチーム) 感想
財産を巡る争いの話。とは言え、よくある連続殺人という展開ではない。
しかし家族として過ごしていた者たちには血のつながりがなく、血のつながりがあるという者たちが続々と出てくる。それも、「遺言書」によるというのだから、認めざるを得ない。
作中でも命を奪うという旨のワードが出てくる。しかしそうならない。人の命の価値を問うため、人の命を奪うというマイナス行為を出すということは定番。しかしそんなことをしなくても、人の命の価値、絆の強さ、人と人が交わるということは、人の命を紡ぐことということ。それを教えてもらった。
実の息子・娘ということになっていた二人が、相続権がないと言われ、顔も見たことのない人間たちが相続人候補として現れる。この二人は怒り狂い、殺してでも相続してやると思っても不思議ではない。
しかしこの二人はそこまでしない。自分の娘に相続権があり、そこに何とかして納めたいというところだろうが、智則が候補者だと分かると、安堵し、そこにおさまっても良いかのような態度を見せる。しかし、突然現れた候補者たちの話もきちんと聞こうとする。ここから、父親の本心と真実を汲み取りたいと思っているように見え、それはつまり、父親を尊敬し、慕っている。それが強い。そしてこの物語の中では、それが重要なファクターとなっている。この前提があるからこそ、安易な殺人劇も起きないし、人間というものの素晴らしさが見える。
財産の奪い合いというものは、人間だから複雑になり、命の奪い合いになることもある。しかし人間だからこそ、それを防ぐこともできる。
以前の作品もそうだったが、流星レトリック作品を見ると、ホント、人を信じてみよう、人間を好きになるものだ。
複雑に絡み合う人間関係で、それぞれの立場も複雑。なかなか「平凡な立場の人」は存在しない。それぞれの役の隠された真実も明かされていくが、この色々な役の中で、忘れられない演技が一つあった。
それは、貴衣子役を演じた百瀬るうさんだ。彼女の演技で、目に焼き付いているところがある。
智則の両親が、自分の祖父により命を断っていたという事実を知り、はっと立ち上がり、そして茫然としたシーン。
まばたきが全くなかったのだ。
貴衣子は、お嬢様として育ったのは間違いない。人を純粋無垢に信じられる人間のようにさえ感じる。冒頭に書いた殺人なんかそう簡単に起きない。そう一番思っていたのは、あの中では彼女かもしれない。そしてそう感じさせるだけの姿を、そのシーンまでに作り上げていた。少し大げさなむくれ方、Reiraの言葉に飛び上がる仕草。それらが作り上げた貴衣子という人物像。
そんな貴衣子の大きな瞳が、まったく瞬きせず、立ち尽くしている。我に戻ったという瞬間は、まばたきをすることで観てる側に示した。そして力なく、再び座るという動作に入った。まさにあの数秒、貴依子の”時”は停まっていた。
しかし、その演技の瞬間、客席正面を見ていたわけではない。下手側からでは見えなかったかもしれない。たまたま上手側に座っていたから見えたのかもしれない。何人が気が付いたのだろう。
百瀬るうさんは、以前もどれだけの人が気が付くだろうというところでの演技が光っていた。
彼女が出演しているのは演劇である。カメラとなる視点は、観ている側が自由に選択できる。それが映像作品と違うところ。
一人の人物を観る側に理解させるには、もっとわかりやすい方法やシーンがあるだろう。しかし、百瀬るうさんは違う。彼女の真骨頂は、こういう時にこそ発揮される。舞台を見慣れている人ほど、彼女の細かな演技に気が付き、感嘆するかもしれない。
以前観た舞台でそこに気が付いていてよかった。今回の舞台で、それは確信に変わった。これからも追いかけるのが楽しみになる。
終演後に本人に聞く機会があり、瞬きのことを聞いてみたが「意識していなかった」とのことでなおさら驚いた。ということは、誰に作られたものではない。まさにあの時、貴衣子になっていたということだろう。
そんな貴衣子が初めて受けた衝撃。大好きな祖父の行いが、二人の命を奪い、一人の子供の人生を狂わせた。仕事として、経営者として動いた結果のこと。よくある話。
しかしかわいがってもらった祖父。「死」というキーワード、「殺した」という非現実的な言葉とは、到底結びつかない。それが唐突に、脳内に侵入してきた時、思考は停止する。
まるで深海に潜った時のように、時が止まったかのような瞬間が訪れる。まばたきすることも脳が忘れる。息をすることも忘れてもおかしくないほどの衝撃。そして脳が危険だと察し、まばたきという行為が出る。そしてその瞬間、我に返ったかのように力なく、元の通り椅子に座る。落ちるといった方が正しいような脱力感がそこには感じられる。
この一連の仕草が、どれだけ貴衣子にショックを与えたかを物語っている。いや、それが自然なのだ。配信でもこの瞬間は捕らえられておらず、あの席だから観られたのは、本当に幸運だったとしか言いようがない。
そもそも何でそこに気が付いたかというと、貴衣子がフラフラと立ち上がる姿を見て、お嬢様として育った貴衣子がどんな反応をするか、言ってしまえば壊れてしまうのではないかとすら思ったからだった。見てみたいと思った。それはその後の展開に大きな影響を与えるかもしれないと思ったからだ。これはまさに、お嬢様として認識させるための演技が見事だったとしか言いようがない。
そして貴衣子に一番強いスポットライトが当たる時と言えば、自分の出生について語られる時だろう。
それまで「パッパ」と呼んでいたのに、一瞬、「お父さん」という呼び方に変わる。
距離感が少し離れたことを示す表現だろうが、ここを「あなた」などともっと距離を広げることもできただろうし、内容的にそれでも不自然ではない。
しかし「お父さん」という距離感止まりで済んでいるのは、どれだけ彼女が愛されたかが垣間見える。家族とは血のつながりじゃないという言葉の証明であり、その象徴であるのが貴衣子だった。
祖父が間接的とはいえ、誰かの命を奪った。そしてその子供も家族の一員として過ごしてきた。普通ならば憎んでも良いが、智則の愛を見て、心が持ち直した。そして血のつながりじゃないという言葉を聞き、それを実感した。
このシーン、百瀬るうさんは逆側を見ての演技だったため、どんな表情をしていたのか分からなかった。もう一回、自由席で行くことができていたら、きっと逆側に席をとって観ていただろう。この物語を文字で読んだとして、そして自分がイメージするであろう貴衣子を、まさに体現してくれたのが百瀬るうさんだった。
さて、貴衣子の話はこのくらいにして、物語は、少しずつ、事実が明かされながら進んでいく。
普通に考えたら、ワイドショーでも数週間は持つくらいの複雑さだ。
そもそも、隠し子と言える存在の多いこと。
最愛の人と結婚できず、そしてその相手も身ごもったことを隠して身をひく。
それはまだいいが、元秘書とも子をもうける。そして医師の提案とは言え、人工授精で提供元となり、その子を孫娘として接する。
それでもそこまで批判されず、叩かれないのは、彼の人徳なのだろう。劇中、回想シーンもなく、本人が出ることはない。あくまで観てる側が想像してイメージを創り上げるしかな
い。
早々に「復讐」というキーワードも出てきて、物語の軸となる。しかしそれでも決して「悪」にならないのは、自分の行いで両親の命を奪い、人生を狂わせてしまった子の面倒をみるという正反対の一面をみせ、そして時が経っても愛し続ける女性がいることで、彼の真剣さが見て取れる。もう一生会えなくなるかもしれない、それでもこの人の子を宿したいと思わせるほどの器。
これだけの人徳を感じさせることで、観ている側にも、不思議と憎しみのような黒い感情を植えつけない。
普通に見れば、「悪」に見えるものが、決してそうではない。関わったものにしか分からない真実が、見方を変えてくれる。
我々は、ニュースで表面的に「悪」と言えるものを多く知る。しかしその本質は、近くにいるものしか分からない。話したところで理解されない。それなのに、今は簡単に人を「悪」とし、叩き、周りの人間まで「悪」にしてしまうこともある。
この物語も、ワイドショーやゴシップ誌で取り上げられれば、「捨てられるって分かっているのに馬鹿な女だ」「将来的な財産目当てだ」「蛍火が一番正しい。普通の感覚だ」「孫娘が可哀そうすぎる」などとSNSで炎上し、貴衣子や家族がさらされる可能性も高い。
そんな現代社会に、一石を投じるかのように感じてしまう作品だと感じた。
人は人と直接関わることでしか知ることのできないことがある。SNSでの言葉は、ほとんどの人が何も知らない人たちのもの。それでも厳しい刃となり、人の心を刺し続ける。
この作品は、そういうことは一切出てこない。そういう風に描くことは可能だったはずだ。それでも限られた空間で限られた人数でお互いを知ることで、そう、まさにSNSとは真逆の環境に絞ることで、見えない対比をしている。こんな表現もあるんだと勉強になった。
シオンの花言葉の一つに、「あなたを忘れない」というものがある。これは、まさに愛憎どちらにもとれる言葉にふさわしいと思う。
一方で海外では、「繊細」「忍耐」ともあり、まさにSNSでの誹謗中傷に苦しむ人たちを表しているようにさえ、今となっては思える。
流星レトリック作品を観るのは二回目。一度目もかなり心に響いたが、今回も同様。やはりこの団体さんの作品は、自分に合っている気がする。
結末が違うという逆班も配信で観て楽しもうと思う。