舞台「魔女エステリーゼの事件簿 贋と軀編」感想
いつも、観劇の時はほぼ、あらすじや予備知識を入れて行かない事が多い。
今回もいつものように、予備知識ゼロに近い状態で劇場へ。
さらに言えば、外国人の名前も苦手。それはたぶん、普段から海外映画やドラマに触れる機会が少ないからかもしれない。文芸翻訳の学校を卒業したのに、今はビジネス英語を使うのは、それが要因かもしれない。
そんな状態だからこそ、前説で説明を聞いても演者の名前と顔でなんとなくイメージを掴む。凄く丁寧な前説でありがたかったけど、その点はちょっと申し訳ない。
加えて、今回、初めてこのシリーズを観劇。ミステリだと前説で聞き、自分がえんげきではあまりミステリに触れていないことに気が付く。映画やドラマではミステリをよく観るのに。
そんな不慣れな要素が重なりまくった中、幕が上がった。
正直、タイトルの「魔女」から、ファンタジー、とまではいかなくても、人智を超えた出来事がおこる、その中でのミステリかと思っていた。前説でも、Twitterなどで犯人は〇〇という考察がある、ということを言っていたので、最後、犯人は濁したまま終るのかと・・。
ところが、蓋を開けてみると全く違う。当初、案の定、人物の相関関係は分かったものの、名前がイマイチ。覚えようとしている内、話は進む。2つの時代があるという話も前説で聞いていたが、正直、肝心ないつの時代かをはっきり覚えておらず、遠い2つの時代かと思っていた。魔女が出てくるくらいだし。
いや、前説で、魔法の様に謎を解くから魔女、と聞いてはいた。でもそれだけじゃないよね、きっと。何か隠されたものがあるのだろうと思っていた。だからこそ、時空を超えた調査でも・・・と思ってしまった。
事実、20年前の話なのに、どこかはるか昔の様にさえ感じてしまった。そもそも、元の時代が中世だとしたら、その20年前はさらに昔だから、今考えるとおかしくないのだが。
そのことに気が付いた頃には名前も一致し始め、頭は謎解きモードへ。
描かれている過去の時代が一つ、それもあれだけ時間を割いて丁寧に描いていることから消去法で容疑者は絞れる。
しかしこの物語の本質は、人間の悪意というものがどれだけ怖いか。謎解きが本質ではないと感じた時、ただ、恐怖しか感じなかった。
奇しくも、今、問題になっている宗教問題もリンクする。
生きるために何でもする。
それでも家族は捨てられない。
出遭ったばかりの2人を家族として見るその姿は、人の善意を象徴し、その善意に答えようとする人間の姿が描かれ、見ていてホッとする一方で、最終的に生き埋めにするという所業。同じ”人間”がしたとは思えない。同じ種のものとは思えない。
今回、真犯人がエリザベスであったが、最終的に妙な納得感、満足感が。
テレビドラマや映画でも、1人だけ名の通った人が、容疑者側にキャスティングされていると、この人じゃない⁇とストーリーを追わなくても推察できてしまうような。
今回、他の役者さんはほぼ知らなかったけど、崎野萌さんはこれまで、特にこの2年くらいの変化を見ていると納得のキャスティング。同じ感覚を抱いた。
今回は特に、目の動きまで細かく作られていて、思い出して話しているシーンは左上に視線を動かしていた。気が付けたのは一つだったけど、犯人だったと分かった以上、そこにはウソの話もあったわけで、その時を話すときは右上に視線をずらしていたのか、確認したくなった。今回、一回しか観に行けなかったのが本当に悔しい。
そしてラスト。全ての暴露シーン。
そのシーンまでに、恐怖という感情が蒔かれている中、それが言葉として具現化され始める。作品における恐怖の集大成が詰まった数分間。
エリザベスが感じた恐怖を、そのまま恨みへ転換しぶつける姿が、観ている側には恐怖に映るように演技をしないといけない。でもどこかで、エリザベスがただの悪にならないように見せる。エリザベスがうけた処遇を考えると、「仕方ないよね」と思わせ、「でもダメだよ」「いや、いいよ」と葛藤させられる。
エリザベスがうけた恐怖。それを自らに落とし込み、それを背負っての演技。バックボーンが重く辛いものほど、崎野萌さんの能力が発揮される。
今回は、2つの時代に存在する1人の人間を2人の役者が演じている。
20年後を生きているものたちは、20年前の過去を捨ててしまっている。過去の辛い時を忘れ去れ、そんなことなかったかのように生きている。
20年経てば、顔つきも変わる。だが、エリザベスやケイトはうまく潜り込んで生きている。
その顔は20年という歳月の経年のみで片付けられるのだろうか。
二人が抱いていた感情を考えると、その漆黒の恨みが人の顔を変えてしまったのではないか。そんな風にさえ思ってしまう。
それでも、同じ人間、20年前として作り上げられた役を、20年後に踏襲するのかしないのか。今回は全く変わっているということで踏襲しないでも全く問題ないが、それぞれの
役にちょっとした共通した癖などはなかったのだろうか。もしあれば、それが謎解きの鍵にもなってたのかもしれない。
もう振り返ることは出来ないが、そんな仕掛けがあったのかなと期待してしまう。
そしてエリザベスが犯人と分かった時、瞬間的にもしかして、アナグラムになってないかと思ったが、そうではなかった。
団体を抜けたい、でもそれはできない。ここを出てしまったら、何もなくなってしまう。そう言って、抜けることをためらっていた。
あの時、家族全員で覚悟ができていたら、ラグナロクも一緒に逃げていたら、その後はどうなったのだろう。
家族がいるからできなかった決断というのも分かる。
人は先を考えてしまう。
ここを抜けられても、何も無かったら死んでしまう。そんな目に遭わせたくない。家族を守らないといけない。
その判断は間違っていないが、正しかっただろうかと考えてしまった。
なぜなら、その後、フィオナが生き埋めにされて生還した時、そんなことは考えていなかった。まだ息のあった両親をそのままにし、文字通り這い上がった。
その時考えていたことは、生きる事ではなく復讐。人は生きることまで捨てた時、そこには今まで見えなかった道が見えるのかもしれない。
自分の欲にまみれた時、人は悪魔へと姿を変える。
そしてその時、業を背負い、その業は、別の人間すら悪魔の様に変える。
それはまるで、ウィルスの様に人の心を蝕み、精神を破壊していく。
あの劇場、あの照明は、埋められたフィオナのみでなく、我々の心にそんな想いを植え付けた気がする。
そして、その業により生まれたエリザベス。
彼女は劇中で笑顔を見せることがある。だが、這い上がった後、彼女が本当に、心から笑った日はあったのだろうか。
もし、リアーナを殺害する時だけ笑顔だったとしたら・・・それは怖いのではなく、可哀そうという感情になってしまう。
それらを背負った崎野萌さんの演技。とても”伝わる”演技でした。
正直、崎野萌さんが殺人犯などを演じる姿は一度、観たいと思っていた。
彼女の場合、その笑顔がまた対照的で、人懐っこく、とてもそんな役を演じるとは思えないのも魅力。
復讐の殺人ではなく、笑顔の殺人狂を演じたら・・今度はそんな役も観てみたい。
そして20年前のエリザベス、つまりフィオナを演じた菜月さん。暗い中、生き埋めから這い上がった瞬間を演じていたわけだが、一瞬だが、あの時の表情は脳裏に焼き付いている。
あの表情があったからこそ、20年後のエリザベスが復讐鬼へ変貌するのも納得がいく。許してしまう。そんな気になる。
菜月さんは初めてその演技を観たけれど、また観たいなと思う一人だった。
グッズもチェキの取り置きできて良かった。価格が意外にリーズナブルで、もっと頼んでおけば良かったなあーって後悔した。ブロマイドも取り置き出来たら・・。入手できなかったのが悔しい。でも、しっかりとその姿は心にしっかりと刻まれた。
崎野萌さんが、また劇団ココアさんで、どう使われるか見てみたい。
そして菜月さんが次に出られる舞台は、すでに予定が詰まっていていけないけど、また機会があったら・・ではなく、機会を作って観に行きたいと思った。
もちろん、今回は絡むことになかったこの二人が枷む作品も観てみたい。
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