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使われなくなった音階 【掌編】
宵の口。深いため息をついて、ひとりがけのソファに腰を下ろした。ついさっき部屋を出て行った弟の残像が過ぎり、声まで聴こえてくるようだった。
〈姉さんは分かっていない! なぜ自分の人生をそんなに粗末にするんだ?〉
弟の言う通りだ。何もかも分かっていないのは私の方。
「でもね」
独りごちた言葉が部屋の閑寂へと吸い込まれていった。“でも” のない人生とは、私には手の届かなかった人生だ。悔しい……でも……でも……。この接続詞を死ぬまで繰り返すのだろう。私は私を肯定してくれる人々にさえも、心の内で “でも” を突きつけていくしかない。
テーブルの上に置かれた木箱を見やる。
〈それ、あいつにもらったんだろ? 酷いことするよ、家の都合で振っておいてさ。未練がましく捨てられずにいるだなんて〉
そう、私が酷い女なのだろう。でも、何かを選び取ることは、酷い人間になることと同義だと思う。すべての人々に祝福される選択などきっとない。ただ、私が一番いけなかったことは、私が私に対して酷い女だったということ。
木箱を手に取ると、微かに被っていた埃が手についた。当初は嬉しくて、開けては仕舞いを繰り返していたのに、見合いの話を受けてから避けるようになった。それでも視界の片隅には置いておきたかったのだ。未練がましく。
箱を開けながら思う。もう「弟」には会えないのかもしれない。そして「愛したあの人」とも。彼らとは何か根底から違ってしまったような気がする。肌の色や言語のように分かりやすいものではないのに、それらよりもずっと根深い何か。……不思議だわ。同じ場所で同じ人々に囲まれて育ったというのに、こうも違ってしまうだなんて。
オルゴールのネジを回してテーブルに置く。するとト短調の哀しいメロディに合わせて、妖精の兄妹が盤上で踊り始めた。
「 Pity & Adieu 」裏に彫られていた名前。妹の方が Pity だろうか。持ち主の “憐れみ” を引き受けるのが彼女の役割だとしたら、それこそ憐れの極みだろう。
まもなく曲は長調に転じた。哀しみを抜け、希望の光に包み込まれるような優しいメロディだ。でも、私は弾かれなくなった方の鍵盤の行方がひどく気になった。未来へ向かうがゆえに、使われなくなる音階がある。
「さようなら」
*
「Pity & Adieu」は矢口れんとのメルヘンに登場する妖精の兄妹です。
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#物語 #詩 #掌編 #メルヘン
#mymyth202203
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