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小説『あれもこれもそれも』3-12 最終話

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小説『あれもこれもそれも』
story 3. 時の木陰にて -12最終話

 電話の向こう側の息遣い、現実でも夢中でも反復したそれを思い返してみる。ベッドの上で膝を折り畳んで、そこに胸を委ね、倒れそうな体を必死で堪えている絵が浮かぶ。きっと髪は長く、病的になる手前くらいまで痩せた女性だ。儚げで綺麗だけれど、なにかと諦めがちで物悲しい遊女のような顔。もしかしたら彼女も何かに傷ついていた?(前話)


 もちろん、これはひどい思い込みかもしれないし、顔を突き合わせたこともない不倫相手を安易に肯定してはいけない。それこそ、また森井くんに怒られてしまう。でもこの時私は……自分の直感というか、女の勘を少しは信じてあげても良いのではないかと思った。
 やっぱり私はちゃんと対峙しなくてはならない。電話越しの彼女と。今がその時なのだ。
 結婚して、麻衣を産んで育てて、それなりに賢く生きようとすることで、何となく強くなった気でいた。しかし真の女性の強さとは……それを考える出来事がいくつもあった。麻衣に小春に、そして〈つれづれ〉の女性たち。私だって彼女たちみたいに、毅然と……凛としてみたい。

 そうと決まれば長居は無用。このままここにいれば電話の彼女が現れるかもしれないとも思ったが、いま体の中で脈打つ鼓動はそれを許さなかった。待つのはそろそろやめにしよう。
 会計をお願いすると、ママは「初めてのお客様からは頂いておりません」と言う。訝りながらも、また店に来ることを伝えて私は席を立った。
 ママとメグミさんは入り口まで私を見送りに来た。深々と頭を垂れ、なかなか上げない。私は2人に背を向け足を進めた。
 外付けの階段を降りていくと、踊り場に降りる直前で誰かが小走りで昇ってくる音が聞こえ、それは次第に大きくなる。

 カッカッカッカ

 突如として、視界の下方に白いワイシャツが現れたと思ったら、なにかが私の左横をすごい勢いで通り去っていった。白に浮かんだ薄桃色の頬の残像と、風の感触をのこして……
 ややあって「すみません。遅くなりました」と、澄んだ青年の声が遠くに響くのを耳が捉えた。それはママとメグミさんの声と交ざりながら楽しげにフェードアウトした。

 あの店は何だったのであろう。ふと立ち止まると、この1時間にも満たない時間が夢幻であったかのように思えてくる。想像していた〈つれづれ〉は、もう少し特別な……そう自分とは無関係な世界で、無関係な価値観の下で男女が生きている場所だと思っていた。しかし実際はそうではなかった。ママもメグミさんもあまりに普通の女性だった。もちろん煌びやかな装いに身を包み、見目麗しかった。しかし、2人ともフツウに美しかっただけなのだ。
 本質はもしかして、優美な着物や店のダウンライトで隠されていたのか。それとも青年が起こしたつむじ風に浚われてうやむやにされたのだろうか。


 カフェに戻ると、森井くんの背中は同じところにあった。手元は見えなかったが、頭部が少しうつむいて項がすっと伸びている。本を読んでいるといいなと思った。
 そして、彼と背中を突き合わせて座りたい気持ちになった。試験期間中のような見つめるでもなく、いつか夢見た抱きつくでもなく、背中を合わせてみたい。そこから葉のさざめきと漏れ差し入る光を眺めてみたい。そうしていれば、違う世界を向いていても、どこかで接していられる気がした。
 この背中は、20年前の教室から時空を跨いで現れたわけではない。ずっとどこかにあったのだ。私の大学時代も、夫との間にまだときめきがあった頃も、出産や子育てに追われていたときも、ずっと、どこかに……
 窓の外で街路灯が一斉に灯った瞬間を見た。藍色の街に幾つかの光の球体が浮かぶ。店内でもダウンライトが疎らに床を照らし、円はところどころで融合して幾何学模様を描いている。私と夫の世界はこんな風にちゃんと接していただろうか。ただ同じ時間と空間の中にいるというだけで満足していなかっただろうか。そう自分に問いかける。

 スマートフォンの着信履歴をスクロールする。これから私は、自らあの晩の続きへ飛び込んでいくのだ。

 大丈夫だ。今は森井くんの世界に守られている。幻影と真実とが逆転した優しい時間が、私の人生のところどころに差し込まれていた。全ての音楽のように、あらゆる自然のように、彼はきっと、私の聖地なのだろう。


♢story 3. Fine. ♢

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#小説 #詩 #エッセイ #あれもこれもそれも #時の木陰にて

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