小説『あれもこれもそれも』3-11
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小説『あれもこれもそれも』
story 3. 時の木陰にて -11
シャンパンを舌の先から奥まで、すべての面で味わう。口の中いっぱいに葡萄の香りが広がり、泡が弾ける度に甘さが失われてはまた息を吹き返す。
着物姿の女性はカウンター席に箸置きを並べ始めた。気が付くと私の手元には箸とお通しがすでに用意されていた。
賀茂茄子は揚げ浸しで、味噌と柚子の千切りが添えられている。一切れを口に運ぶとシャンパンの甘さと相まってまろやかさが増していった。その奥に七味唐辛子の刺激が見え隠れする。
「初めまして、ですよね。私、京華と申します」
彼女はそう言うと名刺を差し出した。受け取った紙は、定規で引いたような完全な直線は描いておらず、手漉きの和紙であった。夫の机の上にあったものと同じデザインのようだが、素材が違った。彼女がこの店のママだ。
「女性のお客様はとても嬉しいんですよ。女同士が、楽しいでしょう?」
着物姿の女性があどけない表情で笑う。その剥き出しの笑顔には、本音を訝るところが全くなかった。
「以前は肴町にいたんです。昨年からここに移転したんですけど、お店が広くなったのに女の子がなかなか増えてくれなくて。今は男の子にも手伝ってもらっているんですよ」
彼女は店のことを話し始めた。
それはこの宿場町が工業化の時代に最盛を迎え、ゆっくりと衰退していく、物悲しい小説の挿話のひとつのようであった。2人の娘の話も聞いた。長女の方は短い期間であったが〈つれづれ〉で働いていたという。店を継いでほしい気持ちがなかったわけではないが、長女は就職のために、次女も結婚をして、この街を離れた。ママはそれを時代の変化によるものが大きいと考えているようであった。
その話の間、私自身のことを聞いてくる気配はなかった。開店前に突然現れた理由も含めてだ。私もただ、彼女の話に耳を傾けていた。
これまで来たことのないような店に、視線を交わしたこともないような女性に、正直気後れしていた。こんなんでは夜の世界に生きる女性の話術に、諸々のことをうやむやにされるのではないか、などという疑念が浮かんだりもした。しかしそれ以上に、昔話の流れるこの空間が、どことなく家庭的で居心地が良く、気持ちが鎮まっていくのを感じていた。
このまま何事もないようにこの時間を堪能して、ほろ酔い気分で帰ってしまおう。そんな気持ちになっている自分がいる。メグミという女性のことは、現れてからまた考えれば良いとすら思い始めていたのだ。しかしその時、
「こんばんは〜、あら?」
入り口から声がした。振り返ると私より幾分か若いショートカットの女性が立っていた。コンサバ系のジャケットの中で、背筋がピンと伸びている。目が合うと彼女は微笑んで自然と会釈をした。不自然さの一切ない、体に染み付いた習慣のようであった。
「メグミさん。今日は早かったのね」
上半身だけ振り返っている私の後頭部でママがそう言って、私はぎくりとする。首が硬直してしまうような緊張に飲み込まれた。
とうとう、夫の不倫相手と対面する時が来た。下唇を噛み、閉じた目蓋に篭る力を感じる。それらを次第に緩めていく。
「ママのところにもメールが来ていると思いますけど、今日は拓人くんが遅くなるって連絡があったので。仕事も早く終われたので早めに来ました」
メグミと呼ばれた女性の声を、しかと私の両耳が捉えた。明朗で澱みがなく、聞き取りやすい声だ。姿形もちゃんと目で確かめた。そしてこの時、悟った。
——違う、電話をしてきたのは彼女ではない
彼女は夫の不倫相手ではない。このような堂々とした立ち振る舞いに、あの電話の時のような怯えた声は決して宿りはしない。一度視線を外してから再度見やっても、また同じような違和感が起こる。そしてその度、メグミさんがあまりに当たり前のように見返してくるものだから、思わず私の方から目を逸らしてしまった。
電話の向こう側の息遣い、現実でも夢中でも反復したそれを思い返してみる。ベッドの上で膝を折り畳んで、そこに胸を委ね、倒れそうな体を必死で堪えている絵が浮かぶ。きっと髪は長く、病的になる手前くらいまで痩せた女性だ。儚げで綺麗だけれど、なにかと諦めがちで物悲しい遊女のような顔。もしかしたら彼女も何かに傷ついていた?
♢story 3. は次回が最終話です♢
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