小説『あれもこれもそれも』4-3
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小説『あれもこれもそれも』
story 4. 退屈の領分 -3
真白い部屋から大部屋に移った。大部屋には4つのベッドがあり、それらは薄緑色のカーテンでそれぞれ仕切られている。入り口の対側にある壁の中央には窓がある。視線は自然と窓へと向けられ、左右の仕切りのカーテンは天蓋カーテンのように見えた。
久しく目にしていなかった陽の光が斜めに病室に差し込み、埃をちらつかせている。入り口の位置からだと、窓の向こうにはスカイブルーの空しか見えない。どうやらそこそこ高い階数にいるようだ。「外を見たい」と言おうとしたが、その前に看護師によって入り口に近いところのカーテンが開けられそこへ促された。外の風景は後でいつでも見られそうだったから、おとなしく従ってベッドに上った。
看護師がひと通り部屋の説明をして去ったと思ったら、間髪入れずに仕切のカーテンレールの上辺りから「こんにちは」と声が飛んできた。かなり若い男の声に思えた。
おそるおそる自分のカーテンを開けると、向かいのベッドのカーテンがシャッと音を立てて素早く開いた。そこにはやはり若い男があぐらをかいて坐っていた。彼は愛想の良い、どことなく媚びるような笑顔を向けてきた。丸っこい眼が非常に幼く高校生くらいに見えた。それ以外にはこれといった特徴のない青年で、簡単な挨拶や自己紹介を済ませると、平凡な印象は話す前よりも強く感じられた。見た目の若さの割に、快活で、小慣れた風に話すさまが、どことなく不自然な印象を与えた。
窓側の2つのベッドにも人のいる気配を感じたが、俺たちの会話に入ってくるような雰囲気はなく、ひっそりとしていた。
少し時間が経って夕食が配膳されると、大部屋の3つのカーテンは同じタイミングで音を立てて開いた。食事はカーテンを開けて食べるのが、この部屋の決まりであるようだった。少しばかり緊張を抱きながら、窓側の2人の方を横目で見る。はす向かいの老人のテーブルには将棋の解説本が5、6冊ていねいに積んであり、隣の骨ばったひょろ長い男性のベッドには『キルケゴール全著作集』の何冊かが無造作に置かれていた。人物そのものを見るよりも先に、なぜだか本の方に眼が向かった。
結局この日2人とは会話をすることなく、また窓の外も見ることなく、消灯の時間を迎えた。触れることのできなかった右側の世界が妙に気になる。寝返りを打つたび、もやもやとした感情が背中に鬱積していくようで、なかなか寝付けない。
〔断片〕
松田はその後も、佳美が見せたような力ない笑顔を目にすることが度々あって、その度にドキリとした。次に目撃したのは、名古屋に異動になった直後であった。
職場にて、いかんともしがたい仕事を抱えた後輩に声を掛けた夜のことだ。残業時間、上司からも取引先からも多大な要求をされ疲弊しきっていた彼の表情には、明らかに死相が漂っており、松田は声を掛けざるを得なかった。
「大丈夫か? 無理なら無理って言っていいんだぞ」
青年は松田の言葉に対し深々と頭を下げ……上げて見せた顔が、力なく笑う、その表情であった。
——後輩はその数日後に自殺をした。
もしあの時ステレオタイプの言葉をかけるのでなく、『ジムノペディ』でも聞かせていれば良かったのだろうか。それとも飯にでも連れて行っていたら、何か変わっていただろうか。松田は後悔の念に駆られていたようだった。
後輩の自殺からそう期間を空けずして、松田は死んだ後輩と似た表情を、ある女性の内に見つけてしまった。倦怠を背負い街中を歩いた夜のことだった。
「ねえ、君……」
光と水のイルミネーションの下で、松田はその女の顔を見過ごすわけにはいかなかった。
それから彼の勤務先店舗で、ある噂が立つようになった。それは松田が若い女を連れて、市街地を歩いているのを見たというものだった。それを目撃した社員は1人、2人ではなかった。彼が既婚者で単身赴任で来ていることは、公の事実であったから、その情報は問題視された。
人目を憚らず寄り添い歩く2人。その女は若くて華やかな服装をしていながらも、ひどくやつれていて顔には生気がなく、幽霊にでも取り憑かれたかのようだった。見るからに死相が漂っていたのだ。
しかし不思議なことに、社内で騒いでいたのはもっぱら又聞きした連中で、直接目撃した社員たちの誰もが、不倫関係だとは思わなかったそうだ。それはどことなく、松田が女を〈保護している〉かのような雰囲気を醸し出していたからだと言う。
名古屋での勤務を終え、妻子の元に帰る際のこと。松田はその女性のことを置いていこうとは思わなかった。彼女が自ら生きようとすることを選択するまでは、自分の傍に置いておこうと思った。そのために彼の名義でH駅前にマンションが借りられ、女はそこに住むようになった。
加えて松田は、彼女に仕事を与えるために、行きつけのラウンジを見せに連れて行ったりもした。きっとそこでは良い仕事が身に付き、スタッフや客から新しい刺激を受けることもあるだろうと、期待を込めてのことだった。しかし彼女は頑なに生活を変えようとはしなかった。
どうも女は誰かに心酔しているようだった。時々宙に向かって何かを話しかけているような素振りもあり、病的なものを抱えてはいないかと、ときおり心配していた。
松田は吉岡早希に与えようと思っていた。しかしそれがなかなか受け入れられないことに、歯がゆさを感じていた。
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