小説『あれもこれもそれも』1. 12 最終話
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小説『あれもこれもそれも』
story1. 呪術的な日常 -12 最終話
客たちが少しずつ帰り始め、ようやく流し台の前に腰を落ち着けた。健斗が次々と洗い物を運んできて、自然と僕の手も早まる。
音楽や詩に造詣の深い常連客の話は各国、各時代を巡って放浪していた。彼のそこはかとなく虚ろなガラス玉の瞳が、温かみから熱っぽさを宿すように変化していく。酒のせいか、できればそうであってほしい。
彼は手元のカルヴァドスを飲み干すと、焼けていそうな喉が燃え切らぬ間に、ことばを固まりにして放った。
「今度どこかに出掛けないか?」
決して小さな声ではなく、その言葉は僕の眼の前に長く腰を下ろした。テーブル席のメグミさんにも、カウンター奥のママにも届いていないようだ。動きのない時間が2人の間に横たわり、流し場の真上でせき止められて溜まっている。応じたのは僕の沈黙で、それは冗長に何かを言おうとじっと構えていた。
この人は違う世界に住んでいる人で、多分こちら側を窺っているだけだ。2つの世界を無理に繋ごうとすれば、また問題が生じるんだ。僕は芳彦との世界だけで充分に満足している。ここの世界は僕にとってあくまでオマケの世界なんだ。
そんなことを心の中で呟いていた。しかし同時に、この数日に起こったことが脳の中でフラッシュバックした。全く繋がっていない世界が、繋がっているように見えていく、呪術的な瞬間のいくつかが。
(今度どこかへ……)彼の口がもう一度開かれようとしていたので、僕は遮るように「よろこんで」と承諾を示した。客の目尻の皺が、今までになく深い溝を刻んだ。そこには覗くだけでは飽かない、深思が垣間見えたのだ。
誇らしげで物憂いげなものは、きっと夜更けに限って潜むものではない。ボーイの仮面も、月明かりが去っても脱ぐべきではないのかもしれない。この小さな街にいったいどれだけの世界があるのだろうか。人の秘密は酒と氷の狭間で溶け合い彷徨って、人から人へ、店から店へと知られずに渡り歩き、朝の陽に充ちていくようだった。
カルヴァドスなんて慣れない酒を飲んだせいか、体の中に熱がまだ籠っている。健斗や常連客の感情の熱量も、今朝の僕の目覚めに少なからず影響していた。
「お客さんに誘われたから、今度の週末でかけてくるね」
「ああ、いいよ、もちろん。どこ行くの?」
「ドライブだってさ」
「へえ、何か変な感じだね。ふつう食事とか飲みとかが多いんじゃないの」
「うん、そうなんだけどね……」
二日酔いの僕の倦怠とは対照的に、朝から芳彦の声は快活だった。昨晩、常連客から誘いを受けたことをさらりと報告したが、芳彦には彼の熱っぽい視線について言わないでおこうと思った。自意識過剰だと笑われそうだし、たぶん小さな秘密を作っておいた方が僕らはうまくいく。
「俺も今度の週末、女の子とお茶してくるから」
「あ、そうなんだ。誰?」
「高校時代の同級生。このあいだ同窓会で久々にあって連絡先交換したんだ。人妻だから心配ないよ。あらかた旦那の不倫相談とかじゃないかな」
不倫相談……その方が危ないと思うのは、やはり僕の心配性からだろうか。自分の価値を低めに見積もっている恋人は、知らないうちに女性を傷つけているように思う。そんな彼女らに同情しつつも、僕はやはり小さな優越感を抱いてしまう。
芳彦が勢い良く立ち上がり、ドタバタ足音を立てて洗面台に向かう。踵で踏みつけているスウェットの裾も、屈んだ時に覗く派手な下着のゴムも、僕だけに解放されているものだ……今のところは。
今日もまた勢いよく水の流れる音が耳をつく。そうやって、僕のいない世界へ突入していく準備を始めるんだ。
……ふと、胸の奥底の方から、呪わしい気持ちが込み上げてきた。
顔を洗っている芳彦の背後に忍び寄る。洗面台の蛍光灯が二方向から彼を照らし、床に色の濃い影を映し出していた。
僕の魂が叫んでいる
いったい何を?
恋人の真後ろに立つ。その影を見下ろすと呪わしさが増してきて、身体中の毛穴が次々と小さな噴火を起こしていく。こうしているうちに、彼がどこかに行ってしまいそうな気がした。何か……何かを見せつけないと。
気がつくと僕は右足を大きく振り上げていて、その影を、その影を、力一杯踏みつけようとした。
——気付いた芳彦が振り返って、僕の振り下ろす踵の軌道の直下に、彼の足が現れる。その裸足の甲を思いっ切り踏みつけた!
僕の全体重!
「いてぇ。なんだよ拓人! いててててて」
痛がりうずくまる彼を見て「ご、ごめん」と慌てて詫びた。
……でも、そんな芳彦の涙目とか、踏んだ足裏の感覚とかが、なぜだか僕にはとても愛しく思えて、急に目頭が熱くなってきた。
恋人が、僕のいない世界から戻ってくる呪術。ごめん、これからもたまに使うかもしれない。
♢ story 1. Fine ♢
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