「節目」を考える。
10年前の午後3時になろうとしていたあの時。
皆さまは何をされていましたか?
東日本大震災から10年の時が経ちました。
3月11日になると誰もが思い返します、あの時何をしてたっけ・・・と。
私は当時フリーランスとして独立するちょっと前の頃でした。アルバイト先のスポーツジムですでにレッスンはしていまして、その日もレッスンを終えて休憩に入るところでした。家から持ってきたお弁当を広げてさぁ食べようとした瞬間、大きく揺れたのを今でも覚えています。
当時ジムはビルの高層階にあったため、揺れも大きく、ビルの管理会社からとにかく即座にビルから出るようにと言われスタッフ総出でお客様の避難誘導をしました。
昼の時間帯といえば、お客様も高齢の方が多い時間帯。足が悪い方も多く、スタッフがお客様を一人ずつおぶって非常階段を何往復もしました。
また、全員着の身着のままで外へ避難させられたため、後からロッカーの中に入れてあるお客様の荷物を一つ一つ袋にまとめてお客様の待っているところへ持っていきました。これもまた階段を何往復したかもはや覚えてないほどです。
普段あんなに何往復も階段を上り下りしていたら絶対途中で動けなくなると思うのですが、その時はただただ必死だったのでしょう。何往復しても体が動き続けました。足はパンパンで息切れもしていたけど、止まっちゃいけないという気持ちが自分の体を動かし続けていたように思います。
揺れが収まらない中、プールの水が溢れてしまい同じフロアにあるフロントエリアが浸水しました。突然水浸しになるフロントエリアを見て唖然としました。
避難誘導を終えて、揺れがおさまって、ふと我に帰ったときにはもう空が暗くなっていたことを覚えています。
今も思い出すと当時の状況は地獄絵図のようでした。
叫んだり怒鳴り散らす人。泣き出す人。
避難誘導をしながら、自分だって親と連絡とりたいのに取れずにいる焦燥感。
思い返すとちょっと頭が痛くなるくらいです。
ですが、自分は東京にいた人間なので、誰も大きな怪我をすることなく、生活に大きな支障をきたすことなく過ごせました。
大変だったとはいえ、私はまだラッキーだったと思います。
一番大きな被害を受けた東北の方達のことを考えたら、自分の経験したことが大変だったとは言い難いです。
家の近くに原発があって、目に見えない原子力が自分の街を襲ってくる恐怖。
目の前に自分の身長の何倍もある津波が現れる恐怖。
それは一体どんな思いだっただろう・・・とどれほど考えても想像もつきません。
ここ1週間くらい、テレビのニュース番組を見ていると「10年の節目」と言っている番組が結構多いのが気になります。
確かに大震災から10年経ちました。
しかし、それは「節目」でしょうか?
何の「節目」なのでしょうか?
ただ10年経ったという事実だけなんじゃないかな、と思います。
10年経って状況が落ち着いてやっと前を向けるようになった人もいるかもしれません。
確かにこの10年で区切りをつけられた、もしくは何か達成したり何かをスタートしたりと節目を迎えた人もいるかもしれません。
でも震災から10年の「節目」という表現は、なんだか違和感を覚えるのです。
10年も経ったのか。
それとも、まだ10年しか経ってないのか。
この捉え方は人それぞれ。でもどちらの考えになっても「節目」という言葉が合ってないような、そんな気がしています。
3.11で失われた全ての命にご冥福をお祈りいたします。
そして今も避難生活を余儀なくされている皆さまに、自分には何ができるか。
10年前も今も、変わらず自問自答しています。
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