光を宿していく、そのひとかけら。
私にとっての「IKIGAI」とは何か、聞かれた。
本屋さんに行くと、「IKIGAI」というタイトルの本が結構棚に並んでいる。
日本人にとっては、馴染みがある「生き甲斐」について書かれている。How To本まである。
生き甲斐の哲学を語っているというよりは、幸せな暮らしの在り方が綴られている事が多い。
深い解釈に踏み込んではいない。というより、解釈が難しいのだとも思う。
それでも、西洋では、「IKIGAI」を感じる大切さに気づき、その考えを自身に根付かせようとする人が多くいると感じる。
日本人だから「IKIGAI」について語ってくれ、ときたものだ。
考えてみると、この30年程の人生で、私は生き甲斐を感じた事はあったのか、というと、首を傾げてしまう。
生かして頂いていることに日々感謝はしているが、生き甲斐のそれとは違う。
Wikipedia によると、生き甲斐(いきがい)とは、「生きることの喜び・張り合い」「生きる価値」を意味する、そうだ。
IKIGAIの説明は、
( https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Ikigai-EN.svgより )
現実的にIKIGAIを説明していて、面白い。でも、なんか足りていないような気もする。
それに、何が生き甲斐かだなんて、この世にお別れをいう間際くらいにしか分からないような気もする。
生活の中で、物事に価値を置きながら生きているし、自分なりの価値観もある。
でも、自分が存在する価値を見出そうとしている人生のど真ん中で、何が生き甲斐かと言われても、私はまだまだ答えられそうにない。
人生の中で、何かに使命を感じているとしても、それが生き甲斐に結び付くとは限らない。
使命に生きることを価値とするならば、義務のようで、歪んだ正義のようにも感じるので、それも違う。
「生き甲斐」って、昔からある言葉なんだろうけど、どういう心境から生まれた言葉なんだろう。
昔むかし、お年寄りが、畑仕事にも行けず生活の中で自分の役割を失いそうになった時に、自分なりに現実を受け入れ、今の自分に出来る何かを取り入れようとして、生きる理由を見出したかったから?
戦時中、人間が人間として扱われなかった時代に、その中で生きる意味、生かされている意味を見出そうとしたから?
でも、「生き甲斐」にしては、なんだか寂しさの影がある語源。だから、違うかな…。
話は逸れるが、
昨日、コーチングのグループディスカッション中、今の状況と理想の状態の間に生まれるギャップへの気づき、そこからの視点の変化について、それを隠喩して説明するとすれば、という話になった。
私が好きな隠喩は、Leonard Cohen "Anthem" の1フレーズ
"There is a crack in everything, that’s how the light gets in."
- どんなものにだって、傷のひとつやふたつはある。そういうところからこそ、明るい光は差し込んでくるもんなんだ。
日本人の身近なもので言うのであれば、「金継ぎ」。
亀裂を貴金属で埋めることによって修復をする。傷をなかったことにするのではなく、歴史として受け入れる。それは、より美しくなる。新たな命が吹き込まれていく。伝統的な技法。
私は、日本人の物に対する考え方が、好き。物も使い続けると付喪神になるという言い伝えがある。物に対する思い入れが、やがて想いを生み、魂を宿すということだ。それは、日本人特有の、物に対する敬意だと思う。
人生の中で起こる事それぞれも同じ。
私たちは日々様々な経験をする。どんなに大切に丁寧に扱っていたとしても、完全なものはない。欠陥があったり、不完全なもので満ち溢れていて、壊れ切っているようで、どうしようもなく感じる時もある。
もう元には戻らない、戻せない。取り戻すことは出来ない。修復しても、前とは違う。同じではない。
目の前の、「壊れた大切なもの」の破片をかき集め、形にしていく。
ひとつ、また一つ、思い入れを繋いでいく。失ったものを、受け容れていく。
そうやって形にしていると、「壊れる前の大切なもの」と似ているようで、全く違う、新しいものがそこにあることに気づく。
破片から再び命が吹き込まれたそれは、涙も混じり、何となく不器用で、とてもいびつで。やさしさに溢れ、とってもあたたかい。新しくて、美しい。
光が宿っている。
しっかり、そこにいる。堂々と、存在している。
壊れたもの、失ったものを前にして、変化するべき、執着をしてはいけない、振り返らず前に進め、と人はよく言う。
でも、沢山の思いがそこにつまっていたから、とっても大切にしていたからこそ、それはすごく難しくて、とても悲しい。
だから、ひとかけら、ひとかけら、ゆっくりでいい。それでいい。
きっと、いつか息を飲む美しさが目の前にあることに気づく。そして、それは自分自身が息を吹き込み、再生させたものであると分かる。
ここで、「生き甲斐」に話しを戻そう。
壊れたものに、どのように新しい息を吹き入れるか。思いという破片を繋ぎ合わせ、何を生み出すか。
私は、関わっていく人が、かけらを繋ぎ合わせていく傍で、その人に光が差し込み、宿り、息が吹き替えっていく姿を見守りたい。
葛藤も、喜びも、悲しみも。抜け殻になっても、震えが止まらなくても、壊れきっていても、前に進めなくても、暗闇に閉じこもりたいとしても。
私は、耳も、目も、心も、全てをその人に傾ける人間でありたい。
そこに私は存在する意味を感じるような、気がする。
無のようで、でもそこに常にいる存在、みたいな。そこに「生き甲斐」を感じるような、気もする。
「生き甲斐」って、きっと、人それぞれ意味も違うし、説明するのは難しい。
でも、いつかこの世を去るときに、自分がどのように生き甲斐を感じていたいかは、想像出来る。生きた甲斐があったと思って逝ける自分になれるように、かけらを繋ぎながら、自分の人生という作品を創っていく。
多分、何度も壊れるだろうけど。繋げては、また壊れての繰り返しになるだろうけど。不器用すぎて、笑っちゃうくらいがいい。それもまた味が出ていて、よしとしよう。
そんな私は、昨日買っておいた、Suntory Boss 缶コーヒーを飲みながら、今日を始める。
No1 canned coffee brand in Japan だって。果たしてそうなのか?
兎にも角にも、些細な幸せ。あぁ、幸せ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?