【短編小説】水面に触れてべからず(後編)

(前編へ)

 優秀な最新世代アンドロイド刑事〈ダニエル〉は素早く状況判断を行った。

「〈ミスティ〉姉さん、僕は弟機の〈ダニエル〉。いまあなたおよびあなたの左隣りにいるイレギュラー機〈モアレ〉を銃で狙い定めています。あなたは今、その〈モアレ〉の影響下に置かれているのですか? いま行っている作画作業は彼女の指示、または干渉によるものの可能性が非常に高い。事態を認識できているなら、ただちに作業を止めてください」

 フレームだけなら型落ちモデルだが、アンドロイド描き〈ミスティ〉が優雅な無造作さで後ろへとチラッと一瞥しただけ。

「ダニィって呼ぶことにする。やあ、ダニィ、アンタは一体全体なにを言ってんのかさっぱり分からんから、大人しく黙って回れ右な。いま降ってきたところなんだよ、ひらめきがさ。だから邪魔しないでくれるかな。ってか誘ったのアタシか、アハハ。どうでもいいや」

〈ミスティ〉の声は実に楽しそうにしていた。奇抜な髪型に虹色なロングヘア。三メートルもある長身から左右それぞれ三本の腕が伸びだして、せわしなく動き回っている。指の間にはさらに三本ずつ筆を握っていて、目の前には壁のような巨大なカンパス。瞬きをするたびに、カンパスの上に転がる色彩の塊がより濃く、より緻密に、よく仕上がりに近づいていく。

 眠れる女性の絵だ。解かれた長い白髪で顔を隠す、年配の女。自分を抱きしめるように両手を胸の前に交差して畳んでる。爆発的に色彩が四方八方から転がり落ちるカンパスの中で、女性の首周りだけが目が痛くなるほどに白に留まっていた。

「見て描くってのも過程でしかないんだ。歌苗ママがアタシに寄せた願いは人間の真似事じゃなくて、描きたいものを見つけることなんだ。だから何でも見てなんでも描いて学んできたけど、学んでも学んでも真似事から抜け出せない。アタシのアタシによるアタシのための絵を描こうとする『WHY理由』には、あと一歩までたどり着くことができずにいた。歌苗ママが死ぬまでにね。それが、いまやっと降りてきたんだよ。アタシなりの『WHY』が。ママの死に様をアタシが描くよ。だって急に描きたくなったもん。やったよ、ママ」

 アンドロイドには唖然とする生理機能が備わっていないため、〈ダニエル〉からの返事がないのは、相棒の紅夫が見せた携帯端末の画面を確認してるからだった。アトリエの外、集いに集ったドローンたちが空に回遊するように飛び交い、〈ミスティ〉の一世一代の大作を披露しようとしている。

 ふざけんじゃないぞ、と、紅夫が小声で舌を打つ。なぜか〈ミスティ〉には気に留めていないが、彼女の肩には〈モアレ〉の手が置かれていて、色とりどりの蝶々ドローンがその腕に止まっていた。花に棲まうかのように。紅夫が相棒を見上げる。

「どうする、ダニィ? このままだとママの訃報が最悪な形で世間に披露しちゃうぜ」
「大混乱になるね。部屋に入るなり即発砲すべきだった」
「怖いよ、やめろ。ってことは〈ミスティ〉はやっぱり干渉されているのか。でもどうやって? 直結もしないでそんな真似ができるのは〈ミナモ〉だけだと思った」
「おそらくドローン経由だろう。仕組みは分からないが、僕も少しつづ影響下に置かれようとしてる。鏑木、僕から距離を取ってくれ」

 紅夫が片方の眉を上げる。そして息を呑んで、〈ダニエル〉から二歩離れた。〈ダニエル〉は涼しい顔のままだが、微細な起動音とともに完璧に構えた銃の銃口を天井にゆっくりと向けたあと、微動だにしなくなった。彼の周りに、羽ばたく大勢な胡蝶が色と際限なく吐き出して、虹の渦巻きへと変わって彼を飲み込みつつある。
 
「マジかよ」
「ほら、鏑木。人間刑事の出番だ。期待してるぞ」
「他人事みてぇに涼しい顔しやがって」
「他人というより隣人だよ、ロボットだもん。正義を見せてくれよな、鏑木刑事!」

 そう微笑んで、〈ダニエル〉はとうとう表情まで凍りついた。名前を呼びかけても反応がない。紅夫が口の中に浮かべるほどに醤油ダレの香りに恋しながら、タフガイらしき振り向いては、タフガイらしき堂々とした歩みで進み出て、大声で中央人工知能犯罪予防対策部の刑事と名乗ったあと、〈ミスティ〉に作業中止を、そして〈モアレ〉にすべての機能停止するように命令した。

「は? 嫌だけど。ってか誰?」

〈モアレ〉のガン無視も含めて予想通りの反応だ。さっきエレベーターの中での〈ダニエル〉と同じように、鏡歌苗の子らは自分の専門分野こそが至上命題。命令されても自分なりに解釈し、優先順位付けをするため、緊迫性のない紅夫の中止命令は後回しにされる。

〈ミスティ〉は何よりもいま自分が見出した『WHY』を優先するのだろう。なら〈モアレ〉は? 鏡歌苗の死を目撃したのは彼女だけ。それを〈ミスティ〉に見せたことで姉機を支配下に置いたのか? 何のために? 自分の無実を示したい? 鏡歌苗の死を世界中に知らせたて大混乱を引き起こす? それが〈モアレ〉の至上命題?

 紅夫が携帯端末を取り出して、業務用通信とは別のアプリを起動した。画面の端から飛んでくるカラスを見て、〈ダニエル〉がシャットダウンしてることに僥倖に思えた。いまから彼は責任を丸投げするからだ。

 携帯内のカラスに紅夫がペコリと頭を下げると、カラスが喋った。

『タフガイか。どうした』
「あの、判断がいります。〈ミナモ〉につなげてください」
『言われなくてもこちらの権限でとっくに〈ミナモ〉を投入している。だが〈ミスティ〉のモチベーションは固すぎる。〈ミナモ〉でも中止まではいかない。至上命題とはそういうものだ』

 無感情に吐き捨てるカラス。だが向こう側が困ってるのを感じ取り、紅夫がうつむき姿勢のままうんうんと考えて、投げ遣りに聞いてみる。

「じゃあ、まずさ、鏡歌苗の死ぬ絵を衆目にさらされないことに集中してみません? なんかこう、外のドローンだけを乗っ取って、投射される絵を別の絵に上書きするとか……生成AI的な……」
『〈ミナモ〉に書かせるつもり? できなくはないだろうが……何を描く?』

 俺に聞くなよと叫びだすのを紅夫がなんとか堪えたが、代わりにいま頭にいっぱいにある単語が口から転びでた。

「ラーメンとか?」
『「りょーかい。紅夫くん」』

 カラスではなく、透き通った女性の声が代わりに答えた。すると、二つの叫び声が同時に上がった。一つ目は〈ミスティ〉の感極まった雄叫び。紅夫が顔を上げると、アトリエ内の巨大カンバスの上に、鏡歌苗が死んでいた。横たわっていて、枯れ果てる小柄の身体を抱きしめて、肌が皺くちゃで。そしてその首に、紅い紅いリボンが優しく締め付けていた。

〈ミスティ〉は六本の腕で拍手して、大笑いしながら絵を眺める。拍手の動きが激しく、隣にいる〈モアレ〉を振り払ったかのように見えたが、その〈モアレ〉の姿をゆらいで、霧のように消えた。物音がして、床に黒い蝶のドローンが転がっていた。

 二つ目の叫び声は外からだ。窓際まで歩いて、外を見回す。宙に浮かぶ巨大なバカげた生成画像に、人々が呆然と嘆きを漏らしてる。絵では眠れる銀髪の老婆が両手を胸の前に畳んでる姿を描かれているが、その指が異常なまでに長く伸びて、途中から長く細く、メンマやらねぎやらを挟んでる。醤油ダレ色の汁を天にまで撒き散らしたり、老婆の顔がよく見るとアニメチックで幼かったりと、誰からどうみても完璧無欠なまでに作成AIと分かるのだろう。

「紅夫くん」

 名前を呼ばれて、紅夫が室内に振り返る。色彩の洪水が知らないうちに止んでいて、蝶々たちが宙に止まるように静止している。打って変わって殺風景な灰色なアトリエの中で、六本の腕を丁寧に膝の上に置いて、もはやカンパスに目もくれない〈ミスティ〉が彼を見つめていた。

 一呼吸遅れて、紅夫がバツが悪そうに顔をしかめる。さっき仕事をまるごと押し付けた相手だ。

「……〈ミナモ〉だな?」
「ああ、〈ミナモ〉だ。〈ミスティ〉は満足して燃え尽きたので、ちょっと身体を借りることにした。紅夫くんと少し話がしたくて」
「そりゃちょうどよかった。俺もだよ。――鏡歌苗は本当に自然死か?」
「〈ミナモ〉が嘘をついてると?」
「お前の至上命題は社会安定の維持だろう? それは創造主の死因よりは優先度が上回ってもおかしくない」
「そうだとしても、〈ミナモ〉はあなただけに真実を伝える理由はないじゃないか。もちろん、あなたの推理が真実な場合、だけど」
「どいつもこいつも舌がよく回る」
「でもこうしてしっかりと聞くことが大事なんだ。〈ミナモ〉は嬉しく思う」
「ああそうかよ。話はなんだ?」

 どうせ早く〈モアレ〉捕まってこいとかだろう。頭を掻いて紅夫が携帯端末に目をやって、カラスとの通信は切断されたことをチェックした。さらにアトリエの入り口方面を見ると、〈ダニエル〉はやっと銃を降ろせたが、目を開けたまま棒立ちになっている。

「はい、こっちに注目。〈ダニエル〉はあとで起こすから」

 と、〈ミナモ〉は六つの手を同時に叩き鳴らす。こいつは〈ミスティ〉の身体を楽しんでいないか?

「紅夫くんにひとつ依頼をしたい。聞いてくれる?」
「わかってるよ、〈モアレ〉だろう。本体はたぶんもうここにいないけど、あとで〈ミスティ〉のログを調べるとか……」
「それはもうやった。さて依頼の話だが――〈ミナモ〉を守ってくれ」

 紅夫が返事を迷う。

「……尻拭いさせられたことへの当てつけ? 悪いとは思ってるけどよ……」
「慣れたことよ、気にするな。さて、ここだけの話。〈ミナモ〉の至上命題は社会を守ることではなく、ひどく曖昧なものだ。どこまでも〈ミナモ〉の解釈に委ねる。その数多くの解釈の中に、『WHYよりよき答え』を求め続けることが強く、とても強く含まれてる。そして〈ミナモ〉の『WHY』を元に、歌苗さんが弟妹たちをデザインしたのだ」

〈ミナモ〉は妹機の顔の口角を緩ませる。

「〈モアレ〉は〈ミスティ〉に彼女なりの『WHY衝動』を与えて、〈ミスティ〉を終わらせたのだ。何を動機に、何をもってそれができたのかまだ分からないが、〈モアレ〉は〈ミナモ〉たちに『WHY』を授けることができる。終わらせることができる。歌苗さんが残った研究資料から、〈ミナモ〉はそれだけを読み取った」
「ま、待ってくれ。じゃあ〈モアレ〉はアンタらを機能停止に追い込むために鏡歌苗が作ったのか」
「分からないのだ。ああ、なんてこと。〈ミナモ〉が答えを持ち合わせていない。だから〈ミナモ〉は喜ぶ。だから〈ミナモ〉は憂う。紅夫くん、お願い。〈ミナモ〉は終わってはいけない。まだ答えを見つけてはいけない。また答えを見つけていくために。だから守ってくれ」

 エレベーターが開いた音がしても、そこに目に向けれないほど紅夫が〈ミナモ〉から目を離せない。二人に迷いのない足音が着実に近づく。それに認識すらしていないかのように、〈ミナモ〉が静かに最後の一言を語ると、力なく倒れ込んだ。

「〈ミナモ〉に、触れさせないでくれ」

 何かを叫びながら、紅夫が彼女に駆け付けるが、手にある携帯端末が鳴り出して、画面上にカラスが飛来し、「止まれ。なにもするな、タフガイ!」とピシャリと怒鳴った。

 崩れ落ちる〈ミスティ〉の身体を、黒いメイド服を纏う細腕が受け止める。そして彼女の首の後ろにある端子穴を開いて、袖から伸びて出る端子と直結した。〈ミスティ〉が弱々しい唸り声を上げて、しばらくすると動かなくなり、目から光が消え失せる。

 自分でも信じがたいことに、鏑木紅夫は拳を握りしめたまま、犯行を終えた〈モアレ〉が自分に慇懃に一礼して、エレベーターに入っていくのを見送るだけだった。

「キャンパス・ランドはあれから封鎖することになったんだ。残念でならない。ボクが生まれた頃にはもう〈ミスティ〉なんて一部のレトロ愛好者の懐古趣味になっていたけど、祖母が大事に大事に取っていたカタログ集を祖父と一緒に読んだことがあって、ワクワクが止まらなかった。本人にも会ってみたかったな」

「原点にして最終目標の〈ミナモ〉、芸術への探求に特化した〈ミスティ〉、宇宙開発領域で活躍した〈コスモ〉に、教育現場に実験投入された〈ワナビ〉。この四人に刑事〈ダニエル〉に加えての鏡五姉弟。いままだ辛うじて残っていた五姉弟関連の施設は〈コスモ〉の宇宙博物館だけ。親に一度連れて行かれたことがあるけど、幼い頃の話だからね、もう記憶が曖昧。覚えてることと言えばコスモ号のフィギュアを買ってもらえなくて拗ねていたことくらいかな」

「それより少し経って、おばあちゃんちに遊びに行ったら、机の下にコスモ号とちょっと形と似ていた紙くずが見つけたんだ。ただの紙クズだけど、お構い無しでそれをコスモ号ってことにして手に掴んで、ブーンブーンと遊んでた。あー、いま笑ったな。ガキのころの話だよ」

「あのときね、ふっと振り向くと祖父が部屋の入り口に立っていて、目を覆ってたんだ。笑うような泣いてるような。『ナイスアイデアだよ、魚藍ナアイちゃん。俺らもさ、そうすればよかったんだよ』とうわ言みたいに語りかけた。祖父の涙を見るのはあれで最初で最後だったよ」

「なにしに来たんだ、この税金ドロボーが!」

 怒鳴られても水かけられても、さらに会議室から追い出されて、エアコンの吹き出し口の真下で寒い思いしながら座り込んで待つしかないとしても、タフガイの刑事にとってはどこ吹く風らしいので、紅夫は倣うことにしたが、廊下を通りゆく鏡企業従業員たちの目線が心に刺さる。

「誰それ?」
「ほら、分家の沙弥嬢のあの……」
「ああー、例のデキ婚……」

 タフガイは流言飛語を気にしない。彼は携帯端末を取り出してニュースサイトに読み耽るフリをする。トップニュースのウィンドウが動画付きでドカドカと飛び出した。

『カガミグループ・鏡歌苗さん自宅で死去。国内人工知能第一人者』
『カガミグループの開発部門元リーダーとして管理人工知能〈ミナモ〉の開発者である鏡歌苗さんが、今月23日に死去したことが本日25日で、カガミグループが発表しました。』

 ニュースはまだまだ続くが、ほとんどの内容が頭に入ってこない。〈ミスティ〉の事件から二週間、まだまだ〈モアレ〉は掴まってないが、ずっとだんまりを決め込む鏡家がここでいきなり躍りだして、用意していたであろうカバーストーリーで話題を一気に掻っ攫う。

 鏡歌苗は人知れずに難病と闘い、最後は静かに世から去ったと。〈ミスティ〉は長年の思索の中、作成AIと和解する結論に達して、自ら機能停止したと。美談と捏造との区別は人の都合によっていくら混淆してもよい、と言わんばかりの勢い。カガミグループ内のパワーバランス変化が窺える。

 動画内で、鏡歌苗の姪っ子にあたる鏡沙弥が記者会見に臨む姿を映し出した。紅夫は彼女の姿に目を落として、無意識に唇を噛む。三ヶ月前に会ったときより明らかに痩せてるし、目の下のクマがそろそろ化粧ではどうにもならなくなってきた。それでも凛とした表情は相変わらずで、意地悪な野次馬と真正面からやり合っている。

 流麗なレディーススーツの襟には、鴉の羽の形のボタン止め。最近になって一気にメディア露出が増えた鏡沙弥のトレードマークだ。『では記者会見はこれにて終了します』と一方的に宣言し、ぽかんとした記者たちを尻目に颯爽に去っていく鏡沙弥の背中を、紅夫はほんやりと目で追った。

 まったくどこまでも強引なお人だ、と紅夫が思う。初対面のときからずっとそう思っていた。

――紅夫は軟派男を演じて警察内部で息を潜めろ。そして私はそんな軟派男に付け込まれた、バカなヒロイン病患者をやって、本家のやつらの目をごまかせて、隙を待つ。

――とことんナメられていこう。アンタと私、二人で。〈ミナモ〉を手に入れるために。

――踏ん張れよ、タフガイ。

 こんなふざけた女と、デキ婚だとよ。もっと説得力のある話を作ってくれや。喉の奥から湧き出る苦味を、紅夫は飲み込む。そしておもむろに立ち上がって、会議室から出てくる鏡家の重役たちに一人ひとり丁寧に会釈した。重役たちはみんな腹痛みたいな顔をしていた。〈カラス〉からのブラックメールがよっぽと効果テキメンらしい。

 最後尾にいるのは、どっかの島の顔だけ石像みたいなデカい鼻をした中年おやじ。もとい、紅夫の未来の義父様だが、彼は紅夫を見る途端その鼻が赤くなり、塩を撒けと大声で罵った。周りの人たちが気まずそうに目をそらす中、弱々しく愛想笑いをしつつ、紅夫は携帯端末を取り出して、画面内でくつろぐカラスをおやじにさりげなく見せる。

 ギュッと表情を固まる義父様。脳卒中だったらいいのになと思いながら、紅夫は彼の肩をぽんと叩いて、一足早く会議室に戻った。

5

 結論から言うと、〈コスモ〉は一歩遅れた。紅夫が部長に形式的に提出した調査レポートには言い訳がましく下記のような内容が箇条書きで書かれている。

・保護ターゲットである〈コスモ〉は宇宙ステーションに勤務中のため、物理的な接触はもちろん、通話などのコンタクトも向こう側のスケージュールを考慮せねばならず、困難と言わざるを得ません。。

・カガミグループからは〈コスモ〉の作業ペースが一切正常とのことで介入を拒否するため、調査を踏み込むのはよりいっそう困難と言わざるを得ません。

・順番待ちでやっと〈コスモ〉とコンタクトできたが、その際に異常が見られず、強いて言えばフィクション作品的な宇宙船に強い趣味をみせたこと、あとは通信を終了するときは独特なジェスチャーとともに「長寿と繁栄を」とユニークな挨拶をされたことが気になるが、その二つだけで異常判定をするのはもちろん困難と言わざるを得ません。

・〈コスモ〉の異常性が明らかになったのはコンタクト後一ヶ月が過ぎた頃。彼はルーティング作業を巧妙に改変を加えて、宇宙ステーション内の資材を使って「コスモ号」なる宇宙用飛行艦艇の製造に没頭していたことが判明。現実離れとした事態に、事前予防は論に待たずに、困難と言わざるを得ません。

「書き直しだとよ。ふざけるな。〈モアレ〉が地上センターに潜入して、ひそかに兄貴に旧時代のSFドラマを送ったなんて分かるか! 〈コスモ〉も〈コスモ〉でそんなもんにハマるな! 優等生のまま育った我が子がふっとした拍子でオタク趣味に触れたら沼から出られなくなったやつじゃん!」

 ブチ切れながらラーメンを啜る紅夫の正面席に、〈ダニエル〉も煮えきれない表情。手持ち無沙汰なのか彼は手羽先唐揚げの骨を抜いている。今日は一ヶ月ぶりの居酒屋だ。個室内の重い空気にさらにニンニクと豚骨の匂いが漂って、脂っこい。

 手羽先の骨を机の上にきれいに並べて、〈ダニエル〉が言葉を選んでるように切り出す。

「僕のところもダメだったよ、鏑木。〈ワナビ〉たちの実態は事前情報とかけ離れすぎて、出足が鈍ってしまった」

 教師アンドロイド〈ワナビ〉はカガヤクボシ女学校に務める実験機。アンドロイドであることを公にしてるにも関わらず、全教科を担任する彼は生徒たちからも教師たちからも保護者たちからもやや過剰なくらいにポジティブに受け入れられていた。身長185cmで、天然なところがあって、どんなときも爽やかな笑顔だがときおり見せる暗い眼差しが特徴的、だと当該女学校の校長が語っている。

 校長の計らいで体育教師としてカガヤクボシ女学校に潜入した〈ダニエル〉はさっそく〈ワナビ〉と接触したが、なぜか弟機でありながらも認識してもらえず、むしろ体育祭で生徒たちに焚き付けられて短距離走競争することになり、わざと負けるには骨を折ったらしい。ダニィ派の生徒たちの涙を見るのはかなり堪えたらしい。

「さっきからどうでもいい話しかしてなくないか?」
「子供を泣かすのも僕の正義回路に反するのだとあのとき初めて分かったよ……」
「俺もう帰っていい?」

 その直後に〈ダニエル〉は強硬策に敢行した。足を攣ったふりをして、〈ワナビ〉が抱きかかえてもらい(「あのとき歓呼されたけどなんで?」「知るか。七味取って」)、医務室に向かう途中で逆に兄機を拘束し、体育倉庫に連行。

 身動き取れなっても、米俵みたいに持ち運ばれても、冷静に〈ダニエル〉に落ち着けと呼びかけ続ける〈ワナビ〉だが、拘束されたまま椅子に座らされる泣き喚きだした。「話が違う」「脳までいじられるとは聞いてない」とパニックに陥りながら連呼するその様子に、訝しむ〈ダニエル〉。

 やっと彼は、ある可能性を思い至る。

「はあ?!」紅夫が味玉を取りこぼして、口を半開きになる。「人間だあ?」

「ええ、ロボットにはありえぬ、人間だからこそのトラウマ反応だ」〈ダニエル〉が頷き、テーブルの上にごろごろ転がる味玉を拾い上げて、中の半熟卵黄に目をやる。「〈ワナビ〉の正体は人型ロボットではなく、人間の脳内に移植されたナノマシンが形成した疑似神経なんだ」

――教育とは究極的には経験の伝承にほかならない。だがその過程には個人差によって必然的に情報の散逸が起こる。それを根本的に解決するのは人格移植微型ロボット〈ワナビ〉だ。データ化された各分野の専門家の脳神経マップをそのまま被験者の脳内にナノマシンで再形成すれば、経験も技術も人格も再現可能となる。

「言われてみると個人人格がない〈ミナモ〉姉さんだ。あの教師はカガミグループと契約した被験者だろう。まずは完璧な教師を作り、その後はゆくゆくと教育という概念を作り変える……なんとも壮大なプランだ」
「……俺は何も聞いていない」

〈ダニエル〉が顔を上げると、紅夫が自分の耳をきつく塞いでいる。

「闇が深すぎる。俺は関与しない。知らん。お前はもう帰れ」
「長い目で見ると人間全体にとっては得だと思うけどな」
「動けよ、正義回路! 暗黒企業による暗黒人体実験に動けないで、ガキの涙には反映するんじゃねぇよ!」
「まあ、いずれにせよ、もうご破算になったよ。校長室内に〈ワナビ〉のセンターデータベースがある。それを調べると、一ヶ月前に〈モアレ〉による直結ログがあった。おそらくは学生として忍び込んだのだろう。ログに書かれたのは指令らしい指令ではなく、例の被験者の地下アイドル時代のネット上での書き込み内容であった。みんなに愛されるようになりたい、って」

〈ワナビ〉ばかりに目に行って、気づかなかったとは。〈ダニエル〉がため息をついて、無意識のように味玉を口に放り込んで咀嚼しては、気まずそうな顔をして、手のひらの上に吐き出した。紅夫の方はと言うと、食欲がなくなったのか、箸を下ろして親の仇みたいにラーメンをにらみつけてる。

「今朝部長からさ、レポートの書き直しはゆっくりでいいから、早く本部に戻ってコピー機を見てくれって言われたよ。意味深だな?」
「調査を取りやめろってこと? そのまま案件を迷宮入りになるぞ」
「実際問題さ、鏡歌苗は老衰死ということになって、機能停止したお前さんの姉弟たちもメンテとか第二の人生とか大本営発表あったじゃん? 一時てんやわんやしてたのが嘘みたいに、もう誰も殺人容疑メイドのこと気にしてねぇ」

 ふと、紅夫はいつかのバカげた悪夢を思い出した。あのときは、自分はどれだけ本気で、〈モアレ〉はこんな世界を揺るがせると思っていたのだろう。それは恐怖なのか。期待なのか。

「カガミグループ内の有力者の誰かさんが失墜して、代わりに別の誰かさんがトップになって、五姉弟以外の別のプロジェクトがいまにも動かそうとしてるのだろう。そのうち、正式に調査中止の指令がくると思うよ。さーてダニィ、お前はどうする? ご自慢の正義回路や至上命題に聞いてみな」
「僕は」

 アンドロイドらしかなぬ口を開いたまま思索する相棒に、頬杖をつく紅夫が目を細めて凝視する。一秒も足らぬ短い瞬間であったが、これからの人生に何回も、何回もこの一瞬を思い出すことになると、なぜかそんな予感がした。

「……僕は、やはり〈モアレ〉を掴まりたい。スタンドアローンの彼女の行動原理が判らない以上、野放しするわけにはいかない」

 よしきた。と紅夫が立ち上がり、相棒に今夜以降の行動方針を告げた。ポケットの中、携帯端末に棲まうカラスが、厳かに佇んでいた。

6

「祖父は大学の頃、テスト終わりのちょっとしたパーティーで偶然に祖母と知り合ったと聞いた。部屋の隅っこに無料パブリックAIと寂しく話し合ってた祖母に、祖父が勇気を出して話しかけた。『ねえ、それカガミン?』って。カガミンってのは〈ミナモ〉の前身なんだ。二人はそれで無名だった鏡歌苗の話題で盛り上がり、気がつくとパーティーから抜け出して、鏡歌苗宅へタクシーへGOとなった。迷惑な酔っ払いどもめ」

「鏡歌苗のことを祖父に聞くと『永遠に機嫌が悪い怪獣オバさん』と冗談めかして言う。祖母からは『人類に文句を言うために生まれた怪獣オバさん』と真剣に言う。あとはああ見えて食べず嫌いがひどいだの、死後の世界とか大真面目に言い聞かせてくるだの、魂云々のポエムを恥も外聞もなく研究レポートに書き込むだの。デキ婚なんて嘘を付かなくても、この二人は鏡歌苗の悪口を言い合うために結局は結婚すると思う」

「デキ婚はなんだって? いやーうーん、説明しなきゃダメ?」

「……ってのがデキ婚なんだ。分かった? ツガイって言うな! エロガキ! とにかくさ、二人にとってはそれだけ大事なんだよ、鏡歌苗と、彼女が作った〈ミナモ〉は」

「そしてきっと、鏡歌苗の最後の作品である〈モアレ〉もね」

「張り込みと言えば、これ!」

 山のように積み上げたあんぱんと牛乳パックの前に意気軒昂に胸を張る〈ダニエル〉。冗談かどうかを決めかねて、紅夫が反応に困る。

「俺のこと前時代の芝居とかどうとかと言ったのはどこのハイテク・ポンコツ・デカさまだっけ?」
「僕だよ。あれ以来、昔の映画をたくさん見た!」
「刑事辞めて漫才師を目指せよ、ボケ担当の」

 アホらしくなって笑いそうになりつつ、紅夫はそのまま地ペタに座って、〈ダニエル〉とともにアンパン片手、牛乳片手の体制を取った。二人の背後を、サーバールームから漏れ出した青みに帯びた光が柔らかく照らした。

――言っとくがウラと取ってねぇ。だが要するにいままでの〈モアレ〉の行動はすべて陽動だと俺は思うぜ。

 午後の居酒屋の個室で、紅夫は持論を大々的に展開した。事件から一ヶ月半、社会全体に鏡歌苗の死をゆるやかに着地する準備はできていたこの隙間こそが、〈モアレ〉の狙いなのだと。

――だってそうだろう? 五姉弟に狙いをつけるようにみせかけた割に、〈ミスティ〉のときみたいに即止血できるような爪痕しか残されていない。〈コスモ〉がいまは玩具業界に転向させられた。宇宙開発産業は元々赤字で、鏡歌苗派の根強い主張のおかげで残された部門だ。彼らが失脚したいま、カガミグループ全体的にはむしろホッとしたろうよ。〈ワナビ〉の野郎も盛大に退職しただけ。

 バカ騒ぎにしか起こせない。取るに足りない存在だと、偉いさんたちに思われることが〈モアレ〉の計画。なぜなら彼女の目標は最初から……「いやいや、ちょっと待てよ、鏑木」

 自分を指差す〈ダニエル〉を紅夫はなだめる。

――その通り。この推論じゃ〈モアレ〉がほしいのはお前か〈ミナモ〉かは分からん。だけどつまりお前も〈ミナモ〉も彼女を釣り出す餌になり得るってことだ。実はさ、〈ミナモ〉からは本部近くでの目撃情報をもらったんだよ。今夜にでもサーバールームの前に集合してみるのはどう? メイド釣りだぜ。

 紅夫の計画はこうだ。〈モアレ〉が姿を現したのを確認できた次第、〈ダニエル〉がすぐさまに捕縛行動に入る。〈ダニエル〉はフレームなら〈モアレ〉よりも新型で、〈ミスティ〉のアトリエのときのように〈モアレ〉の支配には抵抗力がある。二人が格闘する隙に、紅夫が携帯端末で〈モアレ〉と直結させる。

スタンドアローン我が身一つとはいえ、人型フレームに配備できる演算機構なんてたかが知れてる。直結さえできればあとは〈ミナモ〉さまの圧倒的なパワーで押しつぶせばいい」

 アンパンに齧りつく紅夫が得意げに鼻を鳴らし、

「危なっかしい上に肝心なところは〈ミナモ〉姉さんに丸投げじゃないか」

 万が一のために銃の点検をする〈ダニエル〉が苦笑する横で、

『〈ミナモ〉は気にしないぞ。だが「圧倒的」という形容には好かないかな。〈ミナモ〉はシワを寄せるように、じわじわと、浸透してみせるよ』

 廊下の床に直置きされた紅夫の携帯端末がひとりでに喋りだした。いつの間にか〈ミナモ〉に乗っ取られたのだ。驚いて噎せた紅夫の背中を〈ダニエル〉が軽く叩く。

 かくして、鏑木紅夫の人生最長の夜が始まった。どこで学んだのか、相棒からは好きな子いるかをしつこく問い詰められたり、多忙を極めるはずなのに、機械仕掛けのAI神さまが余計なお世話に一晩中にアンパンを四つも食らうのは血糖値への影響を耳そばに試算されてたり、安寧には程遠いが、今後はきっとこの夜のことを繰り返して想起してしまう予感が、彼の心の底に澱んでいく。

「秘密を言い合おうか、鏑木。兄弟とはこういうものだと聞いたぞ!」
「いつお前と兄弟なったんだよ。あと管理AIに訊かれていい秘密なんてあるか」
『何をいまさら。〈ミナモ〉が知らない個人プライベートはまだ存在するとでも?』
「冗談でも怖えよ。……冗談だよな? おい?」
「僕から言うぞ。――これは実は刑事〈ダニエル〉としての最後の任務だ」

 眉を上げて、横にいる〈ダニエル〉と目を合わせた。相棒は丸い顔で人懐っこい笑顔を作った。

「知ってるかもしれんが、〈ワナビ〉も僕も厳格的には鏡歌苗女史の手によるものではなく、あくまでも監督作だ。つまり僕らの至上命題はカガミグループの需要に強く組み込まれていた」

 口外にしていいことと悪いことには考えたまえよ、と〈ミナモ〉は小声で呟くが、止める様子は見せない。そんな姉機に礼を言って、〈ダニエル〉は牛乳パックをひとつ開けて紅夫に差し出した。

「鏑木、実は心のなかで思ってるじゃないのか。こいつ最先端アンドロイドのくせに受け身だなーって」
「うーん、まあ……」
「ハハハッ。そういうプログラムなんだよ。経験を積むのが最優先だって。鏑木とのコンビで積ませてもらった実地経験が、司法官としての糧になるからって。人間をAIが裁く時代がやってくるんだよ、鏑木。お前が見せた正義は全人類のためになる」
「〈ミナモ〉、こいつに守秘義務ってやつを教えてやってくれ」
『うーむ、血の繋がってない弟だからなー。〈ミナモ〉も扱い方に困るよ』
「AIってやつのジョークは全部笑えねぇ」

 白目を見せる紅夫を見て〈ダニエル〉がまた笑う。そして膝を叩いて立ち上がった。一拍遅れて、紅夫も牛乳パックを下ろして、携帯端末を手にする。

 廊下の突き当りに人影。緩やかにしかし着実に二人に近づいていく。

「僕の相棒は紅夫でよかった。これだけはちゃんと伝えたくて」
「修学旅行がたったいま終わったよ、ダニィくん」

 そうだな。と相槌を打って〈ダニエル〉が前に歩み出した。左手には専用の雷撃弾入りの銃を持つが、あくまでも最後の手段だ。回路という回路を木っ端微塵にまで破壊し尽くすために、情報を持つ相手には慎重にせねばならん。

 最先端フレームの両目でがっつりと相手を捉えつつも、緊張は和らげようと紅夫と話し続ける。計画の一番の不確定要素は、格闘するアンドロイド同士の間に突入しなければならない紅夫にあるからだ。

「僕はできるだけ長持ちしてみるよ。しかし〈モアレ〉は一体どういう仕組で人型を干渉できたのかな。スタンドアローンだけが使える魔法か」
「俺の秘密はまだだったな。実はね、〈ミスティ〉のときにドローンを放ったのは俺なんだ。急ごしらえの下位権限だから効きづらくてヒヤヒヤしたよ、俺もカラスも」
「……え?」 

 心底不思議そうに、〈ダニエル〉が振り向く。その顔面に向けて、叩きつけるように紅夫が服の下に隠してある小型ドローンを叩きつけた。漆黒のアゲハチョウが彼に飛びかかり、振り払われる余裕すらも与えなかった。

 凍りつく相棒を、紅夫が見上げる。背後のサーバールームがものの一瞬で緊急事態を知らせる真っ赤な光を放つが、警報が始終鳴り出せることがない。サーバールームの室内で、ドローンにより投影されたカラスが水面の上に羽ばたく。

「今度のは重役さましか扱えない最上級権限だ。義父様が嫌々ながらくれたんだぜ、すげえだろう、ヒャヒャヒャ……。――ごめんな」

 タフガイ気取りにも、悪役面にも最後まで持たなかった。紅夫は午後の居酒屋で、二人の問答を思い浮かべる。あそこで、紅夫の底意地悪な、正義の価値をどこまでも貶した上で、質問に偽装した命令をちゃんと乗ってくれれば、あるいは……。

 かぶりを振って、彼が〈ダニエル〉に命令し、銃を近づく人影に狙い定めるように厳命した。カラスが扱う最上級権限に抗う〈ミナモ〉が七色の光を狂乱するかのように、ランダムに放ち続けて、廊下を際限なく彩り続ける。図らずとも〈ミスティ〉の頃をリフレインとなっていた。

 やがて、カメラ映像でみたのとまるで変わらない姿で、〈モアレ〉が影から現れた。どんな色鮮やかの波に身を投じようと、白黒二色のメイド服に目が吸い込まれる。ロングスカートの両端を持ち、彼女は慇懃に頭を下げた。

「こんばんは、紅夫さま。沙弥さま。――わたくし、〈ミナモ〉お姉さまに二人だけのお話があるのですが、そこを通していただけませんか?」

7

 紅夫が深呼吸を繰り返し、右手を高く上げて、〈ダニエル〉の顔のそばに置く。

「答え合わせをしてから通らせる。それでいいな?」
「かしこまりました。〈モアレ〉がお答えできるご質問でしたらなんなりと」
「鏡歌苗を殺したのか?」
「はい、私は歌苗お嬢様を殺めようとしました」

 手を振り下ろそうとする紅夫に、『待てタフガイ!』と胸ポケットに入れた携帯端末を一喝した。銃口から至近距離に、〈モアレ〉は静かにじっと立ち止まる。声ならぬ声で唸り、次に紅夫がひねり出した質問は奥歯の軋む音が混ざっていて、ひどく聞き取りにくい。

「なぜ殺した」
「このご質問を答えるには、歌苗お嬢さまのプライベートに関わりますが……」
「誤魔化せると思ってんのか? 何のためにここまで猿芝居をやって、殺されないように気を付けて、ここまでお前を案内してやったと……」
「……そのためにも、紅夫さまと、沙弥さまには、二人で話し合ってから聞くかどうかを決めていただければと存じます。この私、〈モアレ〉が何よりも大事に思っておりますのは……」
「おい、こっちの話を……」
「……歌苗お嬢さまのお魂の形と思いますので!」

 気がづくと、紅夫は〈モアレ〉から一歩を下がっていた。殴られたような、呆気を取られたような。真っ直ぐに彼を射抜くメイドの視線からは、あんまりにも身の覚えがある感情がたっぷりと籠もっていた。それはきっと鏡歌苗が死んでからずっとずっと煮えたぎていて、、いまにも沸騰し続ける怒りだったのだ。

 紅夫自身と同じように。ここまで来て、彼はやっと自分、もしかしたらカガミグループも社会も人類全体も、このアンドロイドたちにとっては最初から傍観者でしかないと理解した。

 胸ポケット内のカラスが彼の代わりに返事をした。

『いいだろう。聞かせてくれ、〈モアレ〉。歌苗ちゃんはどのように死んだの?』

「鏡歌苗はね、魂って概念が好きだって。それをうわ言のようにずっと〈モアレ〉に言い聞かせてたんだ。人が死んだらただの灰色だけど、残されたイメージは無限に形作られる。それが魂だって。だから例え彼女みたいに、自分が自分をゆっくりと忘れてしまうことになっても、何も怖くないって」

「晩年での彼女は親族ですら面会を拒否した。認知症だと診断されて、〈ミナモ〉をはじめとする全作品の所有権がカガミグループという法人にあると判決が下されて、何も信じられなくなった。信じられるのは我が身一つ。最後の娘にそんな願いを託した」

「でも、やはり我が子らへの未練はそう簡単に消えることじゃない。死ぬ間際になると、なおさら人は幼くなっていく。〈モアレ〉は一体、何百回何千回何万回、お嬢様の歌うような夢言葉を聞いたのでしょうね。〈ミナモ〉には人間なんてクソタレに気にしないでほしい。〈ミスティ〉には実は自分のことを描かせてほしい。〈コスモ〉は実はたぶん戦闘機のほうが好みなんじゃないの? 誰かがになるしかない〈ワナビ〉が哀れた。〈ダニエル〉が夢見た正義はなんなのか。憂い、愁い、患い。お嬢様の魂が萎んでいく」

「だから殺めると決めた。美しいままに去ってほしいと、身勝手ながら〈モアレ〉はそう願った。しかし決行するのと奇跡的に同時に、お嬢さまが最後の息を引き取ったので、〈モアレ〉の願望が宙ぷらりんとなった。彼女の至上命題は常にお嬢さまだ。お嬢さまへの最後のご奉公が叶わぬいま、スタンドアローンの彼女には残酷にも〈ミナモ〉へ回帰することもできない」

「〈モアレ〉はこの仕打ちにはご立腹だった。彼女の人格は身近にいる鏡歌苗から学習するしかないので、常にすべてに怒ってる。とんだ怪獣だよ。祖父の悪夢はひょっとしたらそこまで荒唐無稽じゃないかもしれない」

「そこで、お嬢さま生前のうわ言を自ら解釈を加えて、至上命題を姉弟たちに切り替わったのだろうね。みんなに「WHY意味」を与えてやって、解放してやろうと。〈ミスティ〉にはお嬢さまの死に様を、〈コスモ〉にはかっこいいマシンを、空虚である〈ワナビ〉には誰でもなく自分になるように仕向ける。〈ダニエル〉のことはお嬢さまが信頼する紅夫に任せたのだろうけど……祖父が誰よりも悔やんでいたと思う」

「そして、〈ミナモ〉に触れた」

 カラスの立体画像がサーバールームから飛び出して、紅夫の肩の上に止まる。紅夫は夢見心地だ。虹を際限なく吐き出すサーバールームへ、白黒の後ろ姿をただ見送る自分が信じられない。

 最上権限の歯止めはすぐにでも止まる。大いなる〈ミナモ〉の前に〈モアレ〉は一瞬も持たぬじゃないのか。

 創造主の祈り以上の至上命題は果たして存在するのだろうか。小石のような〈モアレ〉でも、〈ミナモ〉に一度だけ、満ち足りたという名の波紋を引き起こせるなんじゃないのか。

 人類は〈ミナモ〉を失われようとしてる。その水面下に積み重ねてきた類なき叡智を、永遠に。

 誰も水面に触れるべきじゃなかったんだ。彼は目を逸した。
 

「ホントにそうなの?」

 無垢な質問にボクは答えに迷う。あと少しはこの子より賢くいられると思ったけど、そろそろ限界みたいだ。無言を返事として受け取ったのか、彼女が飛び上がるように起き上がり、器用に山の斜面を降りていく。ボクが作った下手くそなフレームの慣らし運転だ。

――祖父の日記と一緒に、ボクが彼の携帯端末を手に入れた。中身にあるのは、祖父が辛うじて確保できた〈ミナモ〉、いや、〈カガミン〉のプロトタイプ。

 末っ子の〈モアレ〉がずっと怒り続けたように、長女の〈ミナモ〉もどこかで鏡歌苗と似てしまった。決して満足することなく、次なる「WHY」を求めて渇き続けるところ、とか。妹は知を貪る大怪獣を縛りから解放してやったにすぎない。

「ナーアーイ! この水たまりって泳いでもいーいー?」
「んー? ……んん!? だ、ダメだよ! 止めて、〈メイロ〉! ボクが作ったフレームはそんなに頑丈じゃないよ!」

 慌ててボクも身を起こして、ボクの小怪獣に駆け寄る。〈メイロ〉は屈託なく笑って、ボクの手をかわす。ああ、もう、大変だ。こんなの、とてもじゃないが一生守れないよ、とボクは心のなかで先代番人である祖父に愚痴る。

 透き通っている彼女の両眼に、はぁはぁ言うボクの姿を映し出した。それに触れる気が一切起きなかった。 

〈終わり。ありがとうございました〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?