【短編小説】千年帆走①
1 『金字の冠を戴く獅子』 居住性:★★☆☆☆
住めば都という諺を身をもって実行することにおいては、自分の右を出るものはそういない。そんな彼女から見ても、ピラミッド暮らしには幾つかの厳しい欠点がある。
例えば採光性が皆無で、時間感覚が曖昧になることとか。代わり映えしない石の天井を睨みつくことから朝が始まり、代わり映えしない石の寝床に横たわりたくなったらそこからは夜。そんな暮らしを強いられることになる。
彼女は幾星霜もそう過ごしてきたが、いまだに慣れることがない。聞く相手もいないので愚痴が貯まる一方だ。
それから防音性も劣悪だ。砂漠でのひとり暮らしなので、音に悩むことはないとたかをくくってはいけない。嵐の日では外から響き渡る風の咆哮といったら、どんな大鐘も顔負けなほどに一日中に鳴り続けて、がらんとしたピラミッドの中にこだまする。
さらに主の建材は岩のため、断熱性など期待できるはずもない。蒸し暑い夏はもちろん、彼女のような裸足族なら、床が薄っすらと凍りつく冬場では、移動するだけでも拷問なことは想像に難しくない。
間取りも生活動線を考慮しておらず、部屋と部屋をつなぐ道が無駄に長く、複雑である。用を足すだけでも、心をも凍える迷路に挑む勇気を絞り出さなければならない。
取り柄を上げるとすれば、計算し尽くされた金字塔の見事な四角錐型を成した耐震性と、積み重ねた堅牢な巨石だからこその強固性だろう。命の危険にだけは心配する必要がないとは、こんな大袈裟なお墓にしては皮肉である。
しかし最近では毎日のように床が揺れ、岩と岩の軋み合う音がよく耳にする。地震はこんなにも頻繁に起きるものなのかと彼女が首を傾げる。
何がともあれ、メリットとデメリットの釣り合いができてないことにより、ピラミッドの居住性は良好とは言い難い。この最終結論は一生変わることはないだろうと肩をすくめ、彼女は今夜も固くて冷える寝床に横になる。
ピラミッドといえば、王墓だ。時々彼女は、知らないうちにこの墓の中に暮らしてる自分は実は世に未練を捨てきれず、墓に徘徊する幽霊なのではないかと疑ってしまう。困ったことには記憶を遡ろうとしても、この幽霊説を否定する材料が見当たらない。
一度でいいから、石板で読んだ海なるものが見える家に住んでみたかった。欲を言えば、風がよく通るならなおよかった。太陽に照らされる部屋とか、静かな夜を過ごせるベッドとか、寂しさを紛らわせる同居人とか、贅沢を夢を見てしまう。
幽霊は幽霊でも、私はきっと生まれることすらなく埋葬されたのだろう。夢が叶うことなどないと噛み締めながら、彼女は今夜も諦念とともに目を閉じる。これがピラミッドで過ごした最後の夜と知らずに。
翌朝。まず崩れ去ったのは盤石のはずの耐震性だった。いままでの揺れと比べ物にならない、ひと際大きな震動が彼女を寝床から無慈悲に突き飛ばした。その同時にやってくるのは、ピラミッドを誇張なしに轟かすほどの大音量な噪音。いよいよ防音性も過去となった。
慌てふためく彼女に、ゴウゴウ唸る強風が横殴りで襲いかかる。壁という壁が音を立てて倒壊していく。ここで彼女がはじめて、自分はこれまでピラミッドのてっぺんに暮らしていたことを知ったのだ。
その次には壁、天井、そして部屋中のありとあらゆるものが、いとも容易くぶち壊された。これにより気密性が犠牲になったが、自室が最高な採光性を手に入れた。
吹き付ける風が長い髪を靡かせて、眩しい光に思わず手を翳す。澄み渡る青色の天井を彼女が呆然と眺めている。すると、空模様の異常に気づく。事態をうまく飲み込めてない彼女がぼんやりと座り込んで、やがて我に返ったか、悲鳴を上げながら這いつくばり姿勢で逃げ出した。
巨大な……途轍もない存在感を放つ、黒々とした金属の束ねが空中から迫ってきたからだ。見上げても見上げても見渡せないほど大きく。空を緩慢に横切るだけで風の唸りが聞こえしまう程度に重く。なのに折れ曲がるように強かにしなやかに動く。そんなデタラメに破天荒に理不尽なまでに長大な塊が、大いなる蛇の如くピラミッドを纏わりついた。
あんまりにも大質量だ。蛇が身じろぐたびに、ピラミッドが激しく揺さぶられる。蛇の胴体にこびりつく、鱗状の硬質なガラスが刃となり、効率よくピラミッドを削り取っていく。
上からは瓦礫が落ち、下には足場がみるみるうちに消えていく。天地鳴動の最中に、取るに足りない彼女がどうすることもできず、あっという間に部屋の外へと放り出された。巨大獣につまみ出された蚤か何かのように。
空だ。周りに空しかない。なにもかもが空っぽ。
墜落感。天地逆さま。手を足を狂ったように振り回すも、何も届かない。なすすべもなく、彼女は万感の思いで、我が家が破壊されていくのを見つめるほかなかった。
我が家、ピラミッド。それは砂漠に聳える王の墓のはずだった。彼女は長年以来そう信じて疑わなかった。しかし外の世界はどうだ? 黄砂の大原などどこにもない。あるのは無辺に広がる空と、さらに広々とした海があった。
その海から長い身体を伸びだした黒き蛇。その蛇にもたれかかる巨大な祖存在がもう一体。ピラミッドを頭部をもつ、異様な姿をした獅子であった。それが彼女が長年暮らした家の正体であった。
「住めば都……」
衝撃的な事実を前に、彼女が離人症のように呟いた。誰かにではなく、独り言ですらない譫言を。脳裏では七色の記憶が走りゆくが、どれもこれも他人事にしか思えなくて、これが自分の走馬灯だとはとうてい受け入れない。
何も知らない、知る機会も与えられたことがない。墓から不本意にも生まれ落された彼女は、夢も諦念も急速に、躊躇いもなく回収されて、世界という大渦へと堕ちていく。彼女という存在がこうして終わってゆく。
「私の、都……」
大いなる蛇が鎌首をもたげて、とうとう金字塔の冠を粉々に粉砕せしめた。太陽の光を反射し、金属質な蛇がまばゆく輝く。その胴体を満遍なく覆い尽くす、曇ったガラス鱗の下に、モゾモゾと蠢く何かが潜む。
彼らの幾千万の視線は倒れてゆく獅子に、海へと落ちてゆく彼女に、そして波を切り裂いて接近してくる有翼の影に、等しく無感情に注いた。
◇
「マルナナマルマル。冠獅子が大海蛇の縄張りに入り……」
沈没。とヒビキがそう呟いて、マリンキャップのツバを掴んで目深く被り直すと、大の字になって甲板に倒れ込んだ
ボクが船の甲板の上に、ゆっくりと蠕動運動を繰り返すクルーたちがそんな船長を囲い込め、物憂げに身震いする。
「終わったよ、みんな」ヒビキがクルーたちに告げる。涙声で。「ボクも姉さんたちみたいに『港』に捕まえられては扱き使われて、最後はメチャクチャになってグチャグチャにされて無残に無様に可哀想に海の藻屑になるんだ」
放心した虚ろな眼で、彼女は帆船のマストを見上げる。今日も今日とて、帆が張られていない。
彼女の脳裏にこの七日の大航海が去来する。翼帆船ヒビキマル号、向こう千年の生涯を賭けた大一番である。百年ぶりに冠獅子が動き出した。この情報を盗聴……手に入れた彼女は、命ガラガラ、船体ボロボロになりながらも、『港』の追跡を撒いて見事な出航を果たす――。
――直後。嵐に見舞われ、荒れ狂う波風にされるがままに、三日を浪費した。嵐が去ったあとはめげずに、丸一日かかって再観測し、ようやく再び冠獅子の航跡を捕捉した。
――さあ、ここから巻き返すぞ。彼女がクルーたちを鼓舞した。が、帆を張ることができないトラブルに見舞われた。そこからの二日は、彼女はひたすらに甲板で膝を抱えて、クルーたちがマストに芋虫のように登りつめては手応えなしのまま降りてくるのを見守っては、時々頭を抱えて悩ましげにくるくると転がり回った。
そして、今朝。ようやく帆がその気になった。途切れ途切れで展開する帆の機嫌を伺いつつ、一日千秋の思いを胸に、ついに冠獅子を追い付いた。
金字塔の頭部と、首から下に伸び出る島のような躯体。海をも踏み越える巨岩の四肢。まさしく伝説にある冠獅子だ。その姿が視界にようやく捕捉できたとき、ヒビキが胸元の赤いスカーフを握りしめて、胸中にせり上がる感動を堪えた。堪えたのに。
次の瞬間、目の前で悪名高い大いなる貪食の蛇が海中から飛び出しては暴威を揮い、瞬く間に冠獅子が粉々になり海に沈んだ。
「帆だよ。帆さえ張られれば一瞬なのに。どうしていつも肝心なときに言うこと聞かないんだよ。ボクが船なのに!」
張り上げる拗ねる声。甲板を足でバンバン踏みつける。無念で無念で仕方がない。ヒビキマル号は小さな船だ。戦艦の姉みたいな雄大な艦砲がなければ、潜水艦の姉のようなミステリアスな潜航能力もない。ほかの連中を出し抜くには自前の帆を頼るしかない。
だというのに、肝心な帆は勝手気ままで、ほかのクルーたちと違って彼女の意思では操りきれない。
それでも自慢の帆なのだ。彼女の帆は風を受けるのではなく、音を奏でるみたいに風を生み出す。張られさえすればその機動性は姉たちどころか、あの『港』でさえもひと目を置く。
厄介なことに帆はいつも前触れもなく急に動き出してしまう。船全体が淡い緑の靄が帳のようにかかるのが前触れで……「……うぇ?」
ヒビキが跳ねるように身を起こした。マストを振り向いて、周囲を見回し、もう一回マストを見る。ボクが船はいま、緑の微光を放している。いつの間にか帆が展開された。そのほのかに輝く表面からはなだらかな気流を感じる。その流れが風となり、ゴウゴウと唸る。スカーフが風に攫われそうになり、彼女が目を見張りながら帽子を押さえる。
周りには、いつの間にかクルーたちが船室から一斉に湧き出して、忙しなく甲板や船体に這いつくばる。船長であるヒビキの意思と関係なしに、船はいま全速前進中なのだ。
そこで唐突に、船の意思と彼女の意思とが響き合い、行き先のビジョンが強烈に意識に焼き付けれた。ヒビキが涙を拭き取り、船首へと駆けつける。
行き先は呆気なく敗北して沈むく冠の獅子ではなく、勝利に酔いしれて静止した大いなる蛇でもなく、空から落ちるちっぽけな影であった。
海が荒ぶっている。沈みゆく冠獅子のせいで、とんでもない大渦が生み出されつつあった。巻き込まれたら、例えヒビキマル号といえどひとたまりもないだろう。塵あぐら同然なニンゲンとなると、目も当てられない。
ヒビキは空から落ちる人影を凝視した。弱々しくにも必死に、自分に手を差し伸ばそうとするように見えた。ヒビキが笑った。
ただいまボクが船が、そんな絶望の淵に立たされる子に向けて、海風を切り裂き、浪を乗りこなし、死の大渦にも恐れることなく、勇猛果敢に帆走する。「これだよ、これこれ」
迸る電光が全身を一気に走り抜けたみたいだ。敗北感が洗い流され、行き先に光り輝くのは大逆転勝利。気がづけば彼女は船首に立っていて、最高速度に達したボクが船を堂々と指揮していた。マリンキャップのツバを掴み取っては振り上げて、風に靡く赤髪と一緒にクルーたちに見せつけては勇ましく号令を放つ。
「まだまだ! もっと速く! 高く! 駆け抜けろ! ヨーソロー!」「アイアイキャプテン!」
クルーたちが咆哮で応じるのと同時に、ヒビキマル号が立ちふさがる大波とぶつかりあった。世界を分かつ壁かの如く、険しい弧を描く蒼い波。その最頂点に達するもいよいよ速度が尽きて、真っ逆さまに静止した帆船はしかし、そのまま落っこちようとはしなかった。ひたむきな無謀さを持って、ヒビキが叫ぶ。
「空舵いっぱい、ヨーソロー!」「アイアイキャプテン!」
有翼船ヒビキマル号が誇り高く歌った。船の両側から生み出された帆の翼が左右に大きく広げて、力強く羽ばたくと、分厚い波をたったの一飛びで突き抜けた。
波浪と青空の合間に、水飛沫と陽だまりの隙間に、海天一色の籠に囚われたようにに、あの子が目と鼻の先にいた。考えるより先に、ヒビキが船首から飛び出した。精いっぱいに両手を伸ばして、あの子の手を取ると、力いっぱいに腕の中に引っ張り込む。
何百年も伸ばしっばなしの長い髪は、何百年も生きたような真っ白。埃かぶる灰色の服から伸びだす手足は、ツヤツヤと日焼けていて、綺麗な太陽の色。無意識なのか、彼女がヒビキをきつく抱きしめ返した。
空中で、海面のすぐ近くで、二人は見つめ合った。驚きで溢れたあの子の顔に、ヒビキが笑いかける。
「ゴキゲンヨーウ!」
「え、ええ!? ご、ご機嫌よう?」
「ボク、ヒビキ! 有翼帆船ヒビキマル号!」
ヒビキの名乗りに、彼女は呆然と見返す。ボクが船がヒビキの意のままに帆をはためかせ、海面に先回りして二人を優しく受け止めた。帆をこんなにうまく操れたのは初めてた。
この子のおかげだと、ヒビキが確信を持ちながらも、つばを飲んで、呼吸が加速する。緑の燐光周りいっぱいを漂い、時間が止まったみたいだった。
緊張して震える声で、ヒビキが眼の前の子に問いかける。
「ニンゲンさん、お名前は?」
「人間?」
白髪に、太陽色。彼女が首を傾げて、ヒビキの言葉を口の中に転がすように繰り返して、固い表情に緊張が滲む。その時、ボクが船が帆翼を折り畳んでいく。帆が彼女の手に触れると、握りしめるようにその緑の羽で彼女の小さな掌を包んだ。
見たこともない船の挙動にヒビキが息を呑む。太陽色の彼女が緊張を解けて、嬉しそうに微笑むと、独り言のように呟く。
「風満帆、ですね」
「――カザミチホさん!」
「へ? あ、いや、いまのは自己紹介ではなくてですね……」
「ニンゲンさんのカザミチホさん! お願いがあります!」
太陽色の彼女の肩を強く抱きついて、ヒビキが彼女を迫る。ひゅーっと彼女の喉から変な声を漏れたが、お構いなしにヒビキが頭を下げて、単刀直入に切り出した。今回の命を賭した大航海は、全てこの瞬間の、この大告白のためにあったのだ。
「――ボクを、改造してください!」
「……はい?」
(続く。②はこちら。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?