【二次創作小説】血路カーペットをふたりぼっちで
※ファイアーエムブレム風花雪月の二次創作小説になります。
※黒鷲ルートのネタバレあります。
はじめての口づけは血なまぐさい味わいで、胃酸らしき風味までついてあった。自分のものなら嫌というほど味わってきたが、他人の血を飲み込むのはさすがにはじめてだった。
唇が離れると、薄紅色の橋が一瞬かけたは崩れた。「すまない」、と彼女が囁いた。「……何に対して?」と私が返す声が平坦だった。顔を仰げば、ガルグ=マク大聖堂が誇る、華やかな装飾ガラス窓が目に入る。
ガラス窓に描かれた聖セイロスの顔には亀裂が走り回り、外から注いだ光が乱反射の果てに淀んで、穏やかはずだった聖者の容貌に暗い帳を下して、怫然とした険しい目で世の中を、私たちを見下ろすようだった。
私はそんな聖セイロスを睨み返した。五年前、本人にもしたように。そしてあのときもいまも、私はひとりぼっちではない。教会に反旗を翻して、ガルグ=マク大聖堂を乗っ取って、血まみれた覇道を、ともに歩むと決めた彼女が、五年を経てふたたび私のそばに帰ってきたから。
「エル?……顔が怖いけど、そんなに嫌?」
「あとでじっくりと話し合いましょう、師。……そんな目しないでよ、嫌、ではないから」
彼女の手を取って、私は聖者の凝視を振り払うように背を向けた。足とのには倒壊して、ただの石や泥と化し文字通りに地に塗れる女神像。外からの光がガラス窓に染められて、七色になって私たちに降り注ぐ。砕かれた神を踏みしめ、私は彼女とともに血まみれた聖壇から降りた。
そして私は勝鬨を放つだろう。そして彼女は剣を振り上げて、勝利を兵士たちの目に刻み付けるだろう。そして勝者は生き延びたことを喜び合い、敗者は踏み越えられた我が身への怨嗟を嘆息に変える。
そうやって戦争は続く。血路が伸びていく。私は私たちの足元に広がる赤黒色な絨毯を、背中にある聖者に見せびらかすように堂々と歩みを進めた。
❁
天馬の節最終日、朝でガルグ=マク領内に着弾する大岩が急襲戦の火蓋を切り落とした。
山頂に居座るガルグ=マク。その麓に設置されてあった防衛兵器の数々が元の主が帰ってくることに喜びの叫びをあげるかのように、大修道院に石の雨を降り注がせた。
投石攻撃を仕掛けたのはセイロス騎士団を率いる現団長・アロイス。愚直にすらある正面突破にこだわるその姿は、五年前と変わらぬ、セイロス教の盾という異名に恥じぬ風格だった。
「……と、真っ向勝負をすると誤認させたいのが目的でしょうな」
伝令兵の報告を聞きながら、大回廊に足早に進むヒューベルトの表情は詳しい。報告によればアロイス隊はあくまでも先遣隊のようで、その数は多くない。別方向から攻めかかってくる本隊には雷霆を携わる恐るべしカトリーヌ、そしてなによりも大司教レアの姿が確認されている。
「そちらにはもちろん我が軍も本隊を向かわせて迎撃しかなるまいが……まずい事態になってますね」
ガルグ=マク大聖堂はいわば相手の庭。帝国軍が長い間本拠地としているが、いまだにその入り組んだ作りを把握しきれていない。
まるで誘い込むような手薄なアロイス隊の手勢から不穏な香りをして、ヒューベルトは次から次へと新しい伝令を送り出したあと、大回廊を出て、視界の広い観測棟に足を運ぼうと目を向けては、手を掲げた。手遅れだとわかっていながらも、目指す先である観測棟から自身の眉間めがけて飛んできた矢を防ごうとした。
――命がらがらの伝令兵が宿舎へたどり着き、ヒューベルトが矢に撃たれて橋から落ちたと伝えられたときには、すでに旧士官学校の門前までセイロス騎士団の足音が聞こえてきた。
❁
厩舎に着弾する投石を眺めて、アロイスはすでに最低限ギリギリな舞部隊をさらに前線に支援するように部下に言い渡した。部下たちは反論を唱えたが、あえて弱点を作り出すことで敵の進軍方向をこちらから制御するためだと、彼は朗らかな笑顔で宥めた。
敵の怒りを受け止めるこそセイロスの盾の本懐。憤懣やるかたない思いで殺到してきた帝国軍を、すでに潜入したシャミアの弓兵部隊は横からかき乱す。セイロス騎士団が誇る剣と盾の螺旋攻撃である。
また、さっきシャミア部隊からの伝令によれば、帝国軍の軍師であるヒューベルトへの待ち伏せが成功したとのこと。足も頭脳も失った敵軍の混乱を利用しない手はない。
「……わかりました。団長もどうか気をづけて」
「ワハハハッ! 暗い顔をするでない。少ない人数だが、みんな入隊してからすくすくと育っててきた精鋭だ。少ないだけに、すくすく……おおおもう行くのか?」
前線に赴く部下たちの背中を見送りながら、アロイスは頭を掻いて、斧と籠手を装着し、投石機の前に陣取る。
――順調に進んでいる。いまのどころは。戦火まみれな五年。セイロス騎士団は様変わりした。ジェラルド団長の背中を追いかけるころは、周りはみんな英雄ぞろいだと思えた。いつの間にか、セイロス騎士団は彼とシャミアだけが残っていた。
守るべきジェラルド団長の子と違う道を選んだアロイス。頼るべき相棒の執念を止められなかったシャミア。ふたりっぼちになったセイロス騎士団は、それでも剣と盾であることを誇りとしていた。
土砂の煙を突き抜けて、厩舎方面の空に飛びたてた影あり。五年間、嫌というほど見てきた帝国軍の独立精鋭部隊、黒鷲遊撃隊が翼を広げたことを告げていた。
投石の間を縫って、空から進軍するのは切り込み隊長のフェルディナント。敵陣に突っ切るような大胆不敵な低空飛行で戦場をかき乱すが、その部隊の動きはアロイスの目では不審のように見えた。
「……同乗するのはトロデア殿か? 魔法で弓の射撃を防いでるな。しかし真っ先に投石機を奪いに来たと思ったが、戦場を回ってるだけ……むむっ!?」
側方から雄たけび。近い。アロイスが斧を握りしめた。防御工事が崩れて、そこへセイロス騎士団の重装甲兵たちが囲い込み、一斉に斧を振り下ろす。
「おらぁ!」「はあ!」天地さかさまに装甲兵たち飛びのける。その隙間に、上空から飛び降りたもう一人の影に兵士たちにとびかかって、鎧の隙間をすり抜けるように一人また一人の喉元を掻き切った。
敵は二人だけ。吠えるように拳をぶつかり合う拳士に、弧を描く刃を手にする剣士。視線と視線が交差して、アロイスが斧を構えて、五年前のように堂々として、そして五年前では決して抱かない獰猛さで、二人の教え子にして宿敵に手を招いた。
「カスパル殿にペトラ殿か。不足なし。――かかってくるがいい、黒鷲遊撃隊!」
❁
マジか、とシャミアが呟いた。
彼女は屋上を伝い、建物から建物へと絶えずに移動して、自分を狙ってるスナイパーを探した。凄腕だ、と敵ながら彼女が訝しむ。黒鷲遊撃隊との小競り合いはこの五年間で数えきれないほどあったが、敵軍にこんなやり手が存在していたとは。
ヒューベルトを真っ先に排除できたのは運がいい。リンハルトをはじめとした黒鷲遊撃隊の主力でもある魔導部隊は統率を失って、戦線から離れるところで支援するのが精いっぱいのようだ。
だが、そのせいでヒューベルトを仕留めたかどうかを確認できない。飛び回るフェルディナントは軍師を探してるのは明白だろう。あの抜け目のないヒューベルトを出し抜くには長距離狙撃しかないとわかってるが、こういう時は面倒だ。
危険を冒して自ら最前線に切り込む相棒がいないと、こうもやりにくくなるとは。くだらない感傷に彼女が鼻を鳴らして、気持ちを切り替えた。
懐かしき食堂の二階。柱から少し顔を出して、外を見る。目を半開きにして、なんなら明らかに寝間着を着込んでいるリンハルトが高台の上にいて、あくびを掻きながら風魔法を操ってる。恰好も姿勢もなにもかもふざけてるのに、ごうごうと唸る風が吹き荒ぶ様からでもわかるように魔法の切れ味だけが冴えわたっていて、シャミアの弓兵部隊は一人で食い止めている。
それでも死角に回れば、一撃だろう。驕りぶって調子に乗った貴族の魔法師を山ほど転がしてきた。ここで足止めを食らう時間が長ければ長いほど、奇襲の優位性がなくなっていく。賭けに出るべき状況だが……。
右側の窓からちらっと光が見えた。それが痺れを切らした部下からの合図だと認めたシャミアが舌を打つが、止める前に部下が隠れ蓑から半身を出して、弓を横に構えてリンハルトに狙った。当たるための攻撃ではない。注意力を引き付けて、シャミアを移動させるための援護射撃だ。さっきからこの繰り返してシャミア隊が最前線まで潜り込んだが、ここにきて戦線が推し進めなくなった。
その理由が風切り音とともにやってきた。シャミアが柱の裏に戻り、弓を取って走り出す。部下の悲鳴と、窓を押し壊して外に転がり出た声を振り払いながら。「クソ。なんでやつだ」シャミアが毒づく。敵側に恐ろしいほどに殺意に敏感な狙撃手がいる。さっきからこちらから仕掛けるタイミングにぴったりと先回して、こちらの射手を射止めたあと目にも止まらない速さでまた姿を消した。
慎重というよりは臆病にすら思える。それにあの目鋭いだけでは説明つかない敵意への鋭敏な感覚。己の縄張りをどこまでもしがみついて、侵入するありとあらゆる害意を四六時中に想像しては怯えて、そして歯を剥く。敵は人間より野生動物じみた生態の持ち主だろう。シャミアが分析し、敵を想像したが、そんな被害妄想な塊みたいなやつが本当にいるのか。
「……いや。まさか。いやいや」
彼女が一人ごちった。食堂の二階に散らばったガラクタから分厚い木片を数枚拾って、備品の弓弦で腕に縛りついて即席の盾を作ると、改めて外に視線をやる。敵軍の大将二人はいまだに姿を現してない。ということはこちらの大将がうまく行った、と思いたいが、そんな楽天的にはいられない。なんにせよ、彼女は自分の眼で確かめないと気が済まない性格だ。
シャミアが食堂二階から飛び出した。落下のさなかに、盾で体を守るように縮こまりつつ、もう片手で矢を弓に押して、口で弓弦を引く。狙いはもちろんリンハルト。この一撃が例え逸らされても、着地前に彼女ならもう一発は打ち込める。――風切り音が近づく。
シャミアが目を見開いた。衝撃が二度した。一発目の矢が彼女の即席盾を吹き飛ばした。それで体勢を崩したが、そのおかげで二発目が耳そばを通り抜けて飛んで行った。それと同時に彼女が仕返しの矢を放った。彼女の矢がリンハルトの頭上に飛翔して去っていき、高台奥の、大聖堂の再建工事の骨組み台にいる相手に命中した。
「キャーーーーー! 当たった! 死んじゃう! ベル死んじゃうよ! もうダメー! 女神さまが迎えに来るー! あっでもベルは教団と戦ってるよね……じゃあ女神さまにも見放されるよー! わぁーー!」
地面に何回か転がって、低い姿勢を保つままシャミアが草むらに飛び込む。一秒前まで自分がいた場所が、ここぞとばかりにリンハルトの爆炎魔法が炸裂する。部下たちの遮二無二な援護射撃がなければ、追撃の魔法でやられていた。
「ごめんなああさいいぃ。リンハルトさん……ベル、先に逝くね……」
「いやめちゃめちゃ元気に喚いたよね」
「え? あ、本当だ! ベル生きてる! 生きてるよぉぉ!」
「よかったね」
シャミアが痛みを堪えて、状況整理に務めた。矢を防いだ左手は骨が軋むほどに痛いが、まだまだ動ける。この呑気な会話からしたら、相手側も似たような調子だろう。彼女が記憶を辿り、記憶の中の敵の姿と、さっき一瞬の切り結びに見せつけられた相手の腕前を繋ぎ合わせようとした。相手は、あの泣きべそなベルナデッタだった。
「……マジか」彼女は顔を覆って頭を振った。
❁
五年前、あの二人と一緒に海を見てきた。耳そばで奏でられるさざ波の音を聞きながら、彼らの秘密を垣間見ることができた。遠い遠い水平線を見つめて、過ぎ去った在りし日の思い出を語り合う二人は、私がいることに意を介していなかった。
今思えば、二人から手を差し伸べたのだと思う。もしそこで彼らの手を取っていたら、どうなってしまうのだろうか。あの頃みたいに足元に広がるのは潔白な砂と澄み渡った海でいられたのだろうか。そう思ってしまうこともあるが、もしやり直すことができたとしても、二人のではなく彼女の手を取ることになるだろう。
二人で、血の海に沈むのだろう。
❁
正午の大聖堂前。一進一退を繰り返す黒鷲遊撃隊とセイロス騎士団の間の均衡がとうとう破られた。
「五年ぶりですわね、エーデルガルトさん。殺し合う前に、一つだけお尋ねしてもよろしくて?」
緑の髪が風を靡き、乙女が穏やかにほほえみを作った。彼女が指を鳴らせば嵐が起こり、杖を振るえば宙から大軍が現れる。黒鷲遊撃隊の後続部隊をひとりでさばき切った可憐な乙女の笑顔には影を帯び、そこからは人ならざるものの貌がぼんやりと、しかし確実に潜んでいた。
「いいわ。一つとは言わずに何個でも答えてあげる。でも私からの返答は一通りだけで、そして決して変わることがないと知りなさい。――フレン」
手には禍々しい輝きを孕む異形の斧。背中に刻むのは覇道に邁進する黒鷲。角の王冠を戴く乙女が踏みしめるのは大地ではなく、倒れゆくセイロス騎士団の精鋭たち。血の滴る斧を振り上げる彼女の肩に、瞳に陽炎が立ち上り、めいめいと燃えていた。
「……退いてくださる?」人外の乙女が問うた。真摯な哀れを抱えて。
「そっちが退け。人の世から」炎の乙女が答えた。揺るぎようもなく。
次の瞬間、斧と光が荒々しく嚙み合った。
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フレンは実はこう聞きたかったじゃないかしら。「戦争から身を引いて、二人だけで暮らしく道を選ばないの?」と。
実際、そう誘われていたらどうなる、と自問せずにいられない。この世界と、私の復讐と、たったひとりの彼女。彼女はすべてを擲って私についてきてくれた。私から何一つ返したことあるのかしら。人生も理想もなにもかも彼女への返しだけに使う道があるとしたら、私が果たして選ばずにいられるのかしら。
分かることといえば、彼女のほうはそんな問いかけなんて決してしないことだけ。私も彼女も、血の足跡を残しすぎていたからだ。
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大聖堂の天井まで届くそびえたつ女神像の上半身が斜めにずれて、緩やかに下半身から分離して、床に落下して粉々に砕かれた。粉塵が天に舞い、その中から淡々と歩み寄る灰色の影に見て、セテスは既視感に強く打たれた。
かの解放王の再来とも思える光景であった。つくづくと、長生きしてもしょうがないとため息をつきたくなる。千年前の大戦で、彼は愛する妻を失った。歴史は繰り返すものというのなら、今度の戦いでセテスは何を失うのだろうか。
ドラゴンから飛び降りて、セテスが灰色の影へと向かう。大聖堂を包む煙が揺らいだ。セテスの死角をかばうように飛ぶドラゴンが悲鳴を上げて、地面に引きずり込まれた。その首に絡まって食い込まれる連なる刃が鎖のように空まで続いたのを見て、セテスが上へ槍を振り上げる。
槍は上から襲い掛かる刃が触れ合い、火花を散らかす。そして、セテスは五年ぶりに、ベレスと目が合った。頭の中によぎる解放王の憎き姿を拭い去るように、同胞たちとまるで変わらない顔をしたベレスが、セテスを無感情にのぞき込んでいた。
灰色の悪魔。彼女の異名を思い出した。思えば神の名のもとに戦うのが自分たちの軍勢なら、彼女とこうして刃を交じり合うのは定められた運命だったのかもしれない。
言葉は不要だった。もはや彼女を見定めて、導く日々は遠のいていた。セテスがあえて槍を刃の鎖に絡ませるようにして大掛かりに回した後、力いっぱいに得物を手放して彼女に投げた。
ベレスの目に動揺の光がちらつく。とっさの判断で彼女も天帝の剣を放して、絡まりあう武器を避けた。そこでできた隙にセテスが潜り込み、彼女の躯体に拳を叩き込んだ。
鎖骨に痛みが走り、相手の考えることが同じだということを告げる。息もできないまま悶絶するはずのベレスが肘を突き出す構えで、セテスの近接戦闘を待ち構えていたのだ。喉元に狙うチョップ突きを躱し、仕返しの掌底打ちをいなされ、二人はそのまま骨と骨が軋み合う殴り合いに突入した。
獣だ、とセテスが思った。あまたの片隅にどこか冷めていた声が、人であることを放り出して、怒りを任せたままにのたうち回る自分を見下ろしながらそう囁いだ。いつの間にか二人の手にさっき放り出した武器を再び掴んでいた。セテスが突き出す槍の先をベレスが抜け目なく踏んで拘束すると、槍の上に走るように距離を埋めて膝蹴りを食らわせた。
倒れるセテス。視界いっぱいを埋まる天帝の剣の輝き。自分のつぶやき声だけが聞こえていた。「セスリーン……」
連なる刃がセテスの頭の横を突き刺した。上からセテスを覆いかぶさるようにベレスの長い髪が二人を外から隔絶するようにたれ落ちてくる。
「引け、セテス。追いはしない」
「遅かったんだ、ベレス。もう遅かった」
セテスが口笛を吹き鳴らした。ハッとなって、バレスが横に向いて剣を構え、ギリギリで突っ込んできたドラゴンの牙を防いだが、血まみれなドラゴンが怒りを燃やして、最後の力を振り絞って彼女を剣ごと咥えて飛びあがった。
ドラゴンの手綱を引いて、セテスが身をひるがえし、一緒に飛びたてた。ドラゴンの首から垂れ流す血が大聖堂の床を汚し、赤黒のカーペットを作り出す。
片手がドラゴンに牙を立てられる状態で、ベレスはなおも剣を振って戦い続けた。天帝の剣の刃が大聖堂の空すらも切り裂いて、やがてドラゴンの翼に届く。唸り声とともに、女神と聖人たちが描かれる飾り窓にドラゴンが衝突する。項垂れるように息だえた。
片手だけで剣を握るベレス目掛けて、セテスから仕掛けた。一撃目は横薙ぎの斬撃でいなされたが、セテスの背後に大紋章の印が浮かびあげた直後、ほぼ同時に二撃目が繰り出された。
ベレスが絶望にも血塗られた怪我したほうの手を槍先に伸ばしたのを、セテスはただ見つめた。その手の甲は、滴る血は、彼女の瞳が、炎の紋章が燃えていた。
――彼女の顔に、表情らしいものが滲み出たのをはじめて見た。いや、違うか。五年前の海辺に、自分が秘密を打ち明かしたときに、「さすがに無理がある」と、彼女は笑っていた気がした。
素手で握り壊された槍先を、セテスは構うことなく、渾身の力をもってベレスの心臓を狙って突き刺す。天帝の剣がいち早く自分の首を切り落とすことが分かった上に。
ベレスの肩越しに、大聖堂の前の戦闘が終わっていたと見えたから。おもむろに立ち上がる皇帝の腕の中に、赤く染められた愛娘が抱えられていた。
二人に、なだらかな光が注がれた。
❁
「だって……よかったじゃない……。うふふ……ヒューくんの……長年の願いが……」
ドロテア後半の言葉が爆笑の渦に飲まれた。彼女に何度も背中を叩かれて、ドロテアを載せて飛んでるドラゴンが抗議するように横にいる主人のフェルディナントを睨む。
フェルディナントが真顔を作り、咳ばらいをする。
「笑いことじゃないぞ、ドロテアくん。コンスタンツェくんが駆けつけてくれなかったら私たちが危なかった」
「そうね、コンちゃんにもあとでお礼を言わなきゃね、ヒュー君」
「……いっそうそこで放っておいてほしかったところですな」
フェルディナントが背中に回してくる手をうんざりとした様子で何度も退かしながら、ヒューベルトがぼやいた。二人を載せるダークペカサスが幾度もなく首を回し、自分の背中にいる二人の男を見て、そして悲しげに頭を横に振る。
――灰狼勢力の加勢により、ガルグ=マクにめぐる乱戦が収束を迎えつつあった。教団勢力の一番の優位性である地の利は、アビスの住人である彼らにとっては分かり切った手札でしかなく、待ち伏せしていた教団兵が次から次へと炙り出されて、集中攻撃で追い払っていく。
それはちょうど、やっとの思いで負傷して身を匿ってるヒューベルトを見つけたフェルディナントは、トロデアに「私が囮になって二人はドラゴンに乗って医務室へ」と提案してすぐ二人に猛反対を食らって、肩を落としてるときのことであった。
雷鳴に爆発、そして降り注ぐ魔法矢の雨。黒い天馬に乗って三人のもとに、高笑いしながら現れるコンスタンツェ。午後の曇りで彼女の調子が最高に盛り上がっていて、魔法で教団兵の靴を飴菓子に変えたあと、炎魔法で溶かすなどの奇妙極まりない戦法まで披露した。
予想外の援軍に教団兵たちが仕切り直すのために、大きく後退することを余儀なくされた。フェルディナントらの前に降り立つコンスタンツェが口角を天にまで届くように上がっている。まるで神々も彼女に祝福を授かるように、曇り空が晴れていき、まばゆい陽の光が雲の間を縫って彼女を照らした。
「お三方はご無事でしょうか? それはよかったです。こんな惨めで無才なる私が心配事をするなど烏滸がましい限りでございますが、不肖ながらできる限りのことをさせてください。どうぞ私めなどを盾にでも踏み台にでもお使いになって、このような危険な場所から脱出してください」
という調子で三人がしばらく困惑したが、コンスタンツェが引き続き提案を出した。そもそも飛び方が荒々しいドラゴンでは、負傷者の運搬には向いてない。ここは彼女のダークペカサスを使うほうが合理的だという。
それを聞いてドロテアの目がキラキラと輝いた。彼女は非力な自分では男を引っ張り上げる力がないということで、ダークペカサスは男二人で同乗すべきと主張した。卑屈になっていたコンスタンツェが彼女の勢いに負けてうんうんと頷くようになり、ヒューベルトとフェルディナントは反論する暇もなく、気がづいたらすでにダークペカサスの背に乗って飛び上がっていた。
コンスタンツェのほうはというと、これから味方と合流して、麓のほうへ向かってハピを迎えに行く予定だ。新しい天馬はそのとき調達するつもり。どうやら投石器周辺の戦闘は教団兵陣営に突如として魔獣が現れたせいで、教団側が撤退を強いられた形でいち早く終わっていたらしい。
アビス別働隊に回収されたカスパルとペトラは二人とも命に別状はないが、カスパルの顔が出撃前より三倍に腫れあがっていて、喋ることもままならない状態だった。彼は悔しいそうに滾っているようになにか決意めいたものを伝えようと騒いでるが、残念ながら誰も彼の言葉には理解できない。
「アロイスさん、恐ろしい相手」彼の隣で、刃こぼれした愛用の曲剣を名残惜しそうに撫でながら、ペトラが言った。「勝ち戦、すべてじゃない。負けない戦もある、あります。学習しました」
食堂上空で、三人は食堂だったもののなれ果てを見て舌を巻いた。屋根がひっくり返されて、あちこちで火の手が上がっている。遮蔽物などほぼなくなった代わりに、いたるところまで矢が立ってており、熾烈な射撃合戦が繰り広げられいたことを物語っていた。
ここを守るはずのベルナデッタとリンハルトの姿が見かけない。三人が顔を見合わせ、最悪な想像が脳裏に過ったが、単に撤退したとお互いに言い聞かせて、先を急いだ。
「どうせ変なところに隠れただけ、というオチだと思いますがね」ヒューベルトが鼻を鳴らす。
……後々でその推測が正しいと証明された。リンハルトの疲労と、ベルナデッタの長時間外出による精神的負担がほぼ同時に限界に達したことで、ベルナデッタが死に物狂いの撤退戦を打ち出した。
リンハルトの襟を後ろから掴んで、一目散に逃げだした彼女の素早さたるや、支援にきたユーリスの声すら届かぬほどのものだった。敵が減ったのを好機に、重装備を着込んで勇猛に食堂に突入するバルタザールのほうも成果なしだった。シャミアも同じタイミングで潮時と判断したのだろう。
ユーリスたちはその後、ベルナデッタの自室で彼女とリンハルトを発見した。ベッドも机も本棚も全部扉をふさぐための防御工事として使われたため、彼女の部屋はかの不破要塞アリアンロッド以上の堅牢さとなっていた。彼女を安心させて誘い出すにはひと苦労だったと、ユーリスが疲れ切った顔で語る。そんな彼女の後ろに、床でクマのぬいぐるみを枕代わりにして、すやすやとリンハルトは眠っていた。
「痛み分け、というところかしら」物憂げにドロテアが尋ねた。
「嫌な予感がする。エーデルガルトや先生が心配だ。一番心配いらない二人ではあるが……」フェルディナントが下唇を噛む。「ヒューベルト、すまないがあなたを医務室に送り届いたあと、私たちは大聖堂に応援に行くよ」
「バカも休み休み言ってください」足の包帯を自分で締め直して、痛みで息を薄くなりつつも、ヒューベルトが冷たく返した。「いますぐ大聖堂に向かいなさい。エーデルガルト様は万が一でも負けることはありませんが……そのありえもしない可能性を潰すために、私がいないといけないのですよ」
❁
「ねえ、エーデルガルトさん。やっぱりもうひとつだけお尋ねしても?」
「引かないと言ったはずよ。調子に乗らないで」
「ふふっ。五年前と同じ口調に戻りましたわね。このほうが慣れ親しんでる級長さんなんだから、ホッとしますわ」
「降ろすわよ」
「まあ、怖いですわ。……ねえ、エーデルガルトさん。五年前、私を助けたのは本心? それとも計画だけ?」
エーデルガルトは腕の中にいる彼女に目を向けた。獣の貌などどこにもなく、蒼白で、弱々しい少女が自分をすがっているだけだった。フレンがその気なら、いまからでも捨て身の魔法を放って、相打ちに持ち込むことはできるだろう。だけどそれでも、エーデルガルトはもう仕留める気にはなれなかった。重傷を負って、膝を崩して倒れた瞬間、父親に謝るフレンの姿は、幼い日の自分とどこまでも似ていたから。
甘くなった。誰かさんのせいね、まったく。
「……無事で、嬉しかったの。本当よ」
「信じますわ。改めて、助けてくれてありがとうございますわ。エーデルガルトさん」
屈託なくほほえむフレンの手は、いつの間にか強く光っていた。緊張が走り、エーデルガルトが息を呑み、斧を握りしめるが――呆気なく、また降ろして、フレンの手がかざすほうへと目を向けた。治癒魔法の優しい残り香が残光となって目に焼き付いた。
「紛らわしいのよ、貴女は……」
「え? 何の話ですの?」
「なんでもない。行くわよ」
「ええ。……先生とお父様のところへ」
❁
降り注ぐ温かい治癒魔法の光を浴びて、セテスは自分が生きてること、フレンが無事だったこと、なにより戦いが終わったことを悟った。ためらった彼の手が途中で止まったが、ベレスはそのまま手を差し伸べてきて、彼の肩を支えた。唇をきつく結びつけるベレスからは声も発さずに、眼差しだけで彼に語り掛けてきた。
引け、と。遅くなんかない、と。
薄緑の髪が灰をかぶり、ドラゴンの血で全身が赤に彩られたベレスの姿はどこまでもあのときの解放王ネメシスを思わせるが、セテスは彼女の燃えゆる眼差しから目を離せなかった。
セテスは彼女の視線を正面から受け止めた。彼女に問い質したいことが山のようにあった。なぜ同胞であるはずの我々を裏切た。なぜ恩人だったはずのレアに刃向かうことにした。なぜ父親を害したものたちと手を取り合った。質問に重ねる質問、その果てにあるのは、もしかして単に納得が欲しかっただけかもしれない。あの海を見た日、自分たちが出した手を彼女が取れなかったことを、納得したいだけだった。
やがて顔を背けたセテスはベレスの背を軽く押して、不確かな足取りながらも、二人は肩を並べて、大聖堂の壇上へと降りた。新人教師と、それを案内する司教補佐のように。
フレンを抱えたエーデルガルトが彼らを待っていた。人の子の皇帝に支えられてる娘を見て、感慨めいたものがセテスを浸かった。ようやく、自分たちの時代が過ぎ去ったことを受け止めることができたような気持だった。
「お父様、大丈夫でしたか」珍しく素直にセテスの抱擁をフレンが受け入れて、憔悴してはいるが気丈に笑った。
「ああ。私は大丈夫だ。ありがとう、フレン……エーデルガルト」
彼は皇帝を見た。お父様?、とエーデルガルトが面喰ったように声もなく呟くが、彼の視線に気づいたのか、咳を払ってセテスに向き直った。
「私たちは戦争から手を引く。二人で、人知れぬ山奥で静かに暮らすことにする。これでいいか」
「わかったわ。追手はないことを私が保障する。……ヒューベルトあたりがそれで納得しないでしょうから、公には死んだことにするわよ」
「そうしてくれると助かる。……レアのほうは、私から伝えておくが、いまの彼女は聞き入れるかどうかは……」
「私たちは私たちの道に進むだけよ。さよなら、セテス様、フレン」
「ああ。もう会うことはないだろう」
「お別れですわね、エーデルガルトさん、先生」
背を向けて歩みだすセテス。二人の姿が見えなくなるまで、彼の腕の中にいたフレンは最後までエーデルガルトとベレスに手を振った。勝手ながらも、矛盾ながらも、エーデルガルトは二人の幸福を祈った。父親は平和に暮らせるように、と。
かくして、ガルグ=マク奇襲戦は幕を閉じたのだった。
❁
「……師、さっきから黙ってるけど、もしかして重傷を……違う? それはよかったけど、顔色がよろしくないわね。本当に大丈夫? 師は私たち黒鷲遊撃隊の実質的な指揮官なんだから、一挙手一投足が士気に直結するの。……何があったら私に吐き出しなさい。どんなものも飲み下がってみせるから。……え、ちょ、ちょっと、師!?」
――大聖堂にたどり着いたフェルディナントが口を閉じないまま愕然とした後、ぬおおなどと奇声を発して、手で目を覆って顔を背けた。そんな彼の肩を大興奮するトロデアが身を乗り出して繰り返してはたいてる。そのせいで、ドラゴンとペカサスが信じられないという顔で並行飛行を務めるはめになった。
ヒューベルトはというと、眉間を力いっぱいに揉んでいた。「もういい。もういいのです。医務室に向かいましょう。聞いてますか、フェルディナント殿!」
〈終わりました。ありがとうございました〉
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