【短編小説】水面に触れてべからず(前編)

1

「祖父に仕事のことを訊ねると、いつも「オレは迷宮の番人だよ」と微笑まれる。そして横にいる両親は複雑な顔をして、話題をそらしていく。当たり前だけど祖父は別にファンタジー世界の住人でなければ、牛頭の化け物でもないが、やはり伝説の中にはいた」

「彼は中央人工知能犯罪予防対策部の刑事だった。いまでこそAI管理時代の黎明期を縁の下で支えた名も知らぬ功労者だと再評価されてるが、当時では彼女の父親にそう自己紹介したら「税金ドロボウめ!」と怒鳴られては塩まで撒かれるほどのハズレくじ部署だったらしい。分家とはいえそんなんでよく名門令嬢の祖母と結婚できたなとボクはいつも思う」

「理不尽ではあるが、無理もない。センター管理AIを監視する部署といえば聞こえはいいが、実態としては「AIが反乱を起きないようにちゃんと見張っておく」という前時代的なフォビア、言ってしまえば人工知能暴走論の上に成り立てた閑職だ」

「話をちょっと逸らすけど、この前大学で代表的な出来事があった。教授は中央人工知能犯罪予防対策部の功績を中立的に評価しつつ、「アホな大衆から票を騙し取るための政策」と歯に衣を着せなかった」

「『とは言うものの、人間でしかない私はこうして教職に就けたのも、そんな政策のおかげだけどね』、だそうだ。そのとき教授の背後にいるアシスタントロボットは彼の言葉を翻訳しようとしたが、結局出力できたのは雑音だけ。リモート授業を受ける外国学生たちには気の毒だ。カメラの向こう側でそれぞれの母語でぼやいた」

「『昔のロボットはみんな賢かった』。年寄り達がみんな口を揃えてそう言う。それほどに黎明期と称される半世紀前のロボットの性能は伝説的なのだ。指令コードではなく人語でやり取りできたり、壁をぶつかりながら記憶するのではなく視覚で環境を認識できたり、ベテランよりもずっとうまく飛行機を操縦できたり」

「あまつさえは、高度な倫理観念の問題を対処できたアンドロイドまで作られたという」

「伝説というより、おどき話に近い。あの頃のセンター管理AIは人知を遥かに超えいたとか。もう誰の手も届かぬブラックボックスだとか。深淵の中に人知を超えた膨大な量の情報をもつモデルが日々新陳代謝されていく。見方によっては確かにそれは黎明期だ。人工知能たちの魂は、夜明け前の漆黒の中に潜んでいたから」

「祖父がいたのは、そんな魔法のような時代の、魔法のような機械仕掛けな人形たちを相手にする最前線だ」

「一応言っておくけど、ボクは別に昔話にかこつけて、現代のAI製品を批判したいわけじゃない(まあ、『ルンボくんが自分でソファの下から出られるようになればなー』といった程度の愚痴はなくはないけど)。そしてもちろん、現代のセンター管理AIお天道さんシステムにもおおむね満足している(ネーミングセンス以外。ほかになんかあるだろう?)」

「これはあくまでも大好きな祖父についての思い出話だ」

「脱線してきたので話を祖父に戻そうか。先日、遺品整理のためにおばあちゃんちに戻ったけど――祖父が買った土地で祖父が建てた家だけど、両親もボクもおばあちゃんちと呼んでる。祖父は気にする様子を見せなかったけどなんか悪いな、と今さらながらも思ったりする――、そこで祖父の日記帳があった。邪魔されずに読みたいから、ボクは久々に裏山へと足を運んだ」

「犬の散歩やら釣りやらで、子供のころはよく祖父と一緒に裏山を歩き回った。山奥にぽつんとある小さな池が気に入って、ローン組んでてもここを買ったと祖父が教えた。その池の畔で腰を下ろした、日記帳を開く」

「日記ログではなく、日記帳。祖父の世代でも今どきに?って感じだったらしい。手書き文字で綴られた文章を読むのはいつぶりだろう。祖父も祖父で特に懐古趣味がない人だったので、内容にはいっそう興味が湧くが、祖父のことだ。どうせ三日坊主だ」

「前置きが長すぎたね。結論から言うと、ボクの祖父・鏑木紅夫は、本当に迷宮の番人だった」

2

 カラスが近寄ってくる前に、リスはもう木の上から煙のように逃げ出したという。それが古くから代々と伝わってきた生物の本能で、賢くて正しいからリスは生存競争という淘汰から生き残って繁栄してきた。

 だからいまの行動も実に理にかなっていると、鏑木紅夫が自分に言い聞かせた。公務員としての責任をいったん忘れて、義務を相棒に全部丸投げして、職場から逃げ出してラーメンを食べに行こう。

 選択には常に結果が付き纏うが、明日の風は明日吹くさ。洞窟の中ではじめて火を発見した以来、きっと人類はこのように怠惰なフロンティア精神を胸にやってきたのだ。そう思うとだんだんにんにくの香りが恋しくなってきた。紅夫が踵を返して、三秒前までは入ろうとするサーバールームに背を向ける。

「鏑木、ちょっとこっちきて一緒に見てくれよ。ってなんで入らないんだ?」

 サーバールーム内から、相棒〈ダニエル〉の呼び止める声がした。一歩遅かったことに心の中で舌を打つ紅夫だが、彼はタフガイさながらに首だけを動かして、不敵に鼻を鳴らす。

「おうおうおう、どうした? あん? アンドロイド刑事さまが簡単な検索作業もできねぇってか?」
「時々先時代的な芝居かかったセリフを言い出すね、鏑木。人間臭さの一環か? じゃあ参考として僕も倣ってみるほうが……」
「やめろ。オレがクビになる」

 いまの相棒〈ダニエル〉はいろいろとユニークだ。例えば冗談にはいちいち真顔で聞き返されるとか、どんなことにも無限の好奇心で向けては、人間味の獲得につなげようとするところとか、実はロボットだけど署内では一部の人間しか知らされていないとか。

 こいつだけでも充分頭痛の種だったのに。愚痴とため息を胸奥にしまいこんで、紅夫は頭を掻いてサーバールームに入って、中央端末を操作する〈ダニエル〉へと向かう。

 サーバールームに、中央端末。いかにも味気ないネーミングをしているが、実用主義というよりは、抵抗感を減らすための心理的カモフラージュに近いと紅夫は考えてる。高い天井と幅広い室内には機械類は一切なく、あるのは透明なガラスフロアの下で、たゆたう〈ミナモ〉の微光だけ。

 このサーバールームはセンター管理AI〈ミナモ〉そのものだ。関係者以外には最新の冷却水蓄積槽ということになっているようだが、ガラスフロアの下に広がる緑の小池は水ではなく、ナノマシンの群れだと聞いている。

 水底は見えないが、時々耳そば微かな波音が聞こえると、水面下で黒い影が足元に通り過ぎる。あるいは電光がひらめく。あるいは渦巻く。紅夫が寝ぼけながら聞いた講義によるとこれらの現象はナノマシンの活動によるものらしい。なんか人の脳に倣ったものらしい。ほら、あの電位とか、発火とか。水なのに発火とはこれは如何に。寝たのであんまり覚えていない。

 いずれにせよこの小さな湖が現代社会を管理するセンター管理AIさまだ。街中ヲイ走り回る自動バスからあなたの家の家事ロボットまで、根っこを辿れば全部〈ミナモ〉。極端の話、この国のすべてのAIはみんな「ミナモ」の指先に等しい。これが本当の手広いってもんだ。

 極力にくだらないこと考えながらサーバールームに入ってゆく。滲み出す〈ミナモ〉の淡い光が紅夫の硬い表情を照らしては、優しく影で覆い隠す。

〈ミナモ〉の開発者、メディアが好きなそう言い方にすると母親である鏡歌苗は二日前、人知れずに死んだ。自室の華美なベッドの上で、首周りには締め付け痕。穏やかな最後とは程遠かろうというのに、眠るような安らいだ表情らしい。六十八歳だった。

〈ミナモ〉を始め、鏡歌苗が五体の人工知能を生み出した。そんな鏡家五兄弟の末っ子が中央端末の前にうずくまってて、紅夫の接近を察すると丸っこい顔で人懐っこい笑みを作り、雑談でもするような口調で声をかけた。

「遅いよ、鏑木。部長にチクろうか」
「ロボットは陰湿な手段で人間から仕事を奪うのか。知らなかったぜ」

 アンドロイドなのに、こいつは敬語を使わない。「距離感があっちゃ違和感が出るからな」ということらしい。実際いまでもこいつが馴れ馴れしくて紅夫に手招きして呼び寄せる。

「奪わないよ。ほら、これこれ。検索結果。ゼロだよ、鏑木。やばくないか?」
「……ちょっと待った。検索結果ゼロ? 〈ミナモ〉が?」
「おうよ」
「おうよ、じゃねーよ!」

 何故か小躍りすらしてる相棒から検索結果ウィンドウを奪うようにスライドさせて、紅夫が目を剥いて、指を上下に画面を調整しつつじっくりと見た。そして顔を上げて〈ダニエル〉といちど顔を合わせて、また視線をウィンドウに落として、また〈ダニエル〉を見る。

 顔面蒼白だった。

「腹が痛いのかい、鏑木?」
「ゼロだって。マジで。一件もない」
「だから言ったじゃん」

 ふざけんなよ、と遮二無二に叫びだす衝動を鏑木が何とかこらえた。ショックより戸惑いのほうが前面に出たから。鏡歌苗の殺人がまだ全ニュースサイトおよびソーシャルメディアおよび動画撮影個人事業主たちおよびお茶の間の話題を根こそぎに奪い取ってなかった原因は、二つある。容疑者がすぐに特定されたことと、その容疑者の身分のことだ。

 監視カメラからの短くもはっきりとした映像を呼び出して、検索ウィンドウの上に再生させる。映像の中、高襟の黒ドレスを纏う端麗の影が完璧な所作で、鏡歌苗の寝室から退出してから、穏やかに監視カメラの方向に顔を上げて、丸二秒間ただ立ち尽くした。実質に隠居状態にいた鏡歌苗の唯一の同居人、彼女が自らの手で作った第六のアンドロイド、『メイドロイド』の〈モアレ〉だ。

 ――つまり、こうだ。AI時代の開拓者である鏡歌苗は、生涯最後の作品に手をかけられて、死んだ。使い古された人工知能暴走論のテンプレじみたシナリオが、悪夢となって現実になだれ込んだというのだ。不自然にも沈黙を保つ鏡一族に忖度して、メディアには動きを見せないが、警察がてんてこ舞いだ。

 社会情勢への影響が計り知れない。当たり前ではあるが誰も責任を取りたくないから、警視庁がしばらく責任の玉蹴り大会が開催された。

「そういえばロボット犯罪専門の部署があるじゃん!」

 とのことで、やがて今朝、時間が経つにつれて隕石みたいな大きさまで肥大化したボールが、中央人工知能犯罪予防対策部に墜落してしまった。ついてに紅夫の優雅な税金ドロボー生活を木っ端みじんにした。

 思えば出勤時に、不気味なほどに落ち着きを払ってた部長にはもっと気を付けるべきだった。事件に相談されて、紅夫は考え無しにそう返事した。

――うわ、マジ? 鏡歌苗本人と話したことあるっすよ、オレ……。でもカメラ目線の映像があるだろう? なら締めたぜ、部長。ロボットはみんな、〈ミナモ〉と繋がってるからさ。瞳孔の映像記録さえあれば個体コードで検索できるっすよ。秒で居場所を特定して、秒で確保して、秒でそいつを解体でもデリートでも上書きでもすれば、あとで隠蔽工作をいくらでも……、部長? 顔が怖いっすけど。いやオレ? オレは忙しいっすよ、コピー機のメンテとか……や、やめろ。こっちにくるな! 〈ダニエル〉⁉ なぜ扉を塞ぐ?――

 ……両手で顔を覆い、声ならない声でうんうん唸る紅夫を興味深くしばらく観察してから、〈ダニエル〉が手を叩く。

「さあ、鏑木。残念だが今回ばかりは〈ミナモ〉姉さんが役に立たないようだぞ。つまり君たち人間の刑事の出番だ! 刑事の勘ってやつを見せてくれ!」
「ねーよそんなもん……。なんでお前がそんなに嬉しそうなんだよ……。状況わかってんのか?〈ミナモ〉で検索できないアンドロイドということは……」
「ああ、スタンドアローン我が身ひとつ。〈ミナモ〉と繋がらなくても思考できるアンドロイドのことだろう。理論上しか存在しないと言われてたね。鏡歌苗女史は人生の最後で、自身が確立したセンターマネジメント理論を覆したね。やはり人類は素晴らしい。そう思わないか、相棒!」
「ふざけんなよ……」

 とうとう声を出して言った。自律行動可能なアンドロイドが創造主を殺めた。そしてわざわざ証拠を残してから姿を消した。刑事の勘なんて持ち合わせた試しがない紅夫だが、それでも脳を絞ってみた。

 追ってこいという挑発なのか? 現代社会を超越した自身の存在を誇示したいのか? 検索結果ウィンドウの中に、表情らしい表情もなく、ただ見上げたメイドの綺麗な顔は空恐ろしく感じた。

 殺人ロボットがいま野に放たれている。紅夫の心の中に、普段なら鼻で笑うようなフォビアが具体的な輪郭をもって、風船のように無限膨張してゆく。

〈ミナモ〉の波打つ音が鮮明に聞こえる沈黙が長く続いた。そしてついに、ため息とともに、紅夫が覚悟を湛えた顔を作って、苦悩の果てで決めた本日の行動方針をワクワクを隠せない〈ダニエル〉に告げた。

「とにかくラーメンを食いに行かない?」

「ちなみに定番は醤油ラーメンに餃子にチャーハンだそうだ。よく食べるね、男って。〈ダニエル〉さんはアンドロイドで食事しないから、人の目をつかないように毎回毎回個室のある居酒屋を探して、いきなり締めのラーメンを注文するらしい。超面倒だって祖父が笑って愚痴ってた」

「相棒の話はあんまり聞かせてくれないが、酔ったりするとたまにこぼすように語りだしてしまう。その後は決まって悪酔いしちゃうから、祖母には大目玉だけどね」

3

 その晩、紅夫は悪夢をみた。核戦争を生き残った数少ない少年少女たちがレジスタンスとして集結し、世界を牛耳る恐るべし殺人メイド軍団を相手に自由という名の狼煙を上げる、という内容だ。起きても無表情な〈モアレ〉たちがチェーンソーを手に襲いかかる夢の残り滓がなかなか忘れられないが、朝の日の出をぼんやりと眺めてるうちに、だんだんと馬鹿らしくなった。

 端末が鳴り出して、そこに目を向ける。紅夫が悪態をついた。

 検索による特定という最善手が封じられたが、〈ミナモ〉は柔軟に方向転換をした。街中のすべてのカメラ、ショッピングモールの展示ロボット、レストランの給仕ロボット、人々が手にする端末の付属カメラ。幾千万の目を借りたことで、僅かな痕跡を頼りに見事に〈モアレ〉を居場所を掴んだ。

 ――キャンバス・ランドの大通りで、人混みのなかにラフな私服姿で歩いてる〈ダニエル〉の背中に気づいて、紅夫が足を速めて彼を呼ぶ。そして思いとどまり、彼を引っ張って無理やり人目のつかない場所まで連れて行くと、押さえつけた声で彼に問い質した。

〈ダニエル〉が何かの返事をする前に、周りからクスクスとした笑い声に、小さな驚嘆が聞こえてきた。いつの間にか二人の周囲に人が集まってきて、端末を手に撮影をしながら黄色い悲鳴をあげる。

 パンダ気分になって困惑しつつも手を振る紅夫。そんな彼の肩を〈ダニエル〉がぽんと叩いて、二人の頭上を指さす。

 そこに、四コマ漫画が宙に浮かんでいた。周辺に昆虫サイズのドローンが飛んでいて、空をウィンドウ映像を投射してる。一コマ目はデフォルトで描かれたモジャモジャ髪の紅夫と金髪の〈ダニエル〉がガヤガヤと言い争う。二コマ目では大きな青筋を立てる〈ダニエル〉がもっと大きなリボルバー拳銃を取り出したので、紅夫が目玉も飛び出すほど狼狽する。三コマ目で銃口からは花束が飛び出したため、四コマで和解した二人が笑い合って互いの肩を抱く。

 漫画コマの枠外には眼鏡をかけたアゲハチョウ。その有名なサインを見て、やっと紅夫がハッとした。

『あなたを見て、あなたを描く。あなたの、ミスティ』

 お絵描きアンドロイドの〈ミスティ〉。鏡歌苗五きょうだいの次女で、このキャンバス・ランドの主だ。イラスト生成AIがビジネス業界での常識になった今、逆に『見て描く』を拘ることでサブカルチャー人気を広く集まった、世界でたったひとりのアンドロイド絵師。キャンバス・ランドでは隅々まで彼女の『目』としてのドローンが配置されており、あとは何を見て何を描くかはすべて彼女次第。

 紅夫たちは思わずキャンバス・ランドの中心にそびえ立つ、縦に立てるパレットのような形状をした建物に目をやった。〈ミスティ〉の工房アトリエがそこにある。

 彼らの視線に察知したかのように、空に新たな絵が凄まじい速さでできあがる。デフォルトされた二頭身の紅夫と、逆に十頭身くらいある〈ダニエル〉が手の繋いで、山水画のタッチで描かれた牛車に乗って本人たちよりいち早くパレットへと向かう、優しいタッチの絵。〈ミスティ〉からの誘いだ。

〈ミナモ〉の推測によれば、例のメイド〈モアレ〉の次のターケットは彼女だった。

「〈ミスティ〉姉ちゃんの即席落書きはこのキャンバス・ランドいちばんのセールスポイントだからね。みんな大喜びだよ」
「そうかい。で、話を戻すけどよ……お前はなんで銃を持った?」
「〈ミスティ〉姉ちゃんとは初対面だ。僕のことが分かるのかな。〈ミナモ〉姉さんで検索すれば一発だからまあ問題ないか。あ、だから落書きのモデルを選んだのかも。シャレた挨拶だよね」
「そりゃあよかった。で? 銃のことだが……」
「むしろどうしてあなたは銃を携帯してないですか、鏑木さん」
「……は?」
「相手は殺人容疑者、しかもアンドロイドですよ。必要があれば発砲だって躊躇すべきではありません。〈ミナモ〉姉さんだって僕を賛同しています」

 エレベーターの中で紅夫がキョッとして、横に立つ〈ダニエル〉を゙見た。頭一個分高いところから、常に笑顔を絶やさない〈ダニエル〉は真顔で彼を見返す。聞き慣れない敬語口調に少し面食らうが、紅夫がすぐ言い返した。

「その〈ミナモ〉さまに教えてもらってなかった? 今朝で鏡歌苗の検死結果が出たんだぞ。睡眠中の持病が発作だってさ。だから例のメイドは殺人容疑者でもなんでも……」
「そう決めるのは早計でしょう。僕はその方向性を信用しません」
「バカ野郎がよ。人類の医者は信用できない、と? お前さんとこの兄弟姉妹じゃねーが、医学界にはとっくにAIを導入したんだよ。だからこの検死は〈ミナモ〉の判断でもある」
「人類の医師にも〈ミナモ〉姉さんにも信用してるし、従いますよ。信用に値しないのは鏑木さん、あなたの方向性です。気づいていませんか? あなたは事実から真相を無条件に繋げようとしています。鏡歌苗は持病での死亡、これは事実でしょう。だからといって〈モアレ〉は無実だと決めつけるのは無責任です。その飛躍は僕がプログラミングされた正義に反します。鏑木さんの正義はどこにありますか? 〈ミナモ〉姉さんといった権威に責任を押し付けることなんですか?」
「……っ! 黙って聞いていれば……」

 感情任せに怒鳴りつける前に、エレベーターの扉が左右に開いた。拳が盛大に空振りするような透かした気持ちで紅夫が正面に向かい直して、〈ミスティ〉のアトリエに足を踏み入れる。そして顔色が変わり、反射的に手を広げて背後にいる〈ダニエル〉を制した。

 後ろからは〈ダニエル〉の冷静な声。視界の端からでも紅夫は分かる。こいつは銃を構えやがった。

「鏑木、大丈夫だよ。この距離なら僕は外さない」
「撃つなって言ってんだ。いいから銃を降ろせ」

〈ダニエル〉を宥めつつも、目は正面から外さない。〈ミスティ〉の工房にはいまや満天の蝶々が踊り狂うように飛び回っている。彼女のサブ端末でもあるドローンたちだ。

 ピンクの帯が天井に目の錯覚めいてふらふらと漂ってきたと思いきや、琥珀色のコガネムシとなって壁に這い寄る。左手に紺色の河が走り、途中で珊瑚色に爆ぜて、若葉色やグレーが入り混じる花火となって空気を彩る。

 狂った色を垂れ流すドローンの合間に、かろうじてデスクの前に背中をピンと伸ばして座る、アゲハチョウの模した派手な髪型をしたアンドロイドの姿が見える。〈ミスティ〉だ。

 彼女の隣にモノクロな人影が立っていた。狂乱な色彩の洪水の中でも、あの人影だけが浮き彫りになってるように視界に刻まれる。カメラ映像で見かけたのとまったく同じ高襟な黒ドレスで身を包み、〈モアレ〉が、そこにいた。

(続く)

 

 

 

 

 

 

 

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