【二次創作小説】ヒップ・プッシュ・ニンジャ・ダウン!
※ニンジャスレイヤーの二次創作小説です。
1 『アットウマルはシコをしたい』
「ンフフ」
アットウマルのでかい影にすっぽり覆われて、女は優しく笑いかけた。
「シないの? アカチャン……」
汚れた畳に一切気にすることなく、艶やかに微笑む女。今朝、ノック音を聞いて扉を開けると、いつの間にかネコめいたアットウマルの部屋に入り込み、いつの間にかネコめいてアットウマルの前に優雅に寝転がる。夢か幻か高額なオイランドロイドデリバリーか、そんな信じられないぐらいに美しい女。
陶磁器のめいた両膝に手で魅惑的に撫でると、「じゃんじゃーん」と、足を左右へ開いた。アットウマルが自分の荒い息を呑む音と、際限なく加速していく心音を呆然と聞いていた。彼がとうとう耐え切れずに前かがみになって、日々の張り手稽古で荒れきった手を女の足に伸ばした。
そして触って、揉んで、軽く叩いたあと、感極まったアットウマルは急に立ち上がり、狭い部屋で辛うじて数歩後ずさると、女にドゲザをした。
「アネゴ! オイラを弟子にしてください!」、と、誠心誠意を持って声を張り上げた。
「アカチャン、オッキクネ……、って、え?」
女の笑顔がわずかの間、困惑に凍える。すぐに調子を取り戻して、足を伸ばして目の前にいる男を誘惑した。だがそんな彼女の踵を丁重に受け止めるアットウマルの両目には、真剣な感動で湛えている。
「なんたる鍛えに鍛え磨きに磨かれて来る日も来る日も百を千を余裕で超える想像すらできないシコ・トレニングがなければ決して得られる素晴らしい足! 皮膚の下には鋼のような筋肉がパンパン詰まっている! 触れてみれば分かりますぅ!」
「あー、えっとですね、お客様」
空気に飲まれたのか、女が足を閉じて、正座姿勢となった。
「オイラ、アットウマルと申しますぅ! スモトリだったんですぅ!」
「はあ」女の猫撫で声と完璧な曲線に仕上げていた眉が不意に垂れ落ちて、即座にまた吊り上げた。「わあー、さすがー!」
「ですがすぐにやめました! オイラはちゃんこが苦手だからですぅ!」
「知らなかったー!」
「おいしい鍋だと聞いて部屋に入ったのに、台所から出したのはいかがわしい白い粉で……オイラ怖くなって夜逃げしたのですぅ! シコ一回も踏まずに!」
「すっごーい!」
額を床に擦りつけて、涙声で語るアットウマルを尻目に、女がジャケットのポケットからIRC端末を取り出して弄りだした。
「オイラ逃げだのですぅ! 大相撲から……シコから! それからは弱虫呼ばわりされて、この団地の住民たちにムラハチされて、パシリに使われて……」
「センスがいいー」
「でもオイラはそんな自分がもう嫌ですぅ! 変わりたいですぅ! 今回の大会を機に、もう一回ちゃんとシコを踏んで、やり直したいですぅ……。だから素晴らしき足のアネゴ! オイラをどうか弟子に……」
「そうなんだー。ってかもういい?」
溜め息をして、女は端末をポケットに突っ込んで、地声で吐き捨てた。
「知らねーっつの。シコりたいなら勝手にシコってろ。ヤることヤるつもりはねぇってことでいいな? じゃあ帰るぞ、オレぁ。ったく」
「そんなぁ……待ってくださいよ、アネゴ!」
身を起こす女を引き留めようとアットウマルが彼女の手を掴んで、女は反射的に手を引いた。そして、「アイエエ!?」
アットウマルが思いっきり前へつんのめって、女の懐に飛び込む形になった。圧倒的な体格差にも関わらず、女が押しつぶされるどころか、一歩も動かなかった。「……アイエエ……ナンデ……?」「ちっ」戸惑いつつも身を引いたアットウマルに、舌を打つ女。アットウマルの手を振り払うと、女がいったん両眼に指を当てる仕草をしてから、彼の脇を抜けて部屋から出た。
◆◇◆
「待ってくださいよ、素晴らしき足のアネゴ! いまの踏ん張りもシコ・トレニングの成果なんですかぁ! すごすぎるですぅ! 人離れですぅ!」
「しつこい」
部屋から出て、低層マンションの廊下でアットウマルが女を追う。先鋭的なケイブル・マントで身を包む彼女の早足に舌を巻く。思わずマワシ姿のまま出てきた自分がほとんど裸だった。横目からは、まるで愛想の尽きた劇場支配人に縋り付く憐れな子象に見えるだろう。
ときは朝。ネオサイタマの曇り空が明るくなるにつれて、周辺のおどろおどろしい超高層商業ビルに囲まれるこのちっぽけな団地は影に飲み込まれていく。十数年前の国家崩壊騒ぎのさなかで、奇跡的に利権の混乱により開発計画から外されたのが、この土俵めいた丸い形をする住宅団地。
神がきまぐれに指を大地に押し込んで、凹んだ穴を作り出したかのようだった。住民たちは再開発に怯え、息を潜めて十数年。いつしかスリーパー団地と呼ばれるようになった。
アットウマルをもはや相手にせず、女は階段口に至って、ちらっと団地中央の広場を一瞥すると、何を思うか足を止めた。隆起する土の丘が人の手によって広い四角形に整えられて、その真中にしめ縄の円が置かれていた。広場のあちこちに宣伝用と思しきネオン・フラグが立っている。
『ネオサイタマ東区相撲大会会場建設地』
『月末な』
『勝手に入っちゃあいけないと思う』
『元横綱・圧倒丸も参戦するぞ』
『キミも今日からストリートのスモウ・チャンピョン』
女が近づいてくるアットウマルと、ネオン・フラグを相互に見てやった。眉一つ動かなかった。アットウマルのほうは、後ろめたい半分、恥ずかしい半分な表情で苦笑する。
「なんか知らないうちにこんなことになったんですぅ。笑っていいですよぉ」
「……知らねーっつってんだろ」
「オイラさ、ここ生まれここ育ちなんですぅ」
語るねー、と女が長い息を吐く。そしてまたIRC端末を取り出すが、階段を降りようとはしなかった。アットウマルは、彼女にではなく誰かがに言ってるように、言葉を継いだ。
「でもここさ、暗いでしょう? みんないつも何かに怯えてて、俯いて生活してるのですぅ。そのうちに団地が周りの企業に買収されて、みんな追い出される……みたいな。だからオイラは考えたんですぅ。スリーパー団地にヨコヅナが生まれたとしたら、ビッグニュースじゃないですかぁ! ヒーローがいればさ、悪いやつを張り倒して……」
「はーい、時間切れでーす。ご愛顧ありがとうございましたー」
ピピピ、と鳴り止まないIRC端末を見せたあと、女は今度こそ手を振って階段を下りて行った。呆気を取られて、アットウマルは彼女の背中をしばらくぼーっと見つめた。そして口を開いては、言葉が見つかれず、嘆息し、やがて肩を落として、部屋に戻ろうと踵を返した。
アットウマルは、女の名前も連絡方法も知らなかった。そもそもなぜ彼女は今朝、自宅にやってきたのも分からない。奇跡的なめぐり合わせだろうか。なにもかもが不可解だけど、自分が再びチャンスを棒に振ったことだけは、誰よりも理解していた。しょんぼりしたカバのように、彼が項垂れる。
その時だった。階段の踊り場から、シャッキとした罵声が団地を響き渡ったのは。
「……あーもー! こういうときは最後まで追ってこいや、根性なしが!」
「……っ! は、はい! お、オイラを弟子にしてくださいよ、素晴らしき足のアネゴー!」
「何じゃそりゃ! ツバキさまって呼ばんか!」
階段から凄まじい足音で転がり落ちるアットウマルの震える贅肉に、ツバキと名乗る女が容赦なく罵り、そして噴き出した。
◇◆◇
カタナ社ネオサイタマ支部下流企業・セッタイトクイ社の一室。
『……どういうことかね、キミ?』
「は、はい! 絶対にあってはならないことです! 絶対にまったく!」
セッタイトクイ社社長のカマイが九十度を遥かに超える危険角度で会釈し、受話器向こうのカタナ社ネオサイタマ支部末端スタッフに泣きながら謝罪していた。横のパソコンで、『元ヨコヅナ、相撲大会に参戦する件について』の動画がリピート再生している。
『安いから辺鄙な会場、まあいいでしょう。安いから買収するのは地方団体のスモトリ、まあそれもいいでしょう。しかし元ヨコヅナが参戦? 貴方セッタイわかる? 怪我させるつもり? うちの重役を? んん?』
「決して万が一億が一でもそんなこと微塵もございません!」
『解決しなさい』カタナ社末端サラリーマンが冷酷に言い放った。『さもなければ次は電話ではなく、カタナ・オブ・リバプール社の企業戦士が御社を尋ねることになるのでしょう』
「絶対的に決断的にかしこまりました!」カマイ社長が電話が切られたあとも三回最敬礼をし、受話器を下ろした。そして背筋をピンと伸ばすと、振り返る勢いで、彼の背後に正座するセッタイトクイ社職員の顔を蹴っ飛ばした。ネオサイタマ東区相撲大会の民間人参加受付の担当者だ。
「グワーッ!」
「できる限り速やかにアサシンを探せ。安上がりで、腕が確かなやつを。今回の相撲大会は客先の重役が気持ちよく勝たせるためのセッティングプレイだ。不確定要素は一切いらない」
無機質にカマイが言った。返事を待たずに、横たわる担当者職員の腹を踏みつけて、彼はオフィスをあとにした。
2 『テンドウ・つるお、ぎりぎりインフレイム』
知る人ぞ知る動画配信者テンドウ・つるおは薄暗い自室の中で両拳を掲げて歓声を上げていた。彼が先日アップした動画『元ヨコヅナ VS ネオサイタマの獅子』の再生数が四桁を越えて、つまり彼のいままでの自己ベストを三百倍も更新したのだ。
「あのデブがケモチャンを撫でるだけのクソ動画がこんなにも……」
つるおが回転椅子の上に膝を抱いて、興奮を身に任せて高速スピンした。どうの配信者も夢見る、大ブレイク。これでは遠い遠い憧憬だと思われていた収益化だってもう手が届く距離に……。
――夢見心地でふわふわでぽかぽかの、五分後。その後、つるおはケモビール社からの丁寧なメッセージをざっと読んで、椅子から落ちてからもう一回しっかりと読んで、さらに頭を抱えて床で転び回ったあと、該当動画を心が引き裂かれる思いで削除した。我が身を焼け尽くす火の粉を振り払っただけだ。彼はそう自分に言い聞かせて、手の甲で目を擦る。
めげない。つるおは飛び上がり、こういうこともあろうかと用意していたプランBの成果を確かめに行った。『元ヨコヅナ VS オイランドロイド・デリバリー』……つまり腐れ縁のアットウマルの家に隠したカメラを回収するのだ。
言ってしまえば、アットウマルは手のかかる弟みたいなやつだ。ガキの頃から体が人一倍大きいが、つるおがいないと何もできない。だから兄貴分として彼に社会経験を積ませてやったのだ。
元ヨコヅナと称して通行人に祝儀袋をねだってみたり(ヤクザみたいなやつらが出てきたので一緒に逃げた)、アットウマルを張り倒して、元ヨコヅナの兄と自称して謝罪動画を出したり(スモトリ・リーグから罰金をほのめかすメールが来たので動画を削除した)、元ヨコヅナ名義で地下のレスリング団体の挑戦状を出したり(最後はヒグマ仮面のおっさんと仲良くなり、アットウマルは一緒にヤキニク食べに行ったが、カメラマンのつるおがスルーされた)……。「フン」つるおが鼻の下を指で擦り、遠い目になって広場を眺めた。
「は? え? ……ウッソ!?」
それで、見てしまったのだ。大恥をかくはずのアットウマルがグヘヘとニヤける顔で、瀟洒とした美女とともに手取り足取りで屈伸運動をしてる姿を。
◆◇◆
――十分後!
「だから違うっつってんだろが、デブ!」ツバキが罵った。ハリセンでアットウマルのお尻をパンっと叩いた。「このでけぇケツをもっと後ろに突き出せ!」
「ごっつぁんですぅ、ツバキさま親分!」アットウマルが精一杯に返事をした。太ももが棒のようだ!
「てめぇはいつまで寝てんだ、モヤシ!」ツバキがなおも罵った。ハリセンでグロッキー状態で倒れ込んでるつるおの頭をパンっと叩きつけた。「さっさと立ってスクワットしろ!」
「じょ、冗談じゃない……」つるおの反抗的な声は風前の灯めいていた。心臓がタップダンスのようだ!
「ぼ、僕は動画配信者で……スモトリじゃねぇぞ。なんで、僕まで……」
混濁として頭でつるおはこの十分間の怒濤な急展開を思い返す。アットウマルの部屋に隠しておいたカメラが記録した映像の中に、アットウマルがオイランドロイドにドゲザをしていた。その光景はどこからどう見ても悪質なツツモタセ・サギ! つるおが顔面蒼白となった。ドッキリのつもりでオイランドロイド・デリバリーを呼んだ自分のせいだ……!
そこからはよく覚えていなかった。広場に急行していたら、驚くほど顔がいい女にガンを飛ばされて、メンチを切られた。それでもつるおは己を奮い立たせて、動画配信者だと名乗る。
それはどうもよくなかったみたいだ。
「検索しても出ねぇぞ。どんだけ無名だよ」
「う、うるさいな! アンタはどうなのよ! 人間じゃん! オイランドロイドじゃなかったのかよ。サギだって訴えて……」
「あー、出たね。『元ヨコヅナ、相撲大会に参戦する件について』?」
「あ、いや、それは……」
そこからトントン拍子で事態が進み、アットウマル名義で大会を申し込んだこと、アットウマル名義でオイランドロイド・デリバリーを呼んだこと、アットウマル名義でネットショッピングしたことが次から次へとバレて、
「しょうもないザゴ野郎だ」女が軽蔑を口にし、つるおが涙目になり、アットウマルがハラハラした。やがて女は頭を掻いて、そう宣言した。
「お前もこっちでスクワットしてこい。根性を叩き直してやる!」
……今に至る。「わかんない! わかんないよ!」つるおが泣き叫んだ。両手を前に伸ばし、腰を落とす。声なき悲鳴を喚く両足! 全身が燃え上がるように熱い!
「分からなくていいですぅ! シコとはこういうものなんですぅ!」アットウマルは気合を入れた。後ろへと丸まった大きな臀部を突き出すたび、団地を覆わんとする影をも吹き飛ぶ風を巻き起こすようだった。
「シコじゃなくてスクワットだけどな。よくわかんないけど、どうせ似たようなもんだろう」小声でツバキが呟く。片手はハリセンでもう片手はIRC端末。有料三時間コースが終わる次第すぐにでも帰るつもりだ。
ヤることヤらなくても金が手に入る楽な仕事。彼女は格の違いを見せつける空気椅子を決めて、アットウマルのキラキラとした眼差しと、つるおの恐怖満ち溢れる目線を楽しんだ。
――「弱腰か、デブ! てめぇの敵は逃げてばかりの過去のてめぇ自身だ! そのでけぇケツで過去を突き落とせ!」
――「ごっつぁんですぅ! ツバキさま親分!」
――「貧弱か、モヤシ! ビッグになりたいんだろ! 周りの高いビルが怖いか! じゃあケツで恐怖を突き落とせ!」
――「だから意味わかんないっすよー!」
時が流れる。
ガヤガヤと騒ぐ三人の姿が、声が、噴き出す汗の匂いが、団地に広がり、じわじわと染み付けた。石の下の虫めいた団地住人たちの視線が三人に集まり、できあがりつつある土俵とともに、ある種の熱めいたものがスリッパー団地の底に静かに燻り始めた。
大会まで、あと二週間。
◇◆◇
「報酬なら、あなたの前の仕事の二倍を出そう。先払いしてもいいぞ。お前のような野良相手でも寛大なんだ、我が社は」
包帯で顔を覆うサラリーマンが尊大に言ったが、彼の声がくたびれたドージョーの暗がりから木霊するだけだった。ジンジンと痛む顎を指で支えつつも、サラリーマンが軽蔑な目線でドージョーの壁に飾ったたった一つだけの名札プレートを見る。
「……そろそろいいよね。私はこれで。何があったら追って連絡するよ、スワッロー=サン。元ヨコヅナ暗殺、頼みますよ」
大げさなチンピラだ。大して実績もないくせに。サラリーマンがわざとらしく咳払いをするつもりだったが、顎の傷が響いて、中途半端なうめき声となった。うめき声が闇の中で絶叫になるまで、そう時間がかからなかった。
……二時間後、セッタイトクイ社社長はスワッローのドージョーに訪ねた。報酬額をさらに十倍と引き上げて、さらに担当者サラリーマンの全指ケジメと契約を修正し、両方合意に至った。
闇の中で微笑むスワッローと握手を交わして、カマイ社長は無機質な表情を崩さず、しめやかに失禁した。
3 『ツバキは振り向かない』
今日の愛しいヒトとキスグッバイをした。名残惜しげに絡めてくる指を押しのけて、扉を閉じるギリギリまで笑いかけて、「また呼んでね、アカチャン。だーいすき」と別れをつけたあと、ツバキが高級マンションを後にして街に出た。
灰の天蓋に、七彩のネオンライト。ネオサイタマの色彩が全方位から雪崩れ込む。『五万円—、もっと私をカワイイにしてみせるー』……古い曲が流れる中、ツバキが雑踏に紛れる。
IRC端末を手鏡代わりに、両眼のレンズがちゃんとつけてるかを改めて確認した。バカバカしい癖だが、やめられない。『五万円—、貴方もそれで』「楽しい気持ちでしょうー」彼女は曲を口ずさんだ。
行き先はタマリバーほとり公園だ。仕事の予約がないときは、彼女はだいだいこの公園で待機をしている。電脳都市ネオサイタマには珍しく緑豊かなところで、ここにいる市民はみんな健全で心穏やか。
何よりここには仲間がいる。「イヤーッ!」「ハイヤーッ!」「ハイハイッ!」公園の一角で、木人に鋭い打撃を打ち込むの美しい娘がいた。激しく振り乱すオレンジ色の髪、流れるようにしなる手足の冴え。遠くから、ツバキはそんな彼女の、瞳の奥にいる胡蝶の羽ばたきを見つめた。
眩しいと思った。
カラテ娘がこっちを気付いて、大きく手を振った。
「ツバキ=サン! おはようございます! 仕事帰りですか?」
「おう。そんなところ。最近は指名が減ったんだよ。可哀想なオレを助けてくれよ、コトブキちゃん。スケベいるだろう、アンタんとこ」
「子供もいるのでダメです。弱音吐くなんてらしくないですよ。いまはヨコヅナの先生になってるんでしょ」
「ただのそこらへんにいるデブなんだよ、あんなの」
IRC端末が鳴った。コトブキに会釈して、端末に目をやる。「……は?」噂をうすれば、だ。
「ほら、さっそく仕事来たじゃないですか」屈託なくコトブキが笑った。「何があったら連絡してくださいね! 駆けつけますから!」
「オレの仕事場にアンタは来んなよ、バーカ」
公園を離れる。自分の足取りは心なしに軽くなったことにツバキは複雑な気分になり、愛しくもクソのない男どもが待つ団地へと向かった。
大会は明日だ。
◆◇◆
スリーパー団地での焼肉パーティーは夜深くまで続いた。「大会前で打ち上げするアホがどこにいる」とツバキが呆れるが、「打ち上げじゃなくて感謝の会ですぅよ、ツバキくん」とアットウマルの母親は譲れなかった。
スクワット・シコ鍛錬クラスのメンバー総数十三人が顔揃いだ。いつの間にかすごい数になった。スクワットしてたら、高血圧が改善したと自慢気味でつるおの親父が報告しにくる。隣マンションのタケナワ一家が事あるたびにツバキと空気椅子耐久勝負を挑む。マンション管理人のサナダのばあちゃんはクラスのみんなのために麦茶を常備してる。
仕上げていた土俵の横で、子どもたちに囲まれるアットウマルはシコ・アピールをする。揺るぎなく、堂々とした様だ。篝火に照らされる丸まった顔に、積み上げた自信が輝いていた。
「一番弟子の大一番です。どうか意気こみを!」
ツバキは嘔吐物を見る眼で横にあるカメラを睨む。「一回戦で電車道ボロ負けだ。一カ月だけで何が変わるってんだ」
「そんなはずはない!」つるおが激昂した。「アットウマルは頑張った。俺たちに勇気をくれた! 彼はでかいケツで俺たちの心に潜む不安と恐怖を崖の下に突き落としたのだ!」
「お前が考えた台本マジでダサいぞ。これだから再生数増えないんだよ」
「う、うぐ……」つるおが胸を抑える。「ツバキ先生は恐れるものがないからそんなに冷たくいられるんだよ」
ツバキは答えない。頭上でゆっくりと漂う、割れた月をちらっと見上げて、何もかも言おうかと考えた。月破砕する瞬間のことを。自分の中に目覚める、猛然とはっきりと輪郭を帯びた自我を持て余すことを。意識の裏側に常に存在する、途方もない巨大な何かのことを。
飲み込まれる恐怖を、ここにいるやつらと共有してきたことを。「……お前みたいなモヤシとは作りが違うんだよ」彼女が呟いて、焼き網にある最後の一個の成形肉スシに手を伸ばしたが、取られた。
音を立てて、スシを咀嚼する黒ずくめの男に、ツバキとつるおが呆気を取られた。バイオバンブ編みの笠を着る初老の男だ。よく見たら片足で蹲っていて、もう片方の足は不敵な足組み姿勢。スシを食べて、男は指を舐めると、メンポをはめた。冷めきった男の眼と合った瞬間、ツバキがつるおを押しのけて、拳を構える。
「で?」
そして瞬きのあと、片腕が折られた。飛び散るパーツ。丸裸にされるケーブル。なおも逃げろと叫ぶツバキのそばで、棒立ちになったつるおのカメラに向けて、男がウィンクをした。
「元ヨコヅナってのはどいつ?」
4 『十年待ちのスワッロー』
「まずはそうだな、おじさんのことを勘違いしないでほしい」
スワッローと名乗った男はカメラ目線で言った。ほぼ同時に、彼が右手で円を描き、アットウマルの張り手を軽々しくいなしたあと、「はいよっと!」左の掌底打ちを繰り出して、アットウマルの巨体を空中一回転させてから土俵に叩き付けた。「アバーッ!?」
何も起こらなかったなかったように、スワッローが続いた。
「おじさんだって相撲が好きだったよ。大好き。カメラ坊やみたいな若い子は知らないけどさ、昔はな、最強無敵なヨコヅナがいたんだよ。ゴッドハンド! ありゃ強かったな。ニンジャより強いだろうぜ、きっと」
土俵の横で、つるおが泣きながらカメラで彼を当たっている。失禁が止まらない。ほかの住民たちが一目散で逃げたが、スワッローは彼ら三人以外気にもとめない。
「おじさんはプロだから、そっちから手を出さなければ、ターゲット以外を殺さないよ。そうびびるな」スワッローがつるおを宥めた。
「その代わりにちゃんと撮るんだぞ。『元ヨコヅナ、ニンジャ・タツジンに負ける』……ンンー、ドージョーのいい宣伝になる……女の子はやめてよ」
振り向きもせず、死角から襲いかかったツバキの首をスワッローが掴んで、持ち上げた。「ンアーッ!」ツバキは残った右手でナイフを振り回すが、届きそうもない。傷つく顔を作るスワッロー。
「ロボットでもな!」喉笛を掴むまま、彼がツバキを土俵に叩きつける。「ンアーッ!」「女の子にはな!」叩き付ける!「ンアーッ!」「優しくしたいんだよ!」……叩き付ける!「ビガガーッ」ツバキが沈黙した。
「フー……。えっと、どこまで話してたっけ? そうそう、ゴッドハンド。ゴッドハンドはな、毎日十時間をシコを踏んで、十時間ちゃんこ鍋を食べ続けて、さらに十時間ひたすら眠るんって話だぜ。強いわけだ。おじさん、途中で頑張るのやめちゃったからさ……」
眼を眺めて、スワッローしばらく無言となり、割れた月を見やった。
彼の足元で、倒れたアットウマルの眼がかっと見開いた。「……一日は二十四時間ですぅ!」起き上がり、巨体でスワッローを押しつぶそうとする。「ノリいいね、デブちゃん!」晴れやかに大笑いするスワッロー。拳骨を顔に叩き込む。
「アバーッ!」「君はどうだい、デブちゃん?」倒れさせまいと大銀杏を掴んで、頭突き!「アバーッ!」顔面粉砕!「シコ踏んてる? イヤーッ!」「アバーッ!」血しぶき!
「――おい! こっちを見ろ、ニンジャ野郎!」「あん?」
裏返るつるおの声。彼の手に持つのは割れたIRC端末で、画面の上にはレスラーとのツーショットが表示されている。
「……はあ」「助けを呼んだんた! ひ、ヒグマ仮面とは知り合いなんだぞ、僕はぁ!」「あーいや、プロレスにはちょっと……」「今すぐ逃げるほうがいいんだぜ!」「わかった。わかった。あとはおじさん自分で撮るから、カメラ坊やはちょっと寝て、な?」
首をボキボキと鳴らせてスワッローがつるおに歩み寄った。にこにこ笑うその眼に、夜そのものよりも黒かった。「アイエエエ……アイエエエ……」逃げたい。カメラを放り投げて、逃げてもこのニンジャはきっと追わないだろう。ターゲットは元ヨコヅナで、名も無い、しょうもない、何者にもなれてない動画配信者じゃないから。
だが、「僕、兄貴分だからさぁ……」「――ドッソイ!」「……イヤーッ!」
悲鳴を上げるアットウマル。最後の力を振り絞って、背後からスワッローを抱きとめる彼だが、スワッローは瞬時に反応し、目も止まらぬ速さで左右の肘を突き、彼の鎖骨を粉砕破壊した。スワッローが残忍に笑い、するりとアットウマルの背後に回り、腕でアットウマルの首を締め上げる。そのまま絞め殺す気だ。
――ピピピピ。再起動プロセスを終えたツバキは、目を開けて、その光景を見た。この一ヶ月で散々やったように、彼女は今回声を張り上げて、アットウマルを叱り飛ばさなかった。代わりに、辛うじて動ける右手で、彼女はIRC端末を探り、唯一の仲間に緊急コールを出した。
アットウマルを罵る必要はなかった。彼にはもう、敵の在り処を知ったから。青ざめた顔で、アットウマルが腰を沈み、全身の重量を大地に、己の足に任せて、そして尻を後ろの憎き敵へと突き出した。
急ごしらえの一ヶ月間。されど日々確かに過ごした一ヶ月間の重みが、油断しきっていたスワッローの膝を圧倒しにかける。「……グワーッ!?」激痛でふらつくスワッロー。彼が思わず裸絞の手を緩めると、そこには一回転するアットウマルの張り手と、ヤバレカバレめいて飛びかかったつるおの拳が振り上げていた。
「やめて」ツバキが呻いた。「やめてくれ」スワッローの目に今夜はじめて、純粋とした殺意が湛えたのを目撃したから。スワッローの右手の袖が膨れ上がった。幾千幾万の風が孕むように、はちきれんばかりの風の音が団地で木霊する。
ツバキの端末から、声がした。『大丈夫ですか? いま、辿り着きました!』
「……何? イヤーッ!」ジツを取りやめ、スワッローが後ろへと三連バック転。その直後、コトブキが土俵に駆け上がり、力一杯の張り手を空振りしてそのまま気絶したアットウマルを支えて、彼にぶつかるつるおに声をかけた。彼女のオレンジの髪が月明かりを反射して、微光めいていた。その息絶えるほどの美しさに、ツバキは嗚咽をこらえるのがやっとだった。
一方、スワッローは感極まっていて、しばらく言葉も出なかった。二人は団地マンションの屋上にいた。割れた月を背に、彼と対峙するのは……。
「赤黒の! 死神!」
殺す者を前に、ニンジャは雄叫びした。
「十年遅かったじゃないか!」
◇◆◇
赤黒装束に、忍・殺文字が刻まれる恐るべしメンポ。――ニンジャスレイヤー。それこそがアマクダリ・セクトの最大な敵であり、かのスパルタカスをも殺めた者の名だ。
取るに足りないアクシスでしかないスワッローは当然ながら、スパルタカスと個人的な付き合いも、思い入れも、何なら面識すらなかった。だが、誰よりもカラテを優れていることを知っていた。しがないドージョーを縋り付く自分よりも遥かに。
その最強無敵なスパルタカスは、カラテで破られて、死んだ。羨ましかった。武人の死に方だ。アマクダリがネオサイタマを、世界を掌握しつつあり、スワッローの目にはすべてが虚無に映った。彼はいつしか、汚れ仕事の合間を縫ってカラテを鍛え直した。いつか死神と向かい合う日を備えて。
その日は来なかった。月が割り、アマクダリが崩れ去り、世界が様変わりした。目を背け続けたやり場のない虚無に、彼の心は飲み込まれた。……今日までは。
「ドーモ、初めまして。ニンジャスレイヤーです」
「ドーモ、初めまして、ニンジャスレイヤー=サン。……スワッローです」
言葉は不要だ。スワッローは飛び出した。十年間、カラテを疎かにした後悔。十年間、廃墟同然のドージョーに居座り続ける未練。十年間、死に損なって生きるのもままならない自分への憎悪。そのすべてをこの一撃にかけた。
「スワッロー・ジツ、イヤーッ!」
今度は両袖が同時に膨張した。袖口から覗いても中身は深い闇一色で、まるでスワッローの両腕と袖の間に虚無の腫瘍が急成長を成し遂げたかのように。その夜色の圧を彼はニンジャスレイヤーに押し付けた。
一方、ニンジャスレイヤーは……「イヤーッ!」飛んだ! 地面擦れ擦れの低姿勢かから前ジャンプを決めると、ニンジャスレイヤーは勢いに任せて縦回転し、空中回し蹴りで真正面からスワッローと衝突した。メンポの下、スワッローは手応えを感じ、口の端を吊り上げた。
ニンジャスレイヤーの回し蹴りはスワッローに届くことなく、勢いが袖に飲み込まれて消失した。むしろそれを吸収した如く、スワッローの装束が! 姿が! 一回り巨大化!
「おじさんはがっかりだぞ、死神! あのスパルタカス=サンを倒したカラテはこの程度か! ならば死ぬぞ、ニンジャスレイヤー=サン! 死ぬぞー!」
「誰の話をしてる」
ニンジャスレイヤーは、再回転して回し蹴りをもう一発!「イヤーッ!」「イヤーッ!」吸収!「イヤーッ!」「イヤーッ!」再蹴りを再吸収!「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「イヤーッ!」「……イヤーッ!」「……何だ、こいつ!」
ニンジャスレイヤーは止まらない。たった一回の跳躍で、彼が赤黒の暴風の化身めいて宙に無限回転を繰り広げて、無限に回し蹴りを見舞わした。すなわち暗黒カラテ、スピン・タツマキケンである!
「イイイイイイイイイヤヤヤヤヤヤヤヤーーーッ!」蹴る。蹴る。蹴る。蹴り続ける! ニンジャスレイヤーなるサイクロンを、スワッローが踏ん張ってこらえる。彼の顔には筋まみれになり、袖がもはやさっきの百倍まで極端膨張。二人のニンジャの間に危険極まりないカラテ・バランスがせめぎ合う。
土俵の上で、コトブキたちはそのすさまじいイクサを見守る。「赤い、ニンジャが勝ちますぅ……」アットウマルが囁いた。意識混濁の中でも、彼にはニンジャスレイヤーの跳躍をしっかりと見届けていた。「彼のシコは……素晴らしいですぅ……」
アットウマルの言葉が終えた、そのとき。「……グワーッ!?」耐えに耐え、とうとう限界を越えたスワッローの膝に、定時爆弾めいてふたたび激痛が走った。
その隙を見放すニンジャスレイヤーではない!「イヤーッ!」「グワーッ!」顔面に回し蹴りがクリーンヒット! そして当然これが終わりではない。カラテ・バランスが崩された。過負荷めいてスワッローの袖が爆発四散し、中に溜め込んだいままでのタツマキケンのカラテ・エネルギーが……すべて……スワッローに……!
スワッローは清々しく笑った。
「グワーッ! グワーッ! グワーッ! ググググググググワワワワワワワワーーッ! ヤ! ラ! レ! タ!」
ワイヤーアクションめいて屋上から土俵まで一直線。スワッローが蹴り飛ばされて、土俵に重々しく叩き付けられた。立ち上る砂塵のただ中に、ニンジャスレイヤーが駆けつけて、左手はカイシャク・チョップの構えだが、彼はまず周囲に視線を走らせた。
団地のあちこちから、住民たちがその様を注視した。ニンジャスレイヤーがアットウマルたちを見つめる。どうする、と、問いかけるように。長い沈黙のあと、つるおがカメラを下ろして、一歩前に出た。
「えー、えっとですね! とりあえず、まずは……」
上ずった声を張り上げる。
「しょ、勝者! ニンジャスレイヤー=サン!」
ニンジャスレイヤーは顔をしかめる。コトブキが笑いだして、アットウマルも痛みながら肩を震わせる。脱力するように、ツバキがその場を座り込んだ。彼ら全員に、団地は拍手と歓声を送った。
5 『エピローグ』
一週間後。
結論から言うと、当たり前だがアットウマルはストリート・ヨコヅナにはなれてなかった。そもそもあの大怪我だ。本人がいきなり意識を失って、次に目覚めたときには大会がとっくに終わった。意地を張るチャンスすらなかった。
「そこで、これだ。見ろ、マジで傑作」
ツバキがIRC端末をスライドして、病院ベッドに横になってるアットウマルに写真を見せた。そこに映ってるのはひょろっとした細った腰に、不釣り合いにもほどがある派手な綱を締めたつるおが、必死な顔をして肥え太った男性と土俵で組み合う姿だった。
アットウマルがなんとか笑顔を作った。顔に縫合痕が走る。喋ったり笑ったりすると痛いようで押し黙るしかない。
「モヤシがお前の名義で出たのさ。しかも一回戦でいきなりカタナ社の重役と当たった。向こうはセッタイだと踏んで気楽だろうけど、モヤシが変なやる気出しちゃってさ。組んでは逃げて、逃げては組んでの泥試合になり、最後は重役野郎が足を滑って土俵外に転び落ちた」
まあ、二回戦で怖い顔のガチ力士が出てきたもんで棄権したがな。ツバキが肩を竦めて、アットウマルが親指を立てみせた。つるおの奮闘を称えるつもりだろ。
大会自体は最終的に地方団体の力士たちの内輪勝負となって、そこそこ盛り上がって、そこそこな盛況で終わった。アットウマルに言わないのは、元ヨコヅナ騒ぎの一部始末。
アットウマルが意識を失って、病院に搬送したあと、スワッローが目を覚ました。
(おじさんが勘違いだって、依頼主に言い包めてくるよ。生かせてもらった礼さ)
彼には既に殺気がなく、ニンジャスレイヤーも腕を組んでコメントをしない。
(なあ、アンタ。十年前の死神とは別人だろう?)
(……だから?)
(睨むなよ、怖いから。……俺が十年鍛え直したら、アンタに勝てるかい?)
(無理だな。やりたければやれ)
……そんなこんなで、ニンジャたちが水面下で動いたおかげか、団地にあれ以来静けさを取り戻していた。ツバキの元には最新のサイバネ義肢カタログと、『ごめんな。好きに選んでいいから』と書いてるメモが届いたので、そうさせてもらった。
つるおはと言えば、最近町外れのカラテ・ドージョーの動画宣伝の依頼が入ったらしい。無名配信者にとってはまたとないチャンスだが、彼はその話題にあるたび沈痛とした面持ちになる。
アットウマルはベッドの上でツバキに手招きして、彼女に一封の手紙を渡した。
「んだよ、キモいんだけど。……ほほう」
地方プロレス団体の入団招待状だ。脳みそが悪の博士にいじられて、スモトリからレスラーに転落した哀れなレスリング・力士にならないか、と、ヒグマ仮面がアットウマルを誘う。
「受けるつもり? ヒーローじゃなくなるぞ」
「胸を、張れば、ヒーロー」
「カッコ付けやがって」
ツバキが立ち上がった。一応といった様子で手を振って、病室の扉に手をかける。別れを告げてないが、もう会えないことはアットウマルには分かった。
分かったうえで、言ってみた。
「今度は、オイラが、指名する」
パタン、と。扉が閉じた。門外からは、久しぶりな猫撫で声。
「……お待ちしますね、お客様」
【ヒップ・プッシュ・ニンジャ・ダウン!】終わり。ありがとうございました。
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