掌編練習②

外部リンク:小説お題ジェネレーター
こちらのサイトさまを利用して書いた掌編を数編まとめてみました。


No.2424視界
No.4460踊り場
No.1566きりたんぽ

 私たちが階段から降りていく。階段を一段一段とちゃんと踏み込んで、体重を任せていいと確認してからもう一方の足を踏み出す。そのたびに登山靴のしっかりとしたアウトソールが階段に埋もれたような感触がする。

 私が声をかけた。静まり返る階段で私の声が響き渡って、こだままでした。

「上から見たときはそんなにって感じなのに、実際降りてみたら思ったより深いね」
「そうですね。でももう底に着きそうと思う」
「なんでわかるの?」
「なんか光見えてきましたから」

 前に歩いてる彼女が振り向いて言った。懐中電灯を片手に、もう片手はボロボロな手すりをいちおう掴んでいる。私たちの右手側にはがらんとした大穴が口を開いてるが、そこを覗いてみたらたしかに彼女の言う通り、微かに光がちらつく。そして気のせいか、視界にぼんやりと煙が立っている気もする。
 
 なんとなくそこらへんの廃ビルに入れてみたら、一階のホールの真ん中に唐突に丸い穴が開いていた。穴の縁に近づいてみると、白い螺旋階段が地下へと続いていくのが分かった。室内なのに、雪が積もったように階段には分厚い白化粧に覆われている。

 地表側の手すりが朽ちて倒れているから、階段本体も同じぐらいに老朽化進んでいないかと心配したが、彼女が「じゃあ」といきなり何階も下って行って、そしてこっちが気も知れずに呑気に「大丈夫そうですよ」と手招きした。

 この子と一緒だと心臓何個あっても持たない。

 降りてみてわかったのだが、階段の上を覆ったのは雪ではなく、真っ白な苔だ。パンの上にみっちりと生えたカビと思わせる見た目だけど、この苔は踏んでも蹴っても柔らかく受け止めるだけで、カビのように飛び散ったりしない。

「なんかメルヘンだね。子供のころこういう階段を見たことある気がする。絵本……じゃなくて映画かも」
「ちょっと違うけど私も」
「どう違うの?」
「故郷と似てるんじゃないかな、と思います。どこかというと、んー、どこだろう」

 言いながら考えてるように、彼女がしばらく歩みを止めて、しばらく頭を傾げた。この子と知り合ってからそれなりに時間を経ったけど、自分のことをあんまり話さない子だからちょっと意外だ。

 こっちから聞いてみたら、案外すんなりといろいろと聞かせてくれるかもしれない。そんな予感がしつつも、私はそれ以上追求せずに、後ろから彼女の肩を軽くはたいて前に進むように促しただけだった。

 友達でもなんでもない人に、気軽に話題をするような軽やかな人生。そんなものを過ごしていたら、そもそもこんなところで探検ごっこなんてしたりしない。そこんとこは彼女と私との数少ない共通点で、なんとなく踏み越えではいけないラインであった。

 私たちが下り続ける。足元からの触感が妙に変わったと思いきや、いつの間にか苔階段が途切れていて、階段の色合いが白から濁ったグレイとなった。足で突いてみたらどうやらそのまんまに灰が被っている。この発見を共有したくて顔を上げると、早足で階段を駆け下りていく彼女の背中がチラと見えて、私は焦って追いかける。

「ねえ急になに?」
「思い出しました! 思い出しましたよ!」

 なにをだ? 私が彼女を追った。時間に忘れ去られた廃墟の底に、過去へと駆け出す彼女の足音が鳴り響いて、彼女を今にすがる私が蹴り上げた灰が天に舞う。

 階段の踊り場で彼女が立ち尽くしていて、危うく背中にぶつかりそうになった。膝に手を置いて深呼吸する私を見て、彼女が見たこともない明るい顔をしていた。ああ、聞きたいような、聞きたくないような。過去探しのために廃墟を歩き回ってるのだね。そしてここでようやく見つけたのだね。前に行く彼女とやれやれとついていく私。そんな二人の間にあるもろい線が途切れそうになることを覚悟して、私は口を出して聞いた。

「探し物見つけた?」
「うん、見て!」彼女が私の手を掴んで、前に指差す。「きりたんぽです!」
「……は?」
「うわー、懐かしい。私って、秋田出身だったんですね」

 は?

 踊り場にこれまでの階段と桁違いの量の灰がたまっていた。灰の上から何本かの棒切れが差し込まれていて、白くて丸みを帯びたものが棒切れの先端を包んだ。私にはシロアリ女王の膨らんだ腹か、へたくそなエノコログサの労作にしか見えないが、彼女は嬉々としてその棒きれを一本取ってあげた。

「いや。いやいや。なにこれ?」
「きりたんぽですよきっと。おいしいですよ。はいあーん」
「あーんじゃないよ。絶対食べちゃだめなものでしょう!」
「アハハ、やっぱり?」

 やっぱりってこちらのセリフだ。この子はやはりどこかで絶対的にズレて居る。共鳴なんか勘違いした私が間違っていた。

「でもきりたんぽを食べてたのは本当ですよ。いまはっきりと思い出しました」
「……そっか」
「ん。知っておいてほしかった」

 適切な言葉が出てこない。憎いとは遠く離れながらそこまで違わないような感情をこめて私は彼女を睨みつけた。彼女が手にある疑似きりたんぽを丁重に灰まみれな足元に差し直すと、私に手を差し出す。

「行きましょう。まだまだ下はあるよ」
「もう思い出したんじゃないの」
「でも探検でしょう? 今度はあなたが見た映画とか絵本とかが階段の下に出てくるかもしれないですよ」
「ないないない」

 結局過去とかどうでもいいんだ。苦笑して、私は彼女の手を取った。

→いやなんですかねこれは。「きりたんぽ……?」と困惑しながらいったりばったりで書いてました。きりたんぽって何???

No.1653スクランブル交差点
No.4133紙芝居
No.3863貿易

「あっちに行けば道玄坂、こっちへ向かえばセンター街。ハチ公が見守って、忙しかったらまっすぐ駅へ。ここは渋谷スクランブル交差点。世界で一番贅沢で慌ただしい交通スポットだと言われたり言われなかったりする場所。それじゃ今日も今日とて渋谷ワンページ紙芝居のはじまりーはじまりー」

 黒崎の長い口上は今日は雨の音に消し去れた。昨日は近くにいる選挙カーの上に長々と続いた政見発表演説に、さらに前の日は爆音で流されたコマーシャルに、とにかく彼の紙芝居はうまくいったことがない。

 道具は手作りで絵も自家製。常に昨日放送のアニメやドラマの影響を強く受けるストーリーと伸びしろしかない語り口が売りポイントだ。話の主人公はシルバーミイラというピラミッドから復活した無敵なヒーローで、世界中に飛び回って悪を懲らしめる。でも黒崎の絵心の制限によりもっぱら作画が簡単な砂漠にいる。

「するとピラミッドが激しく震動しはじめました! 『ど、どういうことだー!』ラクダ大王もびっくりしています! いったいどうなったのでしょう……? それでは、また明日!」

 黒崎が自分でぱちぱちと拍手して、段ボール製の紙芝居枠を抱えて急いで交差点を渡った。彼は就職活動の息抜き兼度胸育ちのため、渋谷スクランブル交差点の中央でこうして毎日一ページだけの紙芝居をやる。一ページではむしろ前口上のほうが長くなる場合が多々あるから二ページにしようかというのは最近の悩み。

 人生を豊かにするための道楽のつもりだったが、いまのところは手応えはあんまり。今日は珍しく子供が物珍しげに彼に目を向けたが、すぐに親に手を引いて連れていかれた。「変な人を見ちゃダメ」と聞こえたが、反論はちょっとできない。

 だけど、と、交差点を渡り切って、黒崎はなんとなく振り向くと、遠い向こう側に、スリーピーススーツの男と目が合った。すぐに目を逸らされてしまったから、気のせいかもしれないが。

 貿易商社務めそうな完璧なスーツの着こなしから、心の中で黒崎はそのスーツの男を貿易マンと呼んでいる。そして彼にひそかに感謝をしていた。紙芝居をはじめて三日目で、わざわざ足を止めて黒崎の方向を見て、小さな拍手を送った人だからだ。一瞬だけのことだから、たぶん絵を全然見てないし、話も聞いていないだろうけど、黒崎はあの日、部屋でへたくそなピラミッドを塗りながらにやにやしてる自分がいることを気づいた。

 今日も早く帰って、メールボックスをチェックしよう。面接お知らせだったら一晩中ハラハラして悩む羽目になる。お祈りメールだったら舌を打って、現実逃避にシルバーミイラの登場シーンに力入れて描こう。

 明日が終わるかもしれない、独りよがりの紙芝居。明日もこの世界で一番贅沢で一番慌ただしい交差点でまあ会おう。

→浮かんでる話をまとめきれずに中途半端になりましたね。

No.4952赤とんぼ
No.3759陸上部
No.2879狸寝入り

 片目だけを開いて私はテレビを覗いた。食卓からテレビにちょっと距離はあるからやや見づらいが、両親は私が寝てると思ってるはずだし、いまもテレビ音声をBGMにソファで雑談してるから、そう急に振り向かないはず。

 だけど念いは念入りだ。腕を枕にして頭を置いて、長くなった前髪を敢えて目を少し遮るように調整しておく。完璧な狸寝入り体制を整ったら、テレビではタイミングぴったりで番組がはじまった。

 インターハイ陸上生配信。もう少ししたら、私が出るべき大会に、私が着るべきユニフォームを着て、青田ホタルがスタートラインに立つだろう。骨折した右足が疼いて、私が気を紛らわすために、結局は視線を遮る前髪を指で払った。

 骨折するやつが自業自得だ。もしそう面と向かって言われたら、『まったくその通りでございます!』と平身低頭して全面的に認めてやるから、何か言うことがあれば私の前で言ってほしいもんだ。

 だけどこのスタイルの理解者はなかなかいない。せめて責任だけをちゃんと取るつもりで、骨折したあとも毎日陸上部の練習に顔を出していて、私が抜けた穴を埋めるために急遽レギュラーになった青田に親身になっていろいろとアドバイスをしてやろうと、被害者面と言われないように私なりに頑張っていい先輩をやってみたけど、これはこれで不満を招くらしい。

 青田ちゃん可哀そう。あいつ最後の大会がオジャンになったから意地悪してる。三年だから試験勉強しろよ。などなど、耳の痛いやつから余計なお世話なやつまで毎日どうしても耳に入れられる。言い返したらそれこそ部活の邪魔なので聞き流しておいたがやっぱり堪える。あと勉強は一応してるからな。

 青田のほうはとういうと、顎を下げる癖がなかなか直らない。本人の言い分によればずっと俯き姿勢で歩いてるから、それが自然体になって走るときも気が抜いたら元の姿勢に帰ってしまう、らしい。

 猫背の陸上部員なんて聞いたこともないが、高校でデビューしたとのこと。それでその速さだからまったく足の長いやつらは羨ましい。コーチは元々時間をかけてゆっくりと修正していくプランだったが、私という水に寝耳どころか計画が全部流されたようだ。

 それでも『赤坂は悪くないよ』とと笑い飛ばせるあたりさすがに年の功だろう。ケツがまだまだ青い私はそう気丈に振る舞えなかった。青田の猫背を叩くとき力入れすぎてはないか?『ソフトボールを顎に挟みながら走れる?』と聞くのはハラスメントなんじゃないか? 毎日毎日夕日を背景に彼女の長い影を見ながらもう一周、もう一周と連呼してしまったのは意地でなればなんなのだ? 自問しだすときりがない。ちなみにソフトボールの案は本人が妙に乗る気だけど怪我しそうだからコーチに却下された。

「アカリさんがゴールで待っていれば、最後まで前だけをみつめて走れる気がします」

 ある日の練習終わり。転がる夕日に火をつけられて、空が一面の茜色。影が色濃くなっていくグラウンドには私と青田の二人だけ。校舎を背に、赤いユニフォームを着る彼女は私にそう言った。

 校舎のガラスが夕暮れの残照を反射して、彼女の後ろで輝く。ホタルなのに、赤とんぼみたいだ。

「あはは、いいかも。アタシの案よりはずっと建設的だ」
「じゃ、じゃあ」

 大会の日、来てくれます?

 そう言って出された手を握れなかったのは、松葉杖と鞄で両手が塞がったからだけなんだが、そんな約束をしなくてよかったといまなら思える。その翌日、二年の新部長がわざわざ三年の教室にやってきて、もうこれ以上口を出さないでほしいと私に頭を下げて頼んだ。

 そうとうありがた迷惑らしい。自分がここまで人間ができてないのは十八まで生きて、そのときはじめてわかった。

 テレビが青田の長身を映し出す。一瞬で過ったけど、表情は悪くない。意地を張るのが馬鹿らしくなって、私は身体を起こして、頬杖をついてテレビを見る。お母さんが出したお菓子も食べる。

 要するには私は未練ダラダラなんだなと思う。青田のため、部活のためとか言って、最後の大会に走れなかった自分に腹立ってるだけ。そこはわかっている。わかっているけど腹の虫が収まらない。同級生たちに愛される青田に嫉妬しているだなんて認めたくない。

 だから現場に応援にはいかないし、そもそも大会なんて見ないことにしたけど、どうしても青田がまた縮んでいないかと気になって気になってしかたない。気がづいたらもう居室にいて、最後の足掻きに狸の寝入りをしてみたが、青田の姿を見ていたら自然と起き上がった。

 彼女はまるで誰かがを探してる素振りをしたから。

 ケガしたこと、陰口叩かれまくったこと、コーチに申し訳なくてうまく謝れなかったこと、大会に出られなかったこと。そのすべてが些細な、どうでもよくなって、いまゴールラインで青田を待っていたのは自分じゃない事実だけが、どうしようもない悔しさとなって私の胸を刺さる。

 テレビの中、青田はやがて、おもむろに前を向いた。

 見たことない、いや、毎日見ていた毅然とした目で。

 号砲が鳴り、選手たちが駆け出していく。青田は、前を向いた。前を。

 あの日差し出さなかった手を差し出す。何になるかは知らなくて、自分が笑ってるのか泣いてるのかもよく分からずに、私はテレビ画面に映したゴールラインに合わせて指を伸ばして、真っ先にそこを通り過ぎる赤とんぼを刹那にだけ迎え入れた。

→筆が乗りすぎて我ながら気色が悪い。細かい描写が足りなくて勢いに任せすぎましたね。ガチャから排出してくる単語を見かけた瞬間に描きたい絵が降りてきたらやっぱりやる気が違うなって。

No.1284たぶらかす
No.3581若葉マーク
No.1344成長する

 財布に置いてあったゴールド免許をなんとなく取り出して、なんとなく眺めていると、谷岡はそろそろ潮時だと思った。来週、いや今週。電車で市役所へ行って、免許返納の手続きをしようと決めた。帰れればの話だが。

 三十年以上も運転してきた愛車が彼の隣で淡々と断末魔を上げていた。だましだましで乗り続けてきたが、いよいよお迎えがきたようだ。同僚の送別会を思い出して、愛車をねぎらおうとボンネットに触れようとして、ボンネットの下から吹き上がる凄まじい温度の煙を見て断念する。

『オヤジももう年なんだからさ』
『無理すんなよ』
『車を売れば? 俺が小学校のときからあったよね?』

 夜の山道で立ち尽くしていたら、息子の声が聞こえてきた気がする。子供ってのはいつの間にかかわいくなくなったのだろう。使い古された財布と使い慣れないスマートフォンを同じポケットに突っ込んで、山岡は車を後にして、山道に歩き出した。きっと車で一夜を過ごすほうが賢明だろうけど、賢いお年寄りになるのは免許を返納してからでも遅くない。

 もう一晩くらい、若いバカでいたい。

 約一時間後。ガードレールに手をついて、谷岡は吐くかどうかの重大な選択肢を迫られていると、後ろからヘッドライトが近寄ってきて、やがて白い車が目の前にゆっくりと止まった。ボンネットの上に張り付けてある若葉マークの鮮やかな色合いが夜でも目立つ。

 開けているドア窓から若い男が顔を覗ける。息子よりずっと若くて、大学生のように見える。

「こんばんはー。お父さん、大丈夫っすか?」
「ハァ……ハァ……いや、なに。まだまだ平気、うぐ」
「あそこで止めてあった車はお父さんのものなんすよね。こんなところで何をしてるんすか? 危ないっすよ道のど真ん中に歩いちゃ」
「ハァ……ハァ……いや、なに。ちょっと運動、お、おえ」
「あのさお父さん。僕この山を下りるんだけど、こっからずっとの下り坂は徒歩じゃきついと思いますよ。よかったら乗せましょうか?」

 賢明なお年寄りらしくて好意を甘えることにした。もしこの若い男は実は年寄り狙いの変態誘拐犯だとしたら、彼の綺麗な車の上に吐いてやる。やけっぱちにそう思って助手席に乗り込んでたら、後ろ席からあんまりにも懐かしい声を聞こえて、思わず振り向いた。何十年ぶりだろう。

「ばぁー! だばーま!」

 後部座席に設置されてあったチャイルドシートに、赤ちゃんが小さい手足を一所懸命に伸びて振るっている。天使のように笑ってるが、谷岡は経験上知っている。この年の子供はみんなひとをたぶらかして騙す悪魔だ。

 車の中には谷岡と大学生らしい男しかいない。谷岡の顔を見て察したのか、若いモヤシ男がなんか吹き出した。

「言っておくけど僕の子なんだからね。誘拐じゃないっす」
「あーいや、疑ってるわけじゃないんだが」
「だぱん! だぱぱ!」
「ほらパパって言ってるっすよ! 信じてくださいよ」
「だから疑ってないって。それよりシートベルトを締めて」
「へ? あっはい」
「あとウインカーつけて」
「誰もいないのに?」
「こういうのは習慣にしたほうがいいよ」
「まめっすねお父さん……」
「谷岡だよ」
「じゃあ僕は佐々木」
「ほうわー! だだだーん!」
「こいつはケンちゃん」

 車を起動して、モヤシ改め佐々木が慎重しすぎたハンドルさばきでゆっくりじっくりと車を公道に戻すと、今度はワイルドすぎた足さばきでアクセルを踏んだ。生きた心地がしない谷岡だが、後ろ席にいる佐々木二世が歓喜の叫びをあげた。それに乗じて一世のほうも声を張り上げてなんか歌いだした。

「仲いいね?」
「でしょう! 子供できちゃったとき終わりだーと思ったけどさ」

 まあいまもだいぶ進行形で終わってるけどね、と佐々木の声が朗らかだった。

「せめて笑って育ててやろうかなってさ」
「……そうだね」
「成長早いって言うっすね」
「早いよ。思ったよりずっとね」
「説得力半端ないっすよお父さん!」

 窓の外。さっきまでの亀歩きが嘘のように風景が後ろへと後ろへと流れていく。役に立たないスマートフォンのことを思い出して、取り出してみると、アンテナが一コマついていた。

 免許を返納する前に、一回だけ息子をドライブに誘ってみよう。谷岡がぼんやりと思った。

→ぬあああ全然ダメ。駄作だ駄作だ!
これはダメ。全然ダメ。絵が思い浮かんでないと本当に散らかしてしまう。

No.1251射抜く
No.3740オーバーオール
No.2112回文

「ダメージのほどは?」
『ヨク利クヨ』
「ふん? 厳しいってこと? 曖昧じゃん……。エネルギーは?」
「足シマシタ」
「いつ? しっかしボディごと射抜かれたとはな。どこで襲撃された? ついでに何にやられたかは覚えてる?」
「塀ノアルアノ家。縄ノ罠」
「はあ?……いや、待って」

 キャッチボールどころかとんだドッチボールになった会話をいったん打ち切って、私がようやく違和感にに気づいた。ベッドに横たわる、いまだに時折電光をひらめかせる彼女に一瞥して、さっきまでの会話ログをモニターに表示させる。

 しばし吟味して、額を掌でたたく。

「言語中枢か……」
『悲シイ品カ』

 最先端テクノロジーである自立人型兵器<サトール号>の美しく整った顔が歪めて、回文で嘆いた。この子がこんなに感情豊かになったのは初めてみた。ひょとすると言語中枢以外の部分もやられたかも。私はうんうん唸りながら、最悪な事態を備えてのメモリー保存作業に取り掛かった。

 彼女が任務に出るのは昨日の夜のこと。なんでもないパトロールのはずだったが、予定時間過ぎても帰投しなかった。お上からの出撃許可を待つのももどかしく、射殺覚悟でハンガーに向かって戦闘機を強奪するも辞さない心の準備ができたところで、ようやく<サトール号>の帰還報告が私の端末に届いた。エマージェンシー要請とともに。

 いま、彼女は設計者である私と一緒にシェルターに閉じ込められている。<サトール号>の左胸には正体不明な装置に貫かれては引っかかられていたからだ。ブーメラン状のこの装置は時限爆弾かもしれないし、追跡装置かもしれない。なんならパーティーの招待状の可能性もなくはない。とにかくリスクを排除するまで、電波も爆発も外には漏らさない地下シェルターに入れておくのがお上の意向らしい。

 思案の後、私はアプローチの方向を変えて、愛称で彼女を呼び掛けた。

「サトリ、聞いて。あなたいまはかなり深い部分までウィルスに侵されたと思うけど、それについでどう思う?」
『悪イ鉄柵ガ腐ッテルワ』
「なるほど。私にどうしてほしい?」
『妻堤ヲ見ツツ待ツ』
 
 ジーン。体中のパーツがぐちゃぐちゃのはずだが、彼女が首だけを動いて、私に笑いかけた。返事はさっきと同様によくわからない回文だけど、おかげでそれでいくつかの確信ができた。

 鉄柵というのはファイアウォールで、攻撃を受けてる状況。そして解決策としては待つことを提案した。つまりサトリは敵のウィルスに感染されているが、それに自覚していて、すでに自力でウィルスの排除作業に取り掛かっている。

 ほっとして、私が彼女の隣でそのままぱたんと座りこんだ。彼女の帰投からパタパタの数時間、自分が思ってた以上に消耗してるらしい。だがサトリが無事ならなんでもいい。万が一を備えるために、彼女をそのまま解体してオーバーホールする案まで上がっているが、できればそんなことしたくない。メモリーパーツまで交換することになったら彼女は彼女じゃなくなる。

 モニターにメモリー保存作業が完了したとのメッセージが飛び出る。一応チェックしておこうとメモリー映像を開こうとするが、私の手がふいにやさしく握られた。視線を転がして、殺風景なシェルターで二人っきりにいる相手を見つめる。

 目と目が合った。 

「どうしたの? 実はやっぱり洗脳されて私を殺す気になってたとかだったら怒るよ」
『ワタシ負ケマシタワ』
「帰ってきたじゃん。またやり返せばいいんだよ」
『確カニ貸シタ』
「うっわー物騒なこと言いやがるわ、この子。兵器開発者冥利尽きるわ」

 自虐して、彼女の手を握り返す。サトリはもともと、こんなバカ騒ぎに巻き込まれるために作ったアンドロイドではなかった。もっと実用的とは程遠い領域で、もっと平和ボケなジャンルで活躍させる予定だった。

「でもダメだぞ。サトリ。そんなことは言っちゃダメ。アンタは兵器になりきってはいけない。いまの状況はぶっちゃっけさ……」
『関係ナイ喧嘩。世ノ中バカナノヨ』
「わお。言うじゃん」

 私は夢をいまにもあきらめていない。状況がほとぼり冷めてきたら、この子を連れて遠いどこかへ高跳びしてやる。だからボディは好き放題にいじられてもいいけど、魂だけは死守せねばならんかった。

『西ガ東ニ』
「そうそうその意気。まあ一緒に逃げるのは厳しかったら、いざとなれば私を見捨ててでも逃げな」

 いつもの軽口を叩いて、私が空いてる手でサトリのメモリーログを流せる。彼女の胸に刺さるふざけたブーメランはどう見てもそんな立派な超兵器に見えない。超音速飛行も可能な<サトール号>にどうやって命中したんだ? 

 それを探らなければならない。当のサトリはなぜかしつこく私の手と肩を触って引っ張って注意力を引こうとしてるけど、隙を見て再生ボタンを押した。様々なパラメータがついてる彼女の視界ログがモニターに表示される。いつも通りのパトロール任務で、いつも通りに高速で作戦空域を駆け巡る。

 めぼしい異常が見当たらなず、映像動画のプログレスバーだげが空しく進んでいく。私は指令を叩きこんで、イベントが発生する時点までスキップとシステムに命じた。

『見事ナ花トゴミ』サトリが端末に手を伸ばす。『年末ツマンネ』
「つまんなくない」私が端末を彼女が届かない高度に手を高く上げる。「心配してやってるからおとなしく……え?」

 動画がほぼ最終盤まで一気に飛ばさた。モニターの中で、サトリの目を通してアジトのおぼろげな輪郭が見えてきた。つまり彼女は任務を至って余裕でこなして帰ってきたということだ。まさかアジトの周辺に襲われたのか?

 アジトはすでに包囲されている可能性で私は一時絶望しかけた。だけどすぐに端末から通知音が発して、私が指示したイベントがはじまると知らせた。モニターの中、サトリが地面に高速で接近して、アジト周辺の荒野で着陸した。前の戦闘で撃墜した無人兵器の残骸があちこちに横たわる。

 急にカメラが左右に振りまわった。周辺を警戒するように。次の瞬間に私が目を疑った。サトリの手が画面内に現れて、無人兵器を解体していく。いくつかのパーツを両手いっぱいに抱えて放り出すと、飛行用ジェットバックの噴射炎を見事に微調整してそれらのパーツの溶接作業がはじまった。

 やがて完成したのがV字型の芸術品、正体不明な奇怪なブーメランだった。彼女の手がブーメランのとがった部分を自分に向けて、力任せに刺しこんだ。画面がノイズまみれになり、動画ログがいよいよ終わろうとしている。最後に聞こえてきたのは、サトリの独り言のようなつぶやきだった。 

『一晩ごまかせればいいか……』

「サトリ。こっち見なさい。サトリ。おいコラ」

 手早くログを削除して、私が彼女の肩を揺らす。アンドロイドがいつの間にか私の手を放して、そっぽを向いている。

「アンタやってるなおい。ごまかせるってなに? マッチポンプってこと? 出撃続きで嫌になった? アンタさこれバレたらどうなるか分かる?」
『バレデモイイ、モテレバ』
「その回文やめなさい。どうせ演技でしょう。私本っっっ当に心配したんだからね? 次にまたやったらアンタを弾避けに使って私はドサクサに紛れてアジトを脱出するからな!」
『ママガ私ニシタワガママ』
「誰がママじゃい!」

 勢い任せて言ったがこの計画は結構いけるなことが気づいた。実際今日はあとちょっとで実行するところだったし。頭を横に振って、私がサトリの顔を無理やりこちらに向かせる。

 私のアンドロイドがクスクスと笑いを漏らしていた。彼女が身に着けたのは兵器としての経験ではなく、人間どもを出し抜くずるさと強引さだった。

『獅子ノ子ノ獅子』得意げに、彼女がそう言い放った。呆れた私はやがて苦笑して、さっき浮かべたハンガー強襲案をモニターに呼び出して、今度は彼女をプランに含めて、まじめに計画を練り始めた。

→「回文……?」と頭を抱えてました。最初に頭に浮かんだのはちょっとした寓話みたいな話だけど、どうも話が強引でボツにしたが、こっちもこっちでだいぶ無理やりですね。

No.1399プログラミング
No.4368生体反応
No.4479旅立ち

 屈んで観察してると、頭上でトビウオドローンの羽音がした。肩に降りたドローンがヒレモニターを広げて、さっき空中撮影した成果を見せた。映像には見飽きた海と、寒々とした岩だけが構成された寂れたこの孤島と、島の中央に膝を抱えてうずくまるボクの姿を収めていた。

 見方によってはズレた感性が生み出したセルフィーだけど、この写真の主人公はボクではなく、強いて言えば島そのものだ。ボクが三時間前、そしてさらに三時間前の写真を呼び出して、ヒレに並べて見比べる。

 ボクが深呼吸する。最初の写真に比べると、間違いなく島の岩肌の模様が変化していた。まるでボクを中心に、岩肌が逆時計方向に渦を少しずつ描こうとしてるようだ。ボクがトビウオに再スキャンを命じたが、トビウオドローンは無感情に明滅するカメラアイを斜め上に動かして、ボクにロックした。

『よろしいのですか?』と、トビウオが尋ねた。『繰り返すようですが、本機のエネルギーは有限です。帰航用のエネルギーを不必要なスキャンは避けるべきです』
「いいからやって。生体反応を探して」
『かしこまりました。しばしお待ちを……ネガティブです』

 ボクが冷静にうなずいた。少なくともとトビウオに『言ったじゃないですか』と説教されない程度に動揺を漏らしてないと思う。トビウオにまた空を飛びあがらせて、ボクがまたその場で膝を折って座る。

 できればいますぐ爪を立ててもこの島の岩盤を掘り返して、その下をその底をその秘密をそのすべてを日の下に晒したい。

「なに照れてんだ。ボクを感じてるだろう。じゃあ出てこいよ。ボクにもあんたを感じさせてよ。ねえ見てよ、ボクはいま艦外服もヘルメットもしてないんだよ。つまりこの惑星は豊かな大気成分と充分すぎる水がある。こんな星に! 生物が! いないわけあるが!」

 岩を相手に、ボクが熱い思いを吐露した。

 常識が染みついてた側のボクの脳には実はわかっていた。そろそろ帰らなきゃまずいってのは、まあ、正論だったことを。大気圏に降りておおよそ二千時間。機材もエネルギー代も自腹で、ローンの返済期限にも(たぶん)まだいくらか余裕があるが、トビウオが結構前からエネルギー残量を注意するように警告しはじめた。こいつって、こんなに優しいプログラミングされてたっけ。それだけボクの行動は不条理すぎただろう。

『ご存知かと思いますが、こちら宙域では辺境惑星もいいどころです』うちの親とそう変わらない口調でトビウオが説教した。いや、上司かもしれない。『メイン宙域とは離れた位置にありますので、救難信号を出しても拾われるまで時間かかります』

「出さないよ、そんなもの」そのたびにボクは反論する。反論するが。

「そんなもんを出したら救難隊が大勢くるし鬱陶しい。嫌だよ人間なんて」
『好悪の話ではありません。話題をすり替えるのはやめてください』
「はい……」

 と、このようにAIに真顔でマナーについて指摘される。このトビウオが最近ますます人間らしさを獲得していて本当に嫌になる。人間にほどほど飽きてきたから大学の実地探索隊に入ったのにこれじゃ本末転倒もいいどころだ。

 余計なことを頭から追い出して、ボクは目の前の岩模様に集中する。トビウオからは脈なしと言い切られてるが、ボクはむしろこの島自体は人造物なんじゃないかと疑念がだんだん大きくなった。海に囲まれてる小さな岩礁にしては形がいかにも不自然だし、いまボクの足元から広がる螺旋模様にも妙な見覚えを感じていた。もう少し時間をかかって空中撮影で粘っていたら、模様のパターンが判別できるかもしれない。ボクが決意を新たにした。

 上空のトビウオからしつこいメッセージが端末に送られてくるが、見る気にはならない。どうせさっさと帰れとか言ってるだろう。空にいるはずのあいつに直接返事してやろうと、ボクは顔を上げる。

 聞き慣れた羽音が近づいてくる。

 トビウオが最高速でボク目がけて飛び降りてきたから。

「は?」ボクが慌てた。「いやなんで……え、えええ?!」
『異常状況確認。異常状況確認』昔のように無感情にAIが返事した。鰭が展開して、ボクへと救助用のアームを差し伸ばしてくる。

 ボクは岩に沈もうとしていた。岩じゃない。悔しいけどいまならわかる。『クジラ』だ。岩肌に展開する渦状の模様は、旧時代の宙間回遊艦『クジラ』の外パッチの紋様と一致していた。おそらくはこの惑星に不時着したクジラは海に沈んで、長い歳月の中に老朽化したが、ボクが表面に歩き回って信号を飛ばしまくったせいで、来訪者と勘違いして艦内に誘おうとしてるのだろう。

 人間から逃げてきたのに、むかしの人間に葬られるだなんて。皮肉が過ぎる。アッという前にボクはもう首から下まで『クジラ』に飲み込まれた。トビウオが力いっぱい手を伸ばすが、間に合うはずがない。

『だから言ったじゃないですか!』トビウオが怒鳴った。
「あはは。キミだけだよ、ボクをここまで心配してくれるのは」無機質なトビウオのカメラアイを最後にもう一度凝視して、ボクが気丈に振る舞って手を振った。

「写真を撮って、大学に届いてくれよ。笑い話ぐらいにはなるさ」

 ボクは旧人類が作った墓石の中に沈んだ。

 はずだった。

 大気圏から降下して、一万時間が経過。ボクが潜水スーツを着込んで、右手についてるフックでトビウオに引っかかって、左手でサムズアップして、用意完了と示した。

『お前マジで戻らないつもりだな?』トビウオがぶっきらぼうに吐き捨てた。
「だっていま帰ったらローンが怖いよ。もうちょっとここにいさせてくれ」
『しょうもない。まったくいつになっても人間は変わらん』

 ボクが苦笑して、トビウオじゃなくて、後ろにゆっくりとついてくる巨大な『クジラ』を一瞥する。長年の間に『クジラ』の中で冷凍睡眠を繰り返して、ひとりでこの惑星で探索を続いてる彼女はいま艦内でボクの艦内活動をモータリングしている。

 彼女は絶対に認めないが、要するにボクみたいなろくでなしはいつの時代にもいるということだ。旧世紀の探索艦が遭難して、ひとりだけ生還した彼女が、百年以上の間にずっと一人で『クジラ』の中で孤独な探索を続いていた。

 ボク以外にも来訪者はいたようだが、発見なしとあきらめて帰った者や、携行したAIからしつこく帰還するように警告を受けて、それに従った者がほとんどだ。帰らないどころか『クジラ』の外パッチまで誤作動させた超弩級なクソアホボケ(彼女の言葉原文ママ)が現れるまで、独りぼっちだった。

「そもそも人のドローンにハッキングまでする? ボクは人のこと言えないけど君も相当だよ」
『うるさい。何年もメンテなしにやってきた船だぞ、『クジラ』は。その外パッチが正常に機能する保障はどこでもないから人払いしたんだ。どん詰まりな狭い通路に放り込まれて、百年間保存された旧人類の糞便の中に溺れ死ぬどころだったからな、お前は』
「知ってる。助けてくれてありがとう」

 鼻を鳴らす声しか返さない。礼を言うといつもそうだ。

「生き物いた?」

 生還してから五千時間。絶え間なく浴びせられてくる彼女の罵詈雑言を、ボクがなんとかこのひとことで遮った。それからなんとか――最新式携行AIドローンであるトビウオの性能をアピールするとか――彼女を説得して、一緒に惑星探索をするようになった。

 トビウオがボクの手の中にせっせと泳いで、クジラが水中ライトを起動して、海底の景色を照らし出す。あっちは峡谷のような大海溝、こっちはとてつもない規模の貝殻の群生地。あれはクラゲか? そっちに横たわるのは難破船か?

「文明らしい痕跡があった」

 と、彼女はそう推測したが、推測に留まった、それは言ったらまた罵倒されるから黙っているが、彼女はそもそも学生だったらしい。自学でクジラの操作方法をなんとか身に着いたが(これだけでも充分偉業だけどね)、艦外の実地作業まではさすがに知識も経験もない。だからボクが志願した。

 難破船か、貝殻。どっちに向かうか迷っていたら、クジラと目が合った気がして、ボクが貝殻のほうへとトビウオに向かわせた。この惑星には知性種がいたかもしれない。その仮説を証明するためにの探索が、目下の一番の目的だ。
 
 耳そばで、人間嫌いの彼女の鼻歌がかすかに聞こえる。ボクも彼女もまだ他人と一緒にいることが慣れていない。未知への旅立ちだ。そう思うとこっちも楽しくなって、彼女に合わせてボクも歌ってみたら、こっぴどく怒られた。

→描き切ってからプログラミングを入れてないことに気づいて頭を抱えました。見切り発車の極みような話だけど力技いっぱいな展開にどうも嫌いになれない。

No.2097過去形
No.4138自由自在
No.224アイスキャンディー

 この路地では、昼下がりの陽の光がやたらと輝いて見える。背の低い家屋が連ねている中、土地公の祠とキリスト教会が仲良く並んでいる。路地裏に、シャッターがきつく閉じている空き家が一軒、そしてひっそりと佇む駄菓子屋が一軒。

 駄菓子屋のほうは、今年で開業30年を人知れずに迎えようとしていた。

 店に踏み入れると、彼が自然に頭を下がって、店の入り口の天井に垂れ下がる小型の扇風機をギリギリにぶつからずに済んだ。左手側にはボロボロな冷蔵庫。右手側は古いお菓子や海賊版のおもちゃなどが陳列していて、壁を埋め尽くしている。ベンチに座る不愛想な店主が興味なさげに彼を一瞥して、また視線をスマホに戻した。

「――昔の話?」
 葉ババアがやや思案すると、やがておもむろに語りだした。息子の結婚式が終わってばかりのころの話を。夫の退職金で店を開いて、夫婦二人で道楽な駄菓子屋をはじめた。

「あのときは近くに小学校があってね。放課後に子供たちわんさとここにやってきて、お小遣いを握ってやれラムネだの、やれビスコだの、やれコーラだのわいわいと騒ぐもんさ」
「小学校ならさっき通りかかりましたよ?」
「違う学校さ」

 葉ババアが頭を振ってそう言ってごまかした。こんな若者には裏の事情を言って聞かせたどころで何になる。二十年前の大地震で倒壊した小学校が民間団体の資金援助を受けて再建したが、代わりにその民間団体の意向で宗教関連の教材を多く取り入れることになった。学生たちは放課後寄り道しなくなり、近くで新設された『塾』なる施設へと直行することになった。

 彼女は関わらないほうがいいと何度も夫に言ったが、夫は『塾』の合法性に疑念を抱いた。同じく例の民間団体には懐疑的な近隣住民と協力しあい、地方の有力者のバックアップもあって、ようやく警察へと『塾』への正式な調査要請を出そうとするところまで進んだが、この小さな団体のリーダーを務める夫が交通事故で急死した。

「慈悲会だったけ。アレはひどかったですよね」

 アイスキャンディーを舐めながら、彼が相槌を打つ。葉ババアがいつの間にか隣のベンチに腰掛けてる彼を見て、やや怪訝した。自分はどこまで口を漏らしたかを思い返そうとした。

 夫の葬式がようやく終わったころ、路地の景色が一変した。慈悲会の霊札がどの家の前にも貼られていて、教会が封鎖されていた。土地公の祠の前に手を合わせようとしたら、付き合いのある近所さんに凄まじい形相で怒鳴られた。

 彼女は店をやめることにした。断腸の思いだ。夫との思い出なのに。だけどそれ以上にこの路地で、いや、この町で住むことはできないと肌身で感じていた。ここから出て、息子のところに行こうと決めた。

 店から出て、幾千万の思いでもう開くことのない店の扉を見つめてると、隣の家のシャッターが逆に上がっていることに気づいた。『収驚。シャッターが上がってるときのみ』と名札が貼ってある、変人と噂されるひとり暮らしの男の家だ。自由自在な男で、いつもあちこちでふらふらしてるとのうわさ。

 彼女は勇気を出して、上がってるシャッターの前まで歩いて、その中に声をかけた。ここの住む男は夫と仲が良く、何回か家に訪ねたこともある。不愛想で、時代遅れな恰好なんだけど、礼儀正しい人だと彼女は覚えていた。せめてお別れの挨拶をしなくちゃ。

「いやー、えっと、代わりにお礼言うほうがいいですよね、これ」隣にいる若者が急に吹き出したと思いきや、ぺこりと葉ババアに頭を下げた。「ありがとうございます。そう思っていただいたこと、きっと喜んでると思います」
「何の話だい?」葉ババアが不思議に瞬いた。
 
 シャッターから男が出てきたとき、彼女は声を出そうになった。午後の陽ざしのような鮮やかな黄色なローブを着込んでいて、手には分厚い札と、おもっちゃのような桃剣。

 彼女は慈悲会の札を思いだして恐怖したが、男が恰好に反して正気なふるまいで一礼をして、夫の死にお悔やみの言葉を送ったあと、ただいま仕事で外出するため、客人として家に招き入れることができないと丁重に謝罪した。

「お仕事、ですか?」
「はい。収驚……そうですね、道士を勤めていました、いえ、勤めています。失礼。この10年間でずっと過去形で自己紹介してきたので、まだ慣れていません」
「収驚って……驚いた子供を落ち着かせるあれのことなんですよね? もう誰もやってないと思ったけれど……」
「まったくですよ」道士と名乗る男が苦笑した。心からの笑いだ。曇りゆく空の下で、彼の眼が細めて、また開く。爛々としていた。「道士なんて、いらない世界のほうが絶対にいいです」

 そう言って、彼が路地を見回して、やがてゆっくりと視線を遠いほうのある方向に定めた。彼女にはわかる。あれは『塾』の方角だ。「……驚いた子供がたくさん待っていますので、先に失礼をします」

 離れる前に、道士の男が一回だけ彼女の振り向いて、彼女に一枚の札を渡そうとしたが、彼女が不審に思えて「結構です結構です」と連呼して、振り向かずに逃げた。それから息子のところで三か月を住んでみたが、息子の嫁と大喧嘩をしたのをきっかけに、結局は路地へと逆戻りしたが、その家も慈悲会の札を貼ってなくて、教会には人々が歌を唄って、土地公の祠の前に線香の煙が漂う。

 みんな、元通りだ。『塾』のことを聞いても、近所さんが首を傾げるだけ。彼女が隣のシャッターをノックして、道士の男を呼びかけたが、シャッターがあれ以来上がることはなかった。

「というわけでさ。もうみんな過ぎた話で、おばあさんもいまは元気ですよ」

 葉ババアが我に返った。彼女はカウンターの前に座っていて、目の前に台湾ドル百円札が一枚置いてある。外にはさっきの若い客の声がしている。所狭しとする店内に苦労して入り口まで歩いて、外を眺めると、若者が色とりどりのアイスキャンディーを手に、上を向いて誰かと大きな声で話していた。

「もう心配はいらないですよ、おじいさん。驚は収まった。俺の爺ちゃんはちゃんと約束を果たしたってこと。だからおじいさんもほら、アイスでも食べて、安心してあっち行きなよ。寂しくなったら年に一度に戻ってきていい日があるからさ」

 何してんだい、と葉ババアは声をかけようと、逆に息を吸い込んだ。若者の手にある十本もあるアイスキャンディーが一瞬で消えた。空中で振り払う何かがの手に取り上げられたのだ。そう認識した瞬間、激しいめまいに襲われて、葉ババアが腰が抜けて倒れそうになった。最後にみたのは自分に駆け付けてきた若者の姿。すごい形相で、何かがを叫んでる。

「まだ! 彼女はまだだ! まだそっちには行けない! 連れていけてはだめだ!」

「――破ァッ!」

 夕暮れ。カウンターで目を覚ました。葉ババアは肩を叩きながら起き上がる。眠った覚えがないうえにきつい体勢で昼寝をしたのに、ここ数年以来いちばん気分がいい。彼女はカウンターに置いてあった百円札と、そして冷蔵庫にアイスキャンディーが何個もなくなったことに気づいた。

「合計で120円だよ……」葉ババアは舌を打った。

→「――破ァッ!」じゃねえよ。
ラスト二編でもうキーワードなんか二の次で書きたい話優先になってしまいましたね。

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