いぬがこわい
わたしは犬が苦手だ。
きらいではない、苦手なのだ。犬がこわいのだ。
小学生の私は登下校の時間が死活問題だった。
距離約2km、山や田が広がる道には度々野良犬が現れた。
集団下校中、黒くて大きいラブラドールのような犬に追いかけられた。
気づいてくれたどこかのおじちゃんが軽トラの荷台にみんなを乗せて救助してくれた。
車のスピードで走っても尚追いつきかねない犬の速さに、わたしは恐怖した。
近所には野良犬を飼い犬にした家があり、その犬は朝になると自主的に散歩をしていた。
その犬が散歩(単独)する時刻と、わたしが登校のため家を出る時刻は同じだった。
わたしは遠回りをしてまでその犬に出くわさないように避けて道を選んでいたのだが、ある日、角を曲がった先にその犬がいた。
どうやら犬はまだ気づいていない。
私は全力で来た道を引き返した。
次の日からその道は避けるようになった。
またある日は高齢の女性が飼っているシーズーが家から飛び出し、
その小さな肢体でわたしに勢いよく襲ってこようとしたことがあった。
わたしは泣きそうになりながら走って逃げた。
次の日からその道は避けるようになった。
そうしてどんどん歩くことのできる道は限られていくのだった。
(しかし明日は今歩いている道も危ないかもしれないという恐怖)
犬を克服しようと試みたことはある。
わんわん王国という名の、犬とたくさん触れ合える今はなきエンターテイメント施設があった。(気になる方は「びわ湖わんわん王国」と検索してください)
そこでわたしは眠っている犬に恐る恐る近づき、そっと触れた。
ここにいる犬はみんな大人しい…と思ったのも束の間、ごはんの時間になると今まで大人しかった犬たちが興奮し、吠えだす犬も現れ、一瞬でわたしの心は再び凍りついた。
幸いにも噛まれたことはなかったが、幾度となく吠えられ、
追いかけられた恐怖体験はこの身に深く刻まれ、
たとえ大学生になろうが成人して社会人になろうが癒えることはなく、
飼い主と散歩中の犬が前から来るのを確認した時には早いうちに反対側の歩道へと避難するのが常だった。
伸びるタイプのリードがこわい、
チャリチャリという鈴のような音は首輪やリードの金具が擦れる音と似ているので警戒してしまう。
旅行でドイツへ行った時は犬が市民権を得るような国なのでリードなしで散歩するのはもちろん、
犬がでかい…。
日本で飼われている大型犬がここでは中型犬くらいなのだ。
さらにショッピングモールのような施設の中にまで入ってこられるため逃げ場がなく、わたしは躊躇なく友人を盾にしていた。
その犬大国の隣国に位置するチェコもそうだ。
この国は九州ほどの大きさで人口も東京と同じくらいの小さな国だが、
ドイツと同様に犬大好き共和国なので犬がたくさんいる。
街には犬のフン袋が至るところに無料で設置され、
犬を飼っている人には犬税を払う義務があり、
犬が迷子になっても大丈夫なように犬にマイクロチップが埋め込まれ(SF犬だ!)、犬用のパスポートまである。
とんでもねえ犬好きだ。
そんな国で、わたしは黒いラブラドールのような犬に出会った。
この犬はわたしを見た瞬間、勢いよく尻尾を振りながら飛びついてきた。
どうすることも出来ず、恐怖のあまりその場で硬直した。
それが出会い。
観察していると犬は基本的に大人しく、
寝ているか、日向ぼっこしているか、寝ているかだった。
たまに甘えるように足元にすり寄ってくるのがかわいく、ごはんを食べていると必ず近くにきて待てのポーズをする。
おすわり、お手などの基本的な芸は仕込まれていたが、
餌を持っていないと言うことは聞いてくれず、
ボール遊びをしたいがために1日に何度も足元にボールを落としてくる。
実に素直で欲望に忠実な犬だ。
散歩中に言うことを聞いてくれないこともある。
まだ帰りたくないという意思が強く、首輪をすり抜けて脱走したことが何度もある。
ボール遊び中に脱走したことも何度もある。
はじめの3ヶ月は正直あまり好きになれなかった。
川辺で死んだ魚に身体をこすりつけてめちゃくちゃ臭くなったこともある。
大好きなおじさん(わたしは面識ない)に飛びついておじさんがリードでぐるぐる巻きになったこともある。
散歩中にトイレをしてくれなかったら心配だし、餌を食べてくれないと不安になる。
だけどいっしょに暮らす時間が増えれば増えるほど、犬と暮らすことはしあわせだと思った。
そこに犬がいるだけで癒される。
いやなことがあった時は犬を撫でていた。
この世でいちばん素直な生き物かもしれないと思った。
おすわりのポーズがとてもかわいい。
歩くと耳がパタパタなるのもかわいい。
ごはんを食べてると膝に頭をのせてくるのがあざとかわいい。
本当に本当に本当にかわいい。
かわいいね、かわいいね、本当にかわいいね。ふわふわしててかわいいね。
本当にだいすき、できるだけ長く生きてね。
犬の恐怖は犬でしか癒すことができないと思った。
わたしはビビリだから、もちろん初対面の犬はまだこわいけれど、前ほどこわくはなくなった。
散歩中の犬だって避けずに済むようになった。
犬は嬉しい楽しい寂しい怖いといった、実にいろんな表現をする。
犬がすきな人を理解できるし、また犬と暮らせたらなとも思う。
わたしは犬を見るたびに君に会いたくなるよ。
次に会ったとき、また尻尾を振り回して飛びついてきてくれるとうれしいな。
あれから4年、8歳になった君は今も愛されて暮らしているんだろうね。