救ってくれたのは「その辛さ、分かるよ」という、優しさの共感ではなかった。

私には当たり前の日常があった。かわいい子供二人、ちょっと気難しい夫。家族の為に必死に働き、それでもご飯は必ず手造りをして、子供の要望には出来るだけ答えようと必死に頑張っていた。

ピザが食べたいと言われれば、生地もソースも手作りして。ハロウィンでこんな衣装が欲しいと言われれば、夜中にミシンを踏んで衣装も手作りしていた。

育児休暇中は毎日、育児絵日記を書き、毎日写真を撮って、日々の成長をアルバムに納めていた。

そう、私は育児休暇が終われば、仕事に戻り、子供達と過ごす時間は限られているから。だから、24時間、子供との生活を私も十分に悔いのないようにと過ごしていた。そして夫には手作りのお弁当を愛情込めて作っていた。

家族での旅行もたくさん計画して、お弁当を作り、私が運転をして、色々な場所にも行った。もちろん、子供の情操教育も兼ねて、海外旅行にも行った。

沢山の楽しい思い出を子供に残してあげながら、成長してもらいたいと思っていた。

もちろん勉強も。ただ勉強をするのではなく、色々なことに興味を持って、自分でそれを学ぶ力を養ってあげたくて、博物館や美術館、もちろん図書館にも足しげく通った。


そんな生活を送っていたある日。夫と子供達が私の目の前から忽然と消えた。

理由は今でも分からない。

そしてもう3年になるが、会うことも出来ていない。

もちろん、弁護士を雇い、出来る限りのことはした。

夫のDVに苦しんでいて、相談した時には「早くお子さんを連れて逃げてください」とアドバイスをされたのに、子供にとっては良い父親だと信じていたので、自分さえ耐えればいいと思って、我慢していた。

夫はそんな私のことを知り、先手を打ったのだろう。


子供を失って、私は全ての生き甲斐を失った。

私にとっては、自分の命よりも大切な子供達。その子供たちのいない日々など耐えられようか。


そんな時、色々な人が私を心配して、優しい言葉をたくさんかけてくれた。

「旦那さんと離れられて、良かったじゃない」

「子供はいつか、かならずお母さんのところに戻ってくるよ」

「強く生きてれば、必ず、お子さんともまた会えるから」

「それでも、旦那さんが子供を育てて、今は生きているのだから、大丈夫よ」

「子供達は、きっとあなたに会いたいと思っているはずよ」

どんな言葉も、私の心にズドンと開いた、子供と言う大きな穴を埋めることは出来ず、私は虚無感から、ただただ死にたいと思う日々を過ごしていた。


そして、東京が氷点下になったある日。私はウィスキーを一本と薬を400錠程飲み、川に入水自殺を図った。


虫の知らせか、遠方に住む母からの電話が鳴りやまなかった。もちろん、無視していたが、川に入った時、これが最後だからと電話に出た。

電話の向こうで話しているのは母ではなく、祖母だった。

祖母は取り乱すこともなく、いつもの優しい声で「あなた、今、どこにいるの?」と尋ねてきた。

もう、お酒と薬で意識がなくなっていた私は「川」とだけ言って、切った。

その後の記憶はない。


目が覚めると、そこは病院だった。横には母と叔父が泣いていた。

私の「川」という最後の言葉を頼りに、母は私の従妹に電話をし、従妹が警察に電話をし、大捜索隊によって、私は川の中から救われたそうだ。

氷点下の川の中に居たにも関わらず、私は風邪一つ引かずに、自殺未遂の次の日の午前中には家に戻っていた。

「なんてことだろう、自殺に失敗するなんて」そんな事しか、頭の中にはなかった。


家に帰ると、母は泣きながら私を戒め、

「どうして、こんなにみんなが心配してるのが分からないの?」

「あなたには、ママも妹も叔父さんも、従妹も、そしてたくさんの友達も、心配してくれる人がたくさんいるじゃない?その人たちの気持ちが分からないの?」

と言った。


私は「誰も、私の気持ちを分かる人なんていないじゃない!一番大切なものを失った気持ちが分かる人なんて、いないじゃない!」と泣き叫んだ。


そんな時、静かに、そしていつものように優しい笑顔で「君はすごいねぇ、川の中に居たのに風邪も引かないなんて、強運だよ、おじさん、びっくりしたよ~」と飄々と言っていた伯父が、顔を真っ赤にして、涙を流しながら、こう言った。

「そうだよ。誰一人として、君の気持ちは分からない」

「君みたいにひどい事をされた経験がある人なんて、いない。そして、伯父さんはそんな人を知らない。だから、僕もお母さんも、誰一人、君の気持ちは分からない」

「だけど、「君を助けたい、支えたい」と思っている人、お母さん、おばあちゃん、妹、そしておじさんがいるってことは、分かって欲しい」


その時、私の凍てついてた心が融ける気がした。

「私の気持ちは誰も分からない」という言葉が、心にコツンと当たった感じがした。


他の人の言葉も皆、優しい言葉ばかりだった。

私の気持ちに寄り添いたいと思って、発してくれていた優しい言葉だった。

でも、それは想像上の言葉で、仮定の言葉でもあったように思う。

叔父の言葉は、伯父の心境を語る「真実」の言葉だった。


それまで、色々な言葉を掛けられると、私は「強くならなきゃ」「耐えなければ」と悲しみにくれる自分を戒めていた。

でも、伯父の言葉を聞いて「あぁ、私は悲しんで、苦しんで、泣いて良いんだ」そういう風に思えたのだ。


それから、私は自分の悲しみと向き合うため、カウンセラーの資格を取り、心を平穏に保つために「マインドフルネス」を勉強し、実践し、そして「マインドフルネススペシャリスト」の資格を取った。

人の悲しみや苦しみに寄り添いたい、そういう気持ちは常に強く持っている。しかし、実際のところ、その悲しみや苦しみを、自分自身が味わうことも、ましてや推し量ることも出来ないと思う。

だから、私はカウンセラーとして、そしてマインドフルネスを教える身として、クライエントが「今、必要としている言葉」を届けられるように、耳を傾け、心を出来る限り寄り添わせようと努力している。

寄り添う言葉が、助けになる事も、もちろん多い。

でも、「真実」の言葉が、心をコツンとノックすることを私は知り、今も子供に会えない悲しみと苦しみの中でも、幸せと感謝を感じて生きることが出来ている。



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