「自己肯定感」の呪い
「○日間で自己肯定感を上げる方法」
「私はこれで自己肯定感爆上がりしました」
「自己肯定感が高い人の特徴○選」
ここ数年で、「自己肯定感」という言葉が一人歩きしすぎた感じがする。結果的に、自己肯定とか自己評価とか自己受容とか自己愛とかがこんがらがってよくわかんないまま、「とりあえず自己肯定感上げなくちゃ!」みたいな思考にさせられている人、結構いるんじゃないかなーって思うんです、最近。私、現役大学生の弟がいるんですが、どうやら友達同士で集まったり飲み会に行ったりするとそういう状況によく遭遇するらしく。具体的には「みんなは自己肯定感どのくらい?」から始まり、自称「自己肯定感高い人」が崇拝される・尊敬されるというオチが鉄板で、その構図に対して異様な不気味さを感じると。私もその話を聞いた時、割とゾッとしたんですよ。そもそも君たちその言葉の意味について深く考えたことはあるのか?と、まず突発的に思ってしまった。大体のフワッとした認識の下でそんな議論をしても意味がないどころか、余計なネガやナルシズムを増幅させるきっかけになってしまうだけじゃないのーと思ったのです。
確かに、いわゆる「自己肯定感が高いこと」=「自分のいいところも悪いところも受け入れることが出来ている状態」というのは多くの場合、とても素晴らしいことだと思います。だけど全員がそう在りたいと思う必要なんてあるわけがないし、というのもたとえば世の中の人間全員が自分の悪いところも全て受容したところで、その受容についての認識がバラバラだったら結局どうなるかってことくらいはなんとなくイメージが出来るじゃないですか。つまり、その飲み会に現れた「自称・自己肯定感の高い人」だって、むやみやたらに賞賛されるべき存在であるとは限らないよね?と立ち止まれる思考力は持っていて差し支えないかなと思うのです。
この話を聞いて改めて思ったことは、私たちは取ってつけたような言葉たちに振り回される必要はないし、かといって勝手に落ち込むだけじゃなくて振り回されないためにその言葉やその概念について自力でインプットして、そこから自分の頭で考えて自分の意見を持つ努力をしてないと簡単に飲み込まれるぞ、世の中に蔓延るいろんな種類の呪いに❗️ということ。もっと言うと、この「インプット」もサクッと手に入る情報だけで分かった気になったりそれを鵜呑みにするなんてのはもってのほかで、まずはあらゆる角度から這いつくばって仕入れてみてようやく「考える」フェーズに進めるというか・・たとえばこのnoteだけを読んでなにかを分かった気になったのならそれは大間違いだと思うし、あらゆる呪いに打ち勝つためにはまあまあの根気が必要なので、突然あなたが「爆速で自己肯定感を上げるメソッド」をまねっこしたところで根本的にそれまでの価値観や性格を変えることが出来るのかと言われたら、やはりそれは結構ハードルが高い気がするのです。だからこそ、「楽をしようとせずに知ることと考えること」が大切なのだと思う。
飲み会の話に戻ると、せっかく自己肯定感についておしゃべりするならその概念とか構造について一緒に考えたり共有したりする時間にしたらもっともっと面白くて楽しい時間になるのになって普通に思っちゃうけど、もちろんみんながみんなそう思うわけじゃないということも理解しているし、まあそういう場で頭使いたくないのは私もめっちゃ分かるし居合わせたメンバーがそういうタイプじゃなかったり考え方があまりにも乖離してる人たちだったりしたら尚更テキトーな感じでやり過ごしますけどね、どうせ。それでも心のどこかでどうしても突っかかってしまうのはさすがに性質だからしかたないよねーとも思うし、最近はそんな自分を「受容」するようになりました。何を言いたいかというと、みんなも自分に合った「自分との向き合い方」みたいなものをマイペースに模索したらいいと思いますという、話でした❗️考えることは、今日も楽しいね
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