コンテナ船で旅行をする話 - 本編
はじめに
あなたの職場にある日、
と通達が入ります。当日おかしな英語を喋る中年男性が職場に現れ、特に仕事をする様子もなく、ふらふらと職場を歩き回り時折奇妙な質問を投げかけてきます。迷惑ですよね、私もそう思います。今回、私はこの中年男性「招かざる来賓」としてコンテナ船に乗船しました。
幸いにも船員の方々は温かく迎え入れてくださり、私は不自由なく船上での生活を送ることができました。毎日食事を共にし、興味深い話を聞き、普段は立ち入れないような場所を見学する機会も与えられました。これは私の想定していた期待値を遥かに超えるものでした。一方で世界情勢が刻々と変化する中、交代要員の目処が立たず、乗船も下船も出来ない過酷な状況に立たされた彼らの不安を感じることもありました。(この問題は執筆時点でも継続しています)
この旅行記は、世界が変わりゆくタイミングで偶然乗り合わせたコンテナ船旅行のお話です。以下旅行記となりますが、他の旅行記事同様に淡々と体験したことが並べてあります。緩い旅行の感じが伝われば幸いです。なお、この旅行の準備に興味がある場合には「準備編」を、出国から乗船までに興味がある場合には「待機編」をご覧ください。
記事中の用語:
船橋(せんきょう) ... 船を操作する場所、操船室、ブリッジ。
1. 旅行の概要
1a. コンテナ船の諸元と船員構成
今回乗船したコンテナ船は、2001年に韓国で建造されたAPL SCOTLANDという船です。船の全長は270m、20フィートコンテナを5800個積載可能な中堅サイズのコンテナ船でした。東京近郊にお住まいの方は六本木ヒルズ森タワーを思い浮かべ、縦に二分割した様子を想像ください。出来ましたか。それでは二分割したどちらでも結構ですので、片方をそのまま晴海辺りへ放り込んでください。すると、おおよそ今回のコンテナ船と同じサイズになります。中堅とはいえ巨大ですね。
乗船時の船員構成です。船員は全部で25名、中国国籍が13名、ミャンマー国籍が10名、マレーシア国籍が2名という構成でした。構成比率は数ヶ月ごとの船員乗下船によって変化するようでした。公用語は英語でしたが、管理者の多くが中国語話者であったため、中国語が第二言語として機能していました。船会社は欧州でしたので、私は乗船するまで欧州圏の船員で占められているものと勘違いしていました。
1b. 航路について
準備編でも触れていますが再掲します。今回乗船した船は極東アジアとオーストラリアの主要港を反時計回りに寄港する定期航路でした。
航路は、横浜🇯🇵、大阪🇯🇵、釜山🇰🇷、青島🇨🇳、上海🇨🇳、高雄🇹🇼、メルボルン🇦🇺、シドニー🇦🇺、ブリスベン🇦🇺、そして横浜🇯🇵へと帰る約45日間。私が今回乗船した航路は地図上の青線、ブリスベンから横浜への直行便です。実際の航路は、
にて、確認することができます。この情報は旅行中に緯度経度をスマートフォンのGPSで確認しノートに記していたものです。時々思い出したように行った航海日誌の真似事です。
2. 乗船からカロリン諸島まで(旅程前半)
2a. コンテナ船へ乗船
[2/7 12:00] コンテナ船に備え付けられた鉄製の長い階段「GANGWAY」を登ると、保安担当の人に声を掛けられます。
温かい出迎えといった感じではありませんでしたが、ここはリッツ・カールトンではありません。「私もどうしていいか分からずに登ってきました」と正直に答えます。識別番号(適訳であるかは不明ですが、担当してくださった保安担当はidentification numberと表現されていました)と船員手帳の提示を求められますが、私は旅行者である旨を伝えます。微妙な空気が流れ、ここで待機するように伝えられます。
ほどなく航海士の一人が顔を出し、
と保安担当に説明してくださいます。私は乗船記録にサインし、識別コード欄にはパスポート番号を、階級には旅行者と記し船内に入場します。この際にパスポートを預けるように求められ、この要求に従います。(貨物船では出入国手続きの都合上、パスポートや船員手帳などの身分証明書を船長が一括管理することが一般的であるようです)一連の手続きを行った甲板や船内事務所はコンテナ船到着の遅れを巻き返すためか、人々が慌ただしく往来していました。
薄暗い船内廊下を歩き、部屋へと案内されます。入口のプレートには「SUPERINTENDENT」と刻印があります。どうやら来賓扱いということになるようです。部屋に到着し荷ほどきを始めると、先ほどの航海士が船長と一緒に体温計を持ってやってきます。「ようこそ」という言葉があったかは覚えていませんが、
という依頼があったことはよく覚えています。また、体温測定中に体調に異変がないか、幾つか質問を受けます。体温が問題ないことを確認すると少し安堵した表情で「夕食は17:00から食堂で提供される」とだけ私に伝え、各々の持ち場へ戻っていきました。
部屋の窓からは、長いコンテナが往来する様子が見えました。
目の前を通過するトローリー。(コンテナを固定する輸送部分)これだけで旅行の元を取った気分でした。
どうやら、無事に乗船手続きを終えたようでした。前日からの緊張もあり、コンテナ積込作業の観覧も程々にベッドで眠りに落ちます。17:00手前に設定したアラームで目を覚まします。
[2/7 17:00] 夕方から天候は崩れ、食堂の窓から見える港湾施設は雨に滲んでいました。食堂で中華料理を食べながら船長と言葉を交わしていると「船は19:00に出港する」と短い説明を受けます。聞き間違いかと思い確認しましたが、やはり二時間後に出港とのことでした。
現地代理店からは翌日の14:00出港と連絡を受けていました。私は当初、翌日の正午に乗船という選択肢も検討していたのです。もしコンテナ船への乗船を翌日に設定していた場合、おそらく乗船できていなかったでしょう。幸運でした。
また、この食事中に船長から嬉しい申し出がありました。船橋(船を操船する設備がある部屋)へは、当直の航海士に確認を取れば24時間自由に入室して構わないというものでした。船橋には多数の重要な設備があり、船員であっても許可なく入室が制限される区画です。「何度か見学ができれば幸運だな」程度の期待値であったので、この待遇には驚きました。
2b. 船橋へ入室、出港
[2/7 18:30] 船橋へ入室すると目の前に開けた風景が広がります。出港準備中の船員の邪魔にならぬよう作業導線の外、左舷側の開けたスペースに小さく陣取ります。ここで私にもう一つの幸運が訪れます。私の横に水先案内人が携帯タブレット端末を開き作業を始めたのでした。こうした例えが正しいかはわかりませんが、
といった衝撃に近いものがありました。ブリスベン出港から水路の出口であるカラウンドラまでの約三時間、私はこの特等席で水先案内人の運用を見学することが出来ました。
自分のスマートフォンに入れていた海図ソフトを眺めながら、水先案内人の出す指示を傾聴します。
[2/7 19:00] 画面奥に見える小型コンテナ船が出港したことを確認し、船が離岸を始めます。船橋内は英語、中国語で指示が飛び交い緊迫した空気が伝わってきます。
目前の大型コンテナ船が視界の右側へとゆっくりと移動を始めます。船が離岸していることを感じます。水先案内人から「微速前進」という指示が入り、航海士がこれを復唱し応じます。出港です。
[2/7 19:30] 振り返ると、先ほどまで真横に見えていたガントリークレーン群が、コンテナ港の照明を背負い輝いていました。船の煙突を見上げると、排煙に細かな火の粉が混ざります。エンジンが力強い一定間隔のリズムを刻み、前進していることを感じます。
雨が上がり月光が海面を照らします。北に進路があるにもかかわらず、視界を月がゆっくりと横切り自分が南半球にいることを思い出します。海上には航路標識とよばれる浮標が時々見えます。
ここまでの移動です。画面左下がブリスベン貨物港です。港から沿岸海域を抜けるまでは浅瀬が多く、大型のコンテナ船が往来できる水域は僅かです。水先案内人はこの水路を熟知し、航海士に指示を出していきます。今でこそディスプレイに表示されるGPS情報を元に正確な運行が行われていますが、これは長い歴史の中でごく最近のことです。ほんの少し前まで、航海士と水先案内人は海図に線を引き、機械式時計の秒針を睨み、速度を計算し進路指示をしていたのでしょう。実に情緒があります。
地図上の緑と赤の印は航路標識です。緑三角が右舷灯標、赤四角が左舷灯標です。これは日本や米国と逆です。この問題は19世紀末から統一が検討されていたようですが、約150年が経過した現在も統一されていません。
[2/7 22:30] 出港から三時間後、水路の出口付近(地図上の上部、カラウンドラ付近)まで進むと水先案内人の迎え船がやってきます。「横浜までの旅行を楽しんで、良い航海を」と声をかけていただき、彼は下船していきました。
船橋にあった本物の航海用電子海図です。ちょうどコンテナ船から離れる水先案内人の乗った船「TEMPEST」が写っています。ここから先は陸上から離れ、一路横浜を目指します。それにしても船にTEMPEST(ひどい嵐)という名前をつける船主のセンスもなかなかです。
2c. オーストラリア沖合からカロリン諸島までの数日間
食事の時以外、私は多くの時間を船橋で過ごしました。
夜明け前に船橋に移動し朝日を眺め、朝食後にここで中国緑茶を飲み、思いついたことや緯度経度をノートに記し、日が沈むまでぼんやりと海を眺めました。仕事の邪魔にならぬよう、私から船員へ直接話しかけることは極力控え、向こうから私に話しかけてくるまで待ちました。
船橋からの眺めです。海面から甲板までの高さは約8階分、その上に8階建の居住区画がありますので、おおよそ16階建ビル屋上からの眺めと同様です。出港から数日間は天候に恵まれ、船は珊瑚海を北上しソロモン海を順調に目指します。赤道へ近づくにつれ、日差しが鋭利に変化していくことを感じます。
夕方になり日が沈むと月が見えます。やがて濃い闇が訪れ、船橋にある計器が遠慮がちに光を放ち始めます。夕食後から就寝まで、私はここで航海士と話をすることが日課となりました。
海図を含め多くの情報は電子化されていましたが、航海日誌だけは当直の航海士が手書きで記していました。博物館で見たことのある美しい筆記体の航海日誌とは異なり、ブロック体と簡素な英文で記されていたのが印象的でした。
夜明け前に再び船橋を訪れ、西空に沈む月や、東空が白むのを毎日眺めました。「毎日こんな風景を眺めていると飽きてしまうだろう」と航海士からのからかいに「業務として毎日であれば流石に飽きるかもしれません」と返しますが、その気移りが起こるのか今ひとつ自信が持てません。
空調の効いた船橋から外部へと通じる水密扉を開くと、熱い空気の塊を感じ自分が熱帯にいることに気付きます。コンテナに反射する夜明けの色がとても良かった。
朝日がコンテナと海面を照らします。見下ろすと白波が輝いている様子が見えました。
気象通報では東側に発達した低気圧があり、赤道手前で雷雨予報が出ていました。ディスプレイに表示された赤線が船の進路予定です。
予報の通り赤道付近では断続的に海が荒れました。ガラスに海水の飛沫が付着、結晶化し白い模様を作り出していました。それは真冬に窓ガラスを覆う霜の花のようでした。「普段はこの海域は穏やかで、時々海面が鏡のようになるんだけれども」と航海士は説明してくださいますが、船体は左右前後と不均一に揺れ続けます。
[2/10 18:30] ブリスベン港を出港してから4日目の夕方。左舷側水平線近くにルイジアード諸島に属するロッセル島を認めます。ここから数日、また陸の見えない航路が続きます。
夕方飛行機に乗っていると昼夜の境界線、地球の影を目にすることがあります。海上でも昼夜の境界線を何度も目にしました。
[2/12 5:30] 船はパプアニューギニア北東に位置するリアール島付近を通過します。上空にはローター雲が見え、鳥の群れが気流を捕まえゆっくりと上昇していました。
[2/12 21:35] 航海から5日目、船は赤道を通過します。ディスプレイに表示された海域名が「南太平洋」から「北太平洋」へと変化します。
船橋から外に出て空を見上げると、空には無数の星とその間を走る人工衛星が見えました。ここがゴビ砂漠やキリマンジャロであっても、きっと同様に無数の星と人工衛星が見え、その気になれば知人にメッセージも送信できるのでしょう。
というように。現実に私のスマートフォンはWi-Fiに接続され、衛星回線を通じてインターネットに接続されていました。機材さえ整えば、地球上でインターネットへ接続出来ない場所など最早存在しないのかもしれません。それは、少し寂しくもあります。
ここまでがカロリン諸島辺りまでの旅程記です。ここからは船内での興味深い体験を章ごとにまとめてあります。
3. 船内での日常生活
3a. 築20年、8階建雑居ビルでの生活
船内に一歩足を踏み入れるとそこは中国でした。廊下には春節を祝う飾り付けがあり、船内放送は英語に混じり中国語が聞こえ、厨房からは八角や花椒の匂いが漂います。錦糸町辺りの雑居ビルに迷い込んだような気分です。私はこの雑居ビルの503号室に部屋を借り、船内生活を始めます。
室内です。室内は一片が4.3m程度の正方形、約18.5平米(10畳)の大きさがありました。階級が高い船員は同面積の部屋が割り当てられていました。
部屋には一通りの機能、トイレ、シャワー、ベッド、それから冷蔵庫やクローゼットが完備されていました。調度品はどれも簡素な造りで、船体が揺れた際に移動しないよう床に固定されていました。
海が時化ると貯水タンク内の錆が舞うようで、シャワーの湯が茶色く濁ることがありました。他の船員に聞いてみると「造船から20年も経過しているから結構オンボロなんだ」と返ってきます。人里離れた宿舎を間借りしている感じがあり、こうした不便も悪くありません。お湯自体は熱く特別不満はありませんでした。
到着時点では見事な眺望がありましたが、
出発前にはコンテナが積み上がり、外の様子は見えなくなりました。残念。
眺望はありませんでしたが、自室での時間も悪くないものでした。机に向かいノートに出来事を記したり、持ち込んだKindle Paperwhiteで古い小説を読んだりしていました。ミャンマー国籍の船員が遊びに来て、簡単な日本語を教えたりしたこともありました。
以下、各階の構成です。居住区は8階建でした。
階級に関わらず全ての船員には個室が割り当てられていました。船によっては煙草や菓子を購入できる売店が存在するようですが、乗船した船には存在しませんでした。少し多めに米ドルを作っていっただけに拍子抜けしてしまいます。
居住区にはエレベーターが用意されていましたが、扉の機構がうまく理解できず、私一人で使うことはありませんでした。居住区には階段もあり、陸上のそれと変わりありませんでした。
安全上の理由によって、基本的には居住区の外に出ることは許されていませんでした。船橋で過ごす以外に特別用事もないため、私は時々この雑居ビル内をふらふらと散歩しました。
散歩の途中、手すりに船員の洗濯物が干していていたり、船室のドアが開け放たれて音楽が聞こえる部屋があり、陸上での寮生活とあまり変わらない印象を受けました。
3b. 船員の日常生活(船内生活)
日常のシフトについて
船員の業務は大きく3つの部門に分かれていました。航海、機関、そして厨房です。航海(操船を担当する)の人々は、以下の3チームで編成されていました。
船会社によって異なるようですが、集中力の問題から一回の業務時間は4時間程度と定められていました。石油やガスなど危険物を運搬する船舶では、時間がより短く調整される場合もあるようです。また、入出港の際は業務量が増えるため増員がありました。
機関(エンジンの保守を担当する)の人々はどのような労働体系になっているか聞きそびれてしまいましたが、多くの船員は9-17時で働いているものと推測しています。この理由は、
といった状況の推察からです。厨房に関しては後述します。
ところで、時差が発生した際の当直がどのように運用されるか気になりませんか。この点について質問してみました。「コンテナ船は定期航路を回遊している。行きの航路で進んだ(または遅れた)分は、帰りの航路で遅れる(または進む)ので労務上は問題がない」と回答をもらいます。実にロジカルです。
時差といえば船内時計には面白い仕掛けがありました。時計は中央で集中制御され、時差変更を一括で行うことが可能でした。(時計から伸びるケーブルは調整用の信号線です)
乗船期間について
乗船期間は階級(船長などの要職であるか、一般船員であるか)によっても異なるようです。一度の航海でおおよそ3-4ヶ月乗船することになり、乗船時にシフトが割り当てられると、基本的には下船まで同じシフトで働くとのことでした。航路によっては日数は前後しますが、中国国籍の一般船員であれば、以下のようなシフトモデルになるようです。
雇用された国によって雇用形態が異なるため、同じ会社、同じ船に乗船していても年間の労働日数は変化するようでした。例えば、欧州で雇用された船員であれば、年間の半分は休暇というケースもあるようです。廊下に張り出されていた労務掲示には「except French crew」といったように、適用される船員の雇用国範囲が説明されたものもありました。
海上(公海上)での労働基準については、各船会社が自由に決められるものではなく、ILO(国際労働機関)の定めた「海上の労働に関する条約」という国際条約に基づいています。日本語にも訳されているので、興味がある方はご一読ください。
非番の時間
船内を散歩していると、時々部屋の扉が開かれ中から楽しそうな声が聞こえてきました。声をかけてみると、ノートPCにインストールしたゲームで対戦をしていると画面を見せてくれます。部屋を見渡すと書籍やスナック菓子の袋、畳まれてない洗濯物などが見え、大学寮に暮らす知人を尋ねたような懐かしさがありました。非番中の彼らはどこにでもいる普通の青年に見えました。
夕食後の遊戯室では卓球や麻雀を楽しむ船員の姿がありました。職位を超え大声で麻雀に興ずる光景は、船員同士の信頼関係が伝わってきます。正月に親戚の家に集う人々のようです。
厨房の彼は楽器を持ち込んでいました。夕食後に遊戯室前を通ると、時々彼の練習が聞こえてきます。毎晩仕事後にアコースティックギターを奏でるとは、何とも恰好が良いではありませんか。
船員が利用可能なWi-Fi環境
船内には衛星通信を利用したWi-Fi環境が開かれていました。Wi-Fi環境は船舶の運用以外にも、船員が家族や知人と連絡をとる手段として、また娯楽設備として機能していました。回線は、
が用意され、通信状況に応じ動的に選択されていました。イリジウムは非常通信用のGMDSS機器としても利用が予定されているようでした。(乗船時点では非常通信機器としての運用は開始されていませんでした)
この写真は屋上に設置されたMaritime VSATアンテナです。暴風などの影響がないよう、ドームカバー内に衛星を追尾するパラボラアンテナが設置されています。ここから軌道上の人工衛星にデータが転送され、陸上衛星基地局からインターネットへと接続されます。
衛星回線といっても船内Wi-Fiを利用時に特別な設定は不要です。基本的には街中の公衆Wi-Fiと同様です。Wi-Fi接続時にキャプティブポータル(ログイン画面)が表示され、ここに管理者から付与されたID/PWを入力し利用可能となります。公衆Wi-Fiと異なる点は通信が従量課金である点です。50米ドルで約700MBでした。一般的な旅行者向けプリペイドSIMの通信料金と比較すると、3倍以上と高額です。
通信速度はアナログモデム(56k)程度で、動画や写真などを利用するには不向きな通信環境でした。こうした理由から、船員間で通信量を抑える設定やコツが共有されていました。
私は大半の通信(Webブラウズやメール、LINEなどのメッセージングソフト)を早々に諦め、Twitter経由で友人と連絡とり、ニュースなどの情報を入手していました。同サービスは設定次第で一度に取得する情報が数百KBまで切り詰めることが可能であることに気づいたためです。過酷な通信環境への来訪時にはTwitterは非常に強力なツールになると感じた瞬間でした。(スクリーンショットはポータル上の通信履歴を確認する画面です)
なお、船員が利用するスマートフォンは100% Androidでした。Apple社製のiPhoneは、端末が高価であるという理由の他にも、最近まで省データモードが存在せず、Wi-Fi利用時に大量の通信が予期せず発生する不可解な端末として嫌厭されていました。(私はiPhoneを利用していますが、省データモードがなければ困難な状況に直面していたと思います)
4. 船内での食事
4a. 日々の食事
外界から完全に隔絶された船内では、食事が重要な意味を持つことが容易に想像できます。私自身、毎回の食事は楽しみでした。食事は旅行約款に記されていた通り日に3回、朝食は7時、昼食は12時、夕食は19時から、食堂でブッフェ形式にて供されました。
船内には食堂が二つあり、航海士・機関士などの職位を持ったいわゆる士官の部屋、一般階級の部屋に分かれていました。士官の部屋ではさらに上級の職位を持った人々が座る円卓が別にあり、船長、一等航海士、一等機関士といった人々がそこで食事をしていました。私は来賓という扱いでしたので、円卓に座り船長と一緒に食事をとりました。ブッフェ形式ですので盛り付けこそ自分で行うのですが、デザートの果物や飲み物などの配膳などは給仕が行います。北海道弁で表現するならば「あずましくない」感じです。
士官クラスの人々の大半は中国国籍でしたので、食事中に交わされる言語は中国語です。残念ながら中国語はわかりませんので、ぼんやりとその音の響きを聞くに留まります。時々船長が気遣って英語で話しかけてくれるのですが、緊張しなかなか会話は続きません。正直に白状してしまうと、私としては一般階級の部屋でミャンマー国籍の人々と英語で食事をしていた方が楽しそうだなと感じてしまいました。ともあれ、船側の来賓への配慮です。快く引き受けることにします。
船には厨房担当が2名乗船していました。調理を専門に行う料理人(階級にはChief Cookとありました)、それから食事を提供する給仕人(階級にはSteward Messmanとありました)の2名です。彼らが一日3回、25名分の料理を作っていました。写真は給仕人が下準備をしている様子です。彼は給仕だけではなく、調理の下準備や日常の清掃なども担当していました。
(給仕を専門に行う人に対し、Stewardという単語があることは知っていましたが、船内で給仕する人を特にMessmanと表現することを知りませんでした。現場で生きている単語を知るのは何だかいいですよね)
12日分のプレートを並べてみました。改めて眺めると全体的に茶色く、肉体労働の職場といった印象を受けます。味付けは濃く、船中の多数を占める中国やミャンマーの人々が好む味付けとなっていました。肉料理は唐辛子や八角がたっぷりと使用され、炊き込みご飯(ビリヤニ)はナツメグ、クミン、カルダモン、コリアンダーといった香辛料が香るものでした。私の一番のお気に入りは羊肉の煮込みでした。
朝食には必ず粥が供される点も中華圏の食卓だなという印象を受けます。私は白粥をそのまま食べていましたが、他の船員は黒酢を入れたり、魚醤をかけたり、生の刻み大蒜を散らしたりと各々に楽しんでいました。船員の国籍によっては、例えば東欧の人々が多ければ黒パンが供されたり、ラテンアメリカであればタコスがあったりと、どの船でも「故郷の味」が振舞われるようです。
調味料で興味深いなと感じた点は、食卓に生の大蒜も置かれていることでした。どのように使うのかは聞きそびれてしまったのですが、そのまま齧るのではと推測しています。(中国北方地域ではそのまま大蒜を齧る食文化があるようです)
また、私の船はシンガポール船籍で飲酒は厳禁でしたが、イギリス船籍の船ではパブがあり、夕方にはビールを飲むことができるケースもあると聞きました。イギリスからインドを走る貨物船で飲むIPA(インディア・ペールエール)はきっと最高でしょうね。
4b. レクリエーションとしての食事
どの船でも行われているかは定かではありませんが、乗船した船では土曜の夕食は「非番の船員が皆で食事を作り、皆で食事を食べる」という文化がありました。私は乗船中に二度の土曜日を迎え、餃子、火鍋を一緒に作り食べました。
餃子の日 (Dumpling Day)
「Happy Lantern Festival!」と食堂横のホワイトボードに書かれています。これは元宵節というイベントで、中華圏では春節(正月)の終わりを告げる重要な催しであるそうです。中国では家族総出で餃子を作り、幸せを願う縁起物として食べると船員から説明を受けます。
土曜の夕方が近づくと、士官の食堂に非番の船員たちが集まり始めます。餃子は皮から作り始めます。
餃子を皆で包んでいきます。彼は上手に包めたようですね。
流石というべきか、みなさん上手。
「日本では焼餃子が人気なんだよね」と、水餃子の他に焼餃子も調理してくださいます。心遣いがとても嬉しい。ところで本場の人々はどのように餃子の「たれ」を作っているか気になりませんか。私はずっと気になっていました。この船では、胡麻油、生の刻んだ大蒜、黒酢、魚醤を混ぜたものに浸して食べていました。
火鍋の日 (Hotpot day)
翌週の土曜日は火鍋が振舞われました。日本でも中国資本のチェーン店が出店しているので随分と身近になった印象を受けますが、一応補足しておきます。火鍋とは、薬膳スープで行う羊のしゃぶしゃぶです。
非番の船員が厨房に入り下準備を整えます。写真は羊肉をスライスしている様子です。
火鍋に使う「特製のつけだれ」にはこだわりを感じました。殻をむいた落花生をフライパンで煎り丁寧に薄皮を剥きます。その後写真の石臼で粗くすり潰します。「なぜグラインダーを使わないのか」と尋ねると「グラインダーを使うと豆から余分な油が出る。石臼に限るよ」と返されます。確かに、仕上がった落花生粉は油気がなくパラパラとしていました。
これほどこだわるのだ、火鍋のスープも全て香辛料から作るのだろう、と勝手に期待していましたが、そんなことはありませんでした。考えてみれば私達もカレーを作る際、大抵は市販のルーを使いますよね。
グラグラと煮立つ鍋に羊肉や海老を入れていきます。写真を見返している際に気付いたのですが、ここでは鍋に野菜を入れるという概念が存在しないように見受けられます。
「火鍋にはビールがぴったりだろうな」と考えながら簡体字で書かれたコカコーラをすすります。日本のものよりも少し炭酸が弱く甘い印象を受けます。または、ただ単純に炭酸が抜けているだけかもしれません。異なる文化圏にいるのだなと改めて感じます。
船内でこうした船員同士のレクリエーションに参加できるとは想像していませんでした。私は給仕されて食べる食事よりも、このように皆で和やかに食べる方が心地よいものでした。
5. 安全衛生と避難訓練
タイタニック号という沈没した豪華客船をご存知でしょうか。レオナルド・ディカプリオ主演の映画「タイタニック」で、ご存知の方も多いと思います。この客船は氷山に接触し沈没、結果的に1,500人の命が失われる悲劇を迎えますが、多数の人命が失われた要因として「当時、国際社会に於いて適切な取り決めが存在していなかったため、救助が遅延した」という点が挙げられています。
国際社会はこの厳しい教訓からSOLAS条約(海上における人命の安全のための国際条約)を定めます。条約はその後発生する幾多の海難による洗礼を受け、改定が図られながら今日もなお機能しています。私はこのSOLAS条約 第III項 19. Emergency training and drills に明記される、
及び、
に基づき、
a. 安全衛生に関する講習(Familiarity with safety installation)と、
b. 実際の避難訓練(Drill)を乗船中に体験しました。
5a. 安全衛生に関する講習
上記規定通り、乗船後すぐに「安全衛生に関する講習」を担当航海士から受けることとなりました。安全衛生に関する情報(船員は全員、安全に関する役割を持っています)は、各部屋の扉に掲示され誰でも確認することが出来ました。この写真は私の部屋に掲示された情報です。名前の他に、
といった各種情報が含まれています。RANK(階級)が記される場所もあり、私の場合にはPASSENGER(旅行者)と印字がありました。当然ではありますが、他室の掲示を見ると船内での階級が記されていました。
講習は、現実に即した場所での説明を受けます。例えば、救命ボートであれば実際に乗船し、エンジン始動までの作業確認を行います。
船橋から見た救命ボート。折り畳まれた(円筒形の白い筒)救命いかだも見えます。
退船時の場合同様、非常階段から救命ボートへ接近します。
救命ボート入口は狭く、大人がやっと通ることのできる程度でした。大柄な船員には厳しいサイズにも見えます。船から救命ボートを離脱させるためのクレーン操作説明も受けますが、この操作は複雑で覚えていません。
救命ボートのコックピットです。ここでエンジン始動方法、操船に関しての説明を受けます。この辺りは小型船舶と相違がなく私でも操船可能な印象を受けます。
救命ボートの内部は暗く体を固定するための縛帯が壁に打ち付けられています。シート部分には割当番号が見えます。船内には「スカッパ」と呼ばれる排水孔があり、これを閉め忘れないことと説明を受けます。(閉め忘れると救命ボートは沈没します)また「ビルジポンプ」とよばれる排水ポンプの操作の説明を受けます。これらの専門単語は小型船舶免許を取得する際に学習したものと同一でした。免許取得がこのような形で生きるとは想像していませんでした。
救命ボートなどの機材説明と併せ、避難手順だけではなく火災時に利用される機器についても説明を受けます。例えば荷室で火災が発生した際の不活性ガス展開手順といったものです。この辺りの説明は「操作を間違えると誰かが死ぬ」という説明が度々入ります。
消火活動の際、何かを操作するパネルであったことは確かなのですが具体的な操作手順などは記憶にありません。「一応説明するが、お前は触るな」という感じでした。もちろん、触りません。
船横に設けられた消火手順書の容器です。船内の地図がこの筒中に含まれており、緊急時にはこれを確認するとのことです。海水の影響を受けないよう蓋がしっかりと目張りされていました。
訓練後に操船室で筒の中身を見せてもらう機会がありました。青図には船内の消火設備について細かく記されていました。この青図、持ち帰り額に入れて飾りたい。
これらの説明を受けた後、安全に関する確認テストを受け、船長からの署名を貰い晴れて安全手順の講習を受けたと認められます。船員全てがこの手順を踏み安全について確認が行われているようでした。
5b. 避難訓練
乗船から10日を経過した頃、昼食を終え自室で寛いでいる際に警報と非常事態を知らせる警笛が鳴り、船長からのアナウンスが入ります。
イマージョンスーツとよばれる耐暴露服を持ち、救命胴衣を身に付け、私の集合場所である船橋に移動します。(スーツはビニール袋で覆われており、一旦袋を開けてしまうと交換が必要になるとのことでした。興味本位で開けずによかった)
船橋では既に消火活動の手順が進められていました。無線を通じエンジン担当(機関部)と連携を図りながら消火活動の手順を確認していきます。船橋横には消火放水パイプの水圧計も備具されており、訓練時には針が振れていました。(写真の針は0を示しています)
消火活動の確認が終えると、船長より退船命令が下されます。私もヘルメットと救命備具を持ち、居住区画から船体横にある救命ボートに移動します。救命ボート付近では乗船時に受講した手順が再確認されていました。(訓練中の撮影は控えていたため、写真はありません)
訓練後の報告会(debriefing)も含め訓練なのか、何故か私も参加することが出来ました。船橋に全員が集められ、今日の訓練における良い点や、改善すべき点をそれぞれが意見交換していました。また、24時間運行しているスケジュールで一同が会すことは珍しいのでしょう、途中からは全体会議を兼ねていました。
といった、日常の伝達事項が船長から船員へ伝えられていました。(過去には、あまりに部屋が汚く船長命令で下船された船員もいるようです。いい大人を注意する船長も大変です)
報告会を通じ、船長は繰り返し「航海中は一度火災が発生すると逃げ場がない。船内には動力・発電施設、大量の燃料を抱える以上、火災は遠い危険ではない」ということを説明していました。船員は現実に存在するリスクとして訓練に向きあっていたことが印象的でした。
6. 船橋見学
私にコンテナ船での旅行を決意させたきっかけは、国際流通への興味の他に、数年前に取得した三海通(大型船舶で利用される無線機器を操作するための免許)の資格も大きく影響しています。
この試験勉強では、陸上では目にすることのない多くの通信機器が範囲となり、大型船舶の乗船経験がない私にとってはYoutubeなどの動画サイトでしか確認する術がありませんでした。資格取得後に総務省の行う訓練にも参加し一通り実機を操作したのですが、今ひとつ私の好奇心を満足させるものではありませんでした。
陸上で見ることができないのであれば仕方ありません。貨物船に乗る方法はないだろうかと調査を開始します。私にとって大型貨物船への乗船、とりわけ船橋の見学は数年越しの求知が叶う体験であったのです。
6a. 操船機器と航海計器
船橋にある機器を全て並べることは出来ませんので、幾つか興味を惹いた機器の写真を並べています。
船のアクセルに相当する「エンジンテレグラフ」とよばれるレバーです。前に倒すと前進(AHEAD)、後ろに引くと後進(ASTERN)です。
エンジンテレグラフの横には本物の縦振れ電鍵(テレグラフキー)がありました。近くに通信周波数設定用のパネルなどがなかったことから、機関室との緊急通信用の電鍵であると推測していたのですが、これについては質問し忘れてしまいました。(ご存知の方がいらっしゃいましたら是非お知らせください)
操舵輪です。自動車ハンドルのような遊びはなく、少し傾けるだけでしっかりと舵が切れます。操舵輪の上部にはどれだけ舵を切ったのかが分かる目盛りがあります。白黒のディズニー映画で見るような、クルクルと操舵輪を回すものではありませんでした。入出港の際にはこの操舵輪を利用していましたが、外洋を走行中には自動運転用のジョグダイアルを利用し操船していました。
これがそのジョグダイアルです。操舵輪側のスイッチを切り替えると、この小さなダイアルで操船することができます。ディスプレイに表示されている350.4が現在の船首の向き、その下の349が設定している船首の向きです。
遭難を知らせる周波数が設定されている無線機です。世界中の船でこの周波数帯を24時間絶え間なく聴取し、皆で助け合おうという精神で運用されています。そういえばこの旅行中に遭難を知らせるメッセージを受信していました。距離が離れているために直接出向くことはありませんでしたが、船橋で聞くアラーム音は緊張するものでした。
インマルサット衛星から受信した気象通報です。写真のようにドットインパクトプリンタで出力され、重要な情報は日誌へ転記しているようでした。
ECDIS(航海用電子海図)です。隣接する船舶や、海域、自船の各種情報が表示される端末です。取得情報は下層階に設置されたサーバに集積されているようでした。故障に備えECDISを二重化していれば、紙の海図は不要になるとのことです。
紙の海図も備具しているのかを聞いてみました。「一応ある」と寄港地周辺の海図を引っ張り出してくれます。ほとんど使われることはないそうですが、念のため紙も用意しているそうです。
船橋の出入口にはレーダートランスポンダがありました。電源を入れると他船のレーダー上に12個の輝点として現れます。非常時に持ち出し、救命ボートや救命いかだの天井に取り付け利用されます。
中央に見える白い涙滴型のケース内には、緊急時に利用するEPIRB(イパーブ)が格納されています。この機械もトランスポンダ同様に非常時に持ち出すものです。電源を投入するとCOSPAS-SARSAT(コスパス・サーサット)衛星に位置情報を発信します。
昔ながらの計器も船内で見つけました。船が左右にどの程度傾いたかを確認することができるクリノメーターです。傾斜角を含め船の挙動は全て船内サーバに保存されていますが、こうしたアナログ機器も残っていました。
昼の船橋ももちろん良いのですが夜は格別です。船橋は通常、消灯状態で運用されます。これは船橋から外界をよく観察することができるようにという配慮からです。暗闇の船橋に光る航海計器は格好良い。
外洋ではXバンドレーダーは12海里に設定し運用されていました。これは先ほど記した、レーダートランスポンダ(SART)の輝点を視認しやすいようにとのことでした。
操舵輪の上に表示されるコンパスです。橙色の白熱球色がグッときます。船橋には多くの機材が並んでいましたが、主要な製造元は日本無線、横河電機といった日本のメーカーでした。
6b. 六分儀について
当直中の航海士と話をしている中で「この船には六分儀は備具されているか」と質問したことがありました。現在は必須ではないものの、船には金属製の六分儀がありました。
私も道楽でプラスチック製の六分儀を買い使い方の練習をしたことがあり、多少の操作ができます。しかしやはり航海士が手慣れた手つきで操作する姿は「海の男」という感じがしてグッときます。「こんな感じで使うんだよ」と基本的な操作方法を説明してくださいます。
その後、測定した値から観測位置高などを加味し、天測暦とよばれる数値が並んだ書籍を利用しながら位置情報を割り出していきます。「GPSが止まったらこんな大きな船は動かしたくもないけれど、一応そういうことがあっても運用できるように計算は出来るよ」と少し誇らしげに説明くださいます。どこかで読んだ本に書かれていたように、六分儀は懐古趣味の玩具ではなく、一つの選択肢として現在も重要な価値を持つようです。
6c. 修正用磁棹の調整
船橋の天井には汽笛レバーが見えました。正午になると当直の航海士がこのレバーを引き「ボッ」という短い汽笛を鳴らし、お昼を伝えます。(私も正午の「ボッ」を一度だけ体験させてもらいました)
が、今回のお話は汽笛ではなく奥に見える黒筒です。この黒筒はちょうど操舵輪(船を操作するためのハンドル)の直上にあり、筒の端には鏡が取り付けられています。何の筒であるかを航海士へ質問すると、
と回答を受けます。何故、屋上にある磁気コンパスを船橋から確認する必要があるのでしょうか。それは船橋の特別な事情からのようです。ちょうど磁気コンパスを調整する機会があり、特別に本体を見せてもらえることになりました。
これが操舵輪の直上にある磁気コンパスです。普段は後ろに見える橙色のビニールシートで覆われています。何故屋上にあるのかは「詳説 航海計器」の説明が秀逸でしたので引用します。
船橋には多くの電子機器があり、また船橋自体が鉄製であるため磁気コンパスの設置に適当な場所ではありません。このため、船橋屋上に磁気コンパスを設置し、天井穴(黒筒)を通じて磁石を確認する方法が一般的であるようです。両脇に見える鉄球は、コンパスに与える水平方向の磁気を打ち消す調整部品です。
上部のコンパスカバーを開けると、黄色いコンパス液(凍結を防ぐためにアルコール40%、蒸留水60%の混合液だそうです)が満たされているのが見えます。ここに気泡が入っていないこと(漏えいがないこと)を確認しています。
磁気コンパスの調整口を開きます。内部には修正用磁棹(Heeling Magnet)という永久磁石が設置されています。この磁石は磁気コンパス直下に設置されており、周囲から発生する鉛直方向の磁気を打ち消すために利用されています。
これが修正用磁棹です。南半球では赤印を上に、北半球では青印を上に、ぶら下げます。今回必要であった「磁気コンパスの調整」とは、この磁石を反転する作業でした。赤道を挟み南北を移動する船に求められる儀式です。
折角ですのでコンパスの裏側を覗いてみます。この文字盤を船橋から黒筒を通して確認します。文字盤をよく見ると鏡文字で印字されています。これは鏡を利用して文字を確認するためです。磁気コンパスは普段の運行で常用されることはなく専らジャイロコンパスということでしたが、六分儀同様に一つの選択肢として日々調整が行われていました。
7. 貨物室見学
乗船から一週間ほど経過した頃、船橋でいつものようにお茶を飲みながら海を眺めていた時のことでした。航海士の一人から、
と誘いを受けます。もちろん、断る理由はありません。ヘルメットを部屋から持ち出し指定された区画へと移動します。
空調の効いた居住区画から貨物区画へ移動すると、金属船体を通して温められた熱気を感じます。壁面の右側にはFWD(前方)、左側にはAFT(後方)と文字があります。掲示の通りPORT(左舷側)という認識で間違いないようです。FWDへの通路を歩き始めます。
船体横の通路を船首側へ200mほど歩きます。多くのバルブやいくつもの水密扉をくぐり、船首付近の目的地を目指します。途中、何人か見慣れた顔とすれ違い、互いに軽く手をあげます。
貨物区画にはこのような階段が多数ありました。
船首付近の特別貨物室に到着です。特別貨物室には巨大なクルーザーが貨物ストラップにより固定されていました。クルーザーは新品家電製品のように薄いビニールで覆われていました。「生涯年収を払っても買えない金額だね」と、船員と言葉を交わしニヤリと笑います。
船員は緩みがないか全てのストラップを確認していきます。天井屋根から落ちる光や現実感のないコンテナの大きさは宗教的で、私はこの見学中ずっと古代遺跡を連想していました。
検査を終えると再び居住区画へ戻ります。反射する光が勇ましい。
貨物区画から居住区画に入る通路で緑十字を見つけます。緑十字は万国共通と思っていたのですが、Wikipediaによると「日本において」安全指導を示す印であるとのことでした。造船は韓国ですので、安全に関する取組み(考え方)が輸出されているのかもしれません。
8. 機関室見学
貨物室見学をきっかけに「機関室(エンジンルーム)を見学することは可能だろうか」と船長に思いきって相談してみます。「機関室内は危険であるので、十分に注意するように」と前置きがあり、特別に見学の許可をいただきました。見学は翌朝、楽しみでなかなか眠ることができませんでした。
機関室へは居住区下層から入室します。
最初はメインエンジンの操作室でした。新しく造船される船は皆ディスプレイ表示に置き換わっているとのことですが、この船は指針式のアナログメーターが並びます。個人的にはこちらの方が好みです。制御卓には水性サインペンが用意されており、ホワイトボードのように卓に直接書込みを行っていました。アナログな方法ではありますが、秀逸なUIです。
右側に見える黒いレバーが、船橋見学もあった船のアクセル「テレグラフ」です。通常は操舵室からの操作となりますが、非常時にはこの部屋から、また最終的にはエンジン横で手動でも調整が可能であるとのことでした。
エンジンルーム入室です。
イヤーマフを装着し降下します。見学は機関長が直々に案内してくださいました。全く予想していなかった破格の待遇です。
メインエンジンです。12本のピストンが直列に配置されています。カバー上部に見える黄色いリングは、整備時に吊るすためのリングフックであるようです。天井にはエンジンと並行にクレーンレールが設置されていました。左奥に見えるフラフープのようなものはパッキン、右側奥に見えるものは整備中のピストンでした。
そういえば機関長は「造船からかなり経過していてオンボロだけれど、エンジンは同サイズの船に比べて強力で、巡航速度に載せやすいんだ」と少し嬉しそうに話していました。ミレニアム・ファルコンの船長が好みそうな台詞ですね。
エンジンから伸びる排気管は、排気フィルターを通り煙突へ接続しているとのことでした。
ピストンに近づいてみます。直径は1メートルほどありそうです。
受け側のシリンダー。
取り外されたカバー。上部にクレーン用の黄色いリングフックが見えます。
エンジンの下側に回ると、テレグラフ横にあった操作盤と同じものが見えます。(右上)電気系統が故障し操作不能となった場合、最終的にこの場所からエンジンを手動で運用することができるそうです。「そういった状況は、あまり想像したくない」と短い説明が入ります。
バラストや排水系水路の圧力メーター。
何かの調整バルブ。
非常警報を知らせるパネル。エンジンルームは大きな動作音で満たされています。パネル発光による指示が有効であるようです。
「KEEP CALM AND STOP MARINE POLLUTION」海洋汚染の原因となる排水は、現在は国際条約によって厳しく制限されているとのことでした。この船でも特定の排水機能は完全に停止し、寄港地にて汚水処理を行っていると話していました。(エンジンから排出される廃液と記憶していますが、メモを取り忘れてしまいました)
船尾に到着します。彼がレバー操作を行うと、赤色灯と共に火災報知のようなけたたましい警鈴が鳴り響き、ゆっくりと水密扉が開いていきます。他の水密扉とは明らかに異なる、重要な区画であることが窺い知れます。
水密扉の向こう側もエンジンから続く軸が貫いていました。「あの先にスクリュープロペラがある」と短い説明が入ります。
船内作業所。この日も大型部品を調整していました。
機関区画の見学中、機関長は「動力」「発電」「水の循環」という観点から、船内インフラがどのように成り立っているかを説明くださいました。また、見学後には素人である私の質問に対し、ホワイトボードに略図を描きながら丁寧に補足くださいます。
私はこの見学を体験するまで、彼らをエンンジンを専門とする技術集団であると認識していました。しかし、これは浅はかな認識でした。見学や補足説明を通じ、彼らはエンジンだけではなく船内全体のエネルギー循環を保守する技術集団であることに気付かされます。保守には都市機能を丸ごと切り盛りするような、多様な知識が求められていました。
9. カロリン諸島から横浜港へ(旅程後半)
9a. カロリン諸島からグアム島を抜けて
旅行後半も、食事時以外は多くの時間を船橋で過ごしました。
この頃になると船員も気軽に話しかけてくれるようになり、お茶を飲んでいると「甘いものは好きか」とお菓子をもらったりします。これはリッツにオレオのクリームが挟まったようなお菓子でした。
私は変わらずに中国緑茶を飲みながら海を眺める生活を続けます。カロリン諸島を抜けた辺りから気温が下がり始め、夜明けが遅れていきます。太陽の南中高度も下がり私は北上していることを感じます。
大気の水分量や光線角度などによる理由なのか、朝焼けの色もまた少しずつ変化していきます。
出発の頃は満月であった月も三日月ほどに痩せています。船首を北に向けた状態で北に見えていた月も、気がつくと南側へ移動しています。
グアム島を抜け、日本の領土が並ぶ火山列島海域へと進みます。
旅程も終盤に近づくと、日本人中年男性が罹患する「ラーメン病」の症状がはっきりと認められました。Netflixに保存していたアニメ四畳半神話体系の猫ラーメンや、南極料理人の自家製ラーメンを見て咽び泣くこととなります。ラーメンが食べたい。
9b. 南硫黄島から浦賀水道まで
[2/17 7:00] 皆様は南硫黄島をご存知でしょうか。無人島として現在は立入が厳しく制限されている秘島として知られています。私の好きな旅行作家、清水浩史の記した「秘島図鑑」にも最初に紹介されていたり、数年前に放送されたNHKスペシャルで島の特異な生態系について特集が組まれているほどの秘島です。
事前に細かな航路は知らされていません。私はこの島の近くを通ることは直前まで知りませんでした。海図を確認すると最接近距離はわずか17kmほど。このような機会は二度とありません。左舷側の屋外でその時を待ちます。
[2/17 7:40] 海上付近の温かく湿った空気が島の急斜面で持ち上がり、頂上付近に笠雲を冠する様子が確認できました。
[2/17 13:00] 船は北上し、昼過ぎに北硫黄島を認めます。この島も秘島図鑑に記載のある島です。どうやら私は秘島銀座というボーナスステージにいるようです。
[2/18 13:00] 八丈島に船が近づく頃、日本を横断していた低気圧の影響から海が時化始めます。船橋からもはっきりと白波が見えます。
ウィンドウォッシャー(真水でした)を使いワイパーが頻繁に往復しますが、窓ガラスはすぐに潮にまみれ結晶化します。ここから見る波の高さはそれほど高く見えませんが、実際には5メートル程の高さがあります。
食堂の窓から波間に漁船が見えます。写真中央付近を拡大すると、
見えました。船体にあるJH3456という船体番号から検索を行うと、第83佐賀明神丸という漁船であることがわかりました。少し調べてみるとプロフェッショナル仕事の流儀にも出演された有名なカツオ漁師の船でした。御武運を。
9c. 最終日、浦賀水道から横浜港まで
[2/19 3:45] 目が覚め位置情報を確認すると、船は既に東京湾手前まで到達していることが分かります。前日にまとめたバックパックを再度確認し、熱いシャワーを浴びて船橋へと向かいます。
[2/19 4:00] 船橋に入室すると、英語、中国語の指示に混じり、無線からは浦賀水道を管轄する管制官の日本語が聞こえてきます。コンテナ船も東京海上交通センターへ通行の指示を仰ぎます。
窓の外には無数の外灯が見え、眼下には夜明け前にも関わらず漁船や多様な貨物船の船灯が輝きます。私はついに東京まで到達したのだと気分が少し高揚します。
[2/19 4:30] サムソナイトのバックパックを背負った水先案内人が乗船してきます。年齢は50-60代、東京湾を知り尽くした老練といった空気をまとう方でした。船に備え付けられているGPS機器と手持ちのタブレット端末を接続し手慣れた手つきでデータリンクを開始します。手持ちのライトを使用するたび、船長と彼の顔が闇に浮かびます。
[2/19 5:50] 当日の日の出は6:24。空は橙色に染まり始めます。水路はこの時間でも船が頻繁に往来し、水路横の投錨地(駐船場所)には多くの貨物船が見えました。スマートフォンに表示された海図上にも多数の緑色三角形が描き出されていました。
[2/19 6:00] 左舷側に横浜ランドマークタワー、横浜ベイブリッジ、そして到着予定である横浜貨物港のガントリークレーンが見えます。
[2/19 6:30] 横浜ベイブリッジが目の前です。向かって右側の岸壁には、結果的に世界一有名となってしまった豪華客船が見えます。左舷側の窓に目をやると白い左舷灯台、奥には何台ものガントリークレーンが並んでいます。
[2/19 7:00] 私の乗船したコンテナ船、APL SCOTLANDは12日間の航海を終え、無事に横浜港へと着岸しました。
10. 横浜港から入国手続き
横浜側の現地代理店担当者とは10:00に船上事務室で待ち合わせでした。朝食後も時間がありましたので、コンテナ船の荷下ろしを船橋で眺めることにします。ここから目と鼻の先にあるコンビニエンスストアでビールを買い、荷下ろしを眺めながら飲みたい。
手際良くクレーンが往来し、次々にコンテナが下ろされていきます。鉄製の階段(GANGWAY)も下ろされています。
退船前、もう一度だけ船橋を訪れます。
[2/19 10:00] 階段側にいた保安担当が「よう親友ここで退船か。俺たちはあと何周か多分することになるよ。またな」と声をかけてくださいます。退船書類にサインをし、握手を交わし退船です。
画面奥に小さく見えるのが、現地代理店の送迎車です。クレーンと船があまりに巨大で遠近感が狂います。
これが最後の写真です。船がいかに巨大であるかこの時改めて感じます。ここで船にも別れを告げます。ここからは現地代理店の送迎で出入国管理局へ向かいます。船員はパスポートではなく船員手帳で入出国を行うため、横浜貨物港には出入国手続きを行う施設がないのがその理由です。
地図右側の第4突堤が今回到着した横浜貨物港です。ここから入国審査を受けるため、横浜大さん橋横にある東京入国管理局横浜支局分室へと向かいます。入国手続きを終えず、山下公園横を車で通り過ぎるのは不思議な気分です。何のメリットもありませんが「ここで勝手に車を降りると、私は出国したままになるのか」と要らぬ想像をしてしまいます。
区役所窓口といったレイアウトの事務所で帰国スタンプを貰います。隣ページの出国スタンプを見て気づいたのですが、昨年、貨客船で上海まで旅行をした出発日と同日でした。一年近い気持ちの準備があり、この旅行が完走出来たのだなと感じます。
隣接する横浜税関監視部分庁舎で荷物のX線検査を済ませ、この旅行は終了です。全ての手続きを終え建物を出ると、私はやっと帰国したような気持ちになりました。
私はまた、東京に戻ってきました。