小さな船の免許を取得する話
はじめに
数年前からフェリーや高速船への乗船を目的とした旅行を繰り返していました。こうした旅行を重ねるたび、自身の興味対象が乗船自体から海上交通に於ける決まりごと、操船、航法へ移っていくことを感じていました。より端的に表現するならば、
という小さな仮説から一連の行動が開始されます。今回は私が数ヶ月を要して体験した小さな船の免許を取得するお話です。
1. 船舶での通信手段
手始めに、海上での通信手段を整えようと日常生活で役に立たないであろう、海上利用のための無線資格の勉強を始めました。海上で利用する無線資格は、「大きな船用(無線通信士)」と「小さな船用(特殊無線技士)」に分けることができます。資格名自体はそれほど重要ではないので、文章中は以下の名称で統一したいと思います。
それぞれの資格には松竹梅そして小梅があり、今回私が受験したのは大きな船用の「梅」でした。当初は小さな船の「松」を取得しようと検討していたのですが「試験日が大きな船の方が早い」という適当な理由で勉強を始めました。結果として試験勉強は大変辛いものとなります。
「梅」とはいえ当然大きな船の機器について理解が求められます。小さな船用と比較すると覚えることが格段に多いのです。例えば試験には「ナブテックス受信機」「狭帯域直接印刷電信装置」「インマルサット衛星」「GMDSS」といった専門用語が頻出しますが説明を参照しても全くわかりません。
参考: 小さな船で想定される無線機 (STANDARD HORIZON Webより引用)
参考: 大きな船で想定される無線機 (東京計器株式会社 Webより引用)
こうして比較すると同じ無線機とはいえ全く異なる機械です。よく確認してから勉強を開始するべきでした。すでに受験も申込み教えを請う人もいないので、教科書やYoutubeで各機器のコンセプトを確認しながらひとりで試験勉強を進めます。
数ヶ月の苦労の末、大きな船用の「梅」無線資格を受け取ります。受験後に気づいたのですが私が操船を検討している(レンタルの)小さな船には無線機が設備されていないようです。また小さな船の航行範囲であれば大抵は携帯電話の電波も届きます。色々と残念です。費やした時間は純度の高い徒労となりました。しかし何であれ資格は取得しました。次は船舶です。
2. 小さな船の免許
20トン以下の小型船舶(以下、小さな船と表記します)に対して免許制度を採用している国は稀です。世界の多くの国々では、こうした免許は存在しません。日本は複雑な海上交通ルールや漁業をはじめとする海洋資源に携わる人口が多いため、免許制度を採用しているようです。日本における「小さな船の免許」は船舶が航行可能な場所によって2つに分かれています。
両者の違いは、筆記試験で「海の地図(海図)が読むことができるか」と「エンジンの機構をもう少しだけ細かく理解しているか」という点を追加で問われるのみです。事前に「竹」を持っていない場合は「竹+松」の試験問題を同時に受験することとなります。受験方法はバイク等と同様に、
があります。普段から家事手伝いで漁船を操船する経験がある場合や家族が小さな船を所有している場合、"a"が選択可能でしょう。自力で取得される方もいるようです。私はこうした自力での取得が好みですが、そもそも小さな船に一度も乗ったことがありませので、今回はおとなしく"b"を選択することにします。
なお「大きな船」に乗り込む人々は海技士という異なる免許を取得しています。この資格には受験に一定の基準、1-2年の業務乗船履歴が必要となり、素人がおいそれと取得できるものではありませんでした。受験者の多くは海洋系学校を卒業することによって、この基準を免除されるようです。大きな船にも興味がありましたので、少し残念です。
3-1. 筆記試験の講習
筆記試験の講習は二日間を要しました。私の通った講習会場は横浜にあるベイサイドマリーナ(船舶を係留しておく施設)内にありました。講習は筆記試験に対応した合格するための要点が中心でしたが、講師の方が仰っていた印象的な示唆をここに記しておきたいと思います。
筆記試験に合格することは重要ではあるが、せっかく講習に参加したのであればこうした点を身につけ安全な航行を心がけて欲しいと仰っていました。航空機の初等訓練でも似た内容を学ぶので、私には馴染みのあるコンセプトでした。用語や灯標などの考え方も航空機の運用と類似点が多く、非常に興味深い講習でした。
筆記試験はそのほとんどが過去問題から出題されます。問題集を一通り終えると大多数の受験生が合格可能な難易度でした。地図を読むことが苦手ではなければ最初から「松」の受験で問題ありません。
そういえば講習会場横ではボートが販売されていました。念の為価格を確認し、私の所得ではマリーナでの係留料金すら払えないことを察します。
休憩室にはPerfectBOATという一般書店で目にしない雑誌が置いてありました。「両親の結婚記念日にメガクルーザーをサプライズでプレゼントして、そのまま7日間のクルージングに出た」といった種類の記事が掲載されています。出版社は東京カレンダーでした。そっと、棚に戻します。
3-2. 操船実技の講習
私は「実技国家試験免除」というコースを選択していました。当初私は完全に試験免除であると考えていたのですが、実際には「国家試験」こそ免除されるものの国家試験とあまり変わらない「見極め」が行われました。(自動車教習の際、教習所で見極めが行われ運転免許試験場で走行しない仕組みと同様です)実技試験科目にはロープワークも含まれるため、自宅で練習を重ねました。
操船の実技講習は横浜ベイブリッジ横、本牧ふ頭にある日本船舶職員養成協会 関東(JEIS関東)で行われました。
位置関係がわかり易いように地図を用意しました。青1がJEIS関東のある位置です。青2が操船の練習・見極め会場、紫3が横浜ベイサイドマリーナ、離岸・着岸の練習・見極め会場となります。以下当日の流れです。(地図は、iSailorというアプリケーションからスクリーンショットを取得したものです)
午前:
教官と小さな船に乗船し青1から青2へ移動します。移動中、教官から操船を指示され初めての操船を行います。自動車とは異なり、舵(ハンドル)を正立にしていても直進しないことに驚きます。また自動車のアクセルに相当する「スロットル」の加減が難しく期待した速度に寄せていくことが出来ません。青2では、発進、停止、直進、旋回、蛇行といった午後の見極め時に求めらえるポイントを中心に練習していきます。方位磁針を利用し、目標物の方位を測定するといった練習もありました。その後青2から紫3へ移動し、離岸、着岸の練習を行います。
午後:
60分の昼休憩を挟み紫3で離着岸、その後青2で一連の操船技術の見極めが行われます。見極めは、操船技術よりも明瞭な声で各操作を教官に伝えているか、また何より正しく安全確認が行われているのか、といった点に重きが置かれているように感じました。印象的であったのは出航前点検を暗記しなければいけない点でした。これは意外でした。航空機ではチェックリストを利用せず点検を行なってはいけません。必ずリストを利用しての確認が必要です。
見極めは滞りなく進みました。担当教官からは「結果連絡を楽しみにしていください」と伝えられ終了となります。(試験結果はその場で伝えられません)なお、緊張から各所で写真撮影をする余裕はありませんでした。
後日、無事に小さな船用の「松」資格を受取ります。
資格取得後、海難発生時における対応や救命設備等に興味が向き、特定操縦免許という講習も受講しました。この資格を取得すると釣り船や渡し船などの旅客運行が可能となります。講習で配布されたテキストは大きな船と共用で、海水温度に対応する落水後の生存率や、遭難時のリスクなど、極めて実践的な(そして判断を誤ると、比較的簡単に命を落とす)内容が記されていました。
ここまでが小さなお船に関連する資格を取得する話です。
以下、一連の過程で興味が向いたことについて雑記があります。
雑記1: 海で使う文具の話
船舶の運航には「海図」とよばれる地図を利用します。陸上の地図とは異なり海図には水深や特徴的な羅針図(コンパスローズ)が描かれています。海図を読む技術はその船舶の大きさに拘らず全ての船舶に通用するようです。例えば、海上自衛隊の訓練でも海図を利用する様子を見ることができます。(この写真は海上自衛隊の広報資料から見つけました)
海図から必要な情報を求めるには「三角定規」「コンパス」そして「ディバイダ」という普段の生活では利用しない文具を用います。中学校の技術家庭「製図」で利用した文具と同様のものです。
製図に利用する文具と唯一異なる点は、目盛りのない三角定規のアクリル部分に黒い補助線が印刷されている点です。細かな説明は省きますが、この補助線によって海図が格段と読みやすくなりました。(興味のある方は、海図の参考書などを図書館で眺めてみてください)小さな船の筆記試験では、B3の地図を渡され、これらの文具を利用して航路距離や到着時刻を求めたりします。
テキストに付属の練習用海図に線を引き過去問題を解いていくと「出発点は同じでも、僅かな誤差によって到着地点には大きく異なる」という至極当然な事実を何度も突き付けられました。現実世界に於いて、この誤差は燃料消費の増大や到着時間の遅延を意味します。潮の流れなど環境に合わせた細かな修正を行い、航海全体に影響する進路変更は慎重に計画する、なんというか社会生活で求められる能力に似ています。
それから、これは初めて知ったことですが本物の海図は折り曲げてはいけないという約束事になっています。私も練習用とは別に東京湾の海図を購入しました。折り畳まれて販売されている航空図とは異なり届いた海図は三角柱の段ボールに入ってやってきました。
本物の海図は緻密で、しばらくの間、見入ってしまいました。
※ 海図は一枚が高額(4,000円程度)ですが、廃盤となった海図を再利用した文具が横浜の会社から販売されています。デザインとして海図に興味のある方はこうした選択肢も可能です。
雑記2: 地文航法・天文航法という本の話
海図問題を練習中に、航海技術そのものに興味が向き「何かよい本はないか」とAmazonを眺めていたところ「地文航法」という本のレビューが目に留まります。
同じ資格取得を目指している最中に同じことに興味を持った人が「良い」とレビューしています。装丁がやや古めかしい感じですが購入します。
到着した本は布張り、金色の箔押し加工が背表紙にある立派な装丁でした。1962年に初版が刷られ二度改定が行われています。私の手元にあるものは二改訂の第3版(2018年6月10日印刷)内容も一般航法から最新GPS航法まで網羅された見事な本でした。同じ著者が「天文航法」という本も著しています。こちらも追って購入します。次の雑記で触れますが、この本がきっかけで六分儀という光学機器を購入しました。
雑記3: 六分儀を購入した話
天文航法がきっかけで六分儀を入手します。周囲に六分儀の使い方を知る知人はいません。ここでも動画で使用方法を確認します。水平線の見える地上から六分儀を使用し現在地の測位を試みた最初の印象は、
というものでした。このような機器に命を預けて海に乗り出していた少し前の海男たちは最高にクレイジィ(褒め言葉)だと感じます。
ところでGPSによる測位が一般化した現在、六分儀は廃れた技術でしょうか。いいえ、天文航法の著者、長谷川健二は書籍の冒頭でこう記しています。
痺れます。六分儀は懐古趣味の玩具ではなく一つの選択肢として現在も重要な価値を持つと言い切っています。GPSを提供する米国自身も六分儀の価値を見直しているようで、米国海軍学校では数年前から訓練の一環として再び取り入れられています。NASAでは惑星間を移動する場合、六分儀が緊急時に有効ではないかと研究が続けられています。スタートレックのような未来が来ても、最後は簡素な機器で測定し自分の位置を測位する方法は変わらないのでしょう。小さな船の筆記講習で講師の方が仰っていた、
このことが何より重要であるようです。
雑記4: 大きな船の無線機を操作する話
大きな船の無線資格取得は純度の高い徒労に終わりましたが、この試験に関わる法規を勉強中に興味深い条項を見つけます。少し調べてみると総務省のページにはこんな記載がありました。
なるほど分かりません。日本語に訳すると、
ということのようです。大きな船の艦橋(操船を行う場所)に入ることは叶いませんが講習を通じて実機操作も出来ます。講習を終えると「日本国政府」と金色に箔押しされた手帳も貰えるようです。参加しない理由が見当たらない講習です。直近の講習は2019年1月に国分寺で3日間行われるようでした。早速、申込みます。
さて、ここでは講習の内容は割愛いたします。以下「男子って、こういのが好きなんでしょう」という写真を並べますので「良い…」と感じて頂ければ幸いです。(これらの写真、動画は、講習の休憩中「自由に撮影して構わない」という許可が出た上での撮影です)
この場所で、
このような機器の、
このような場所を操作したり、
このような文字を印字します。
聴守義務周波数が探索される様子を眺めたり、
緊急信号を受信します。(警告音注意)
実機操作講習の後、講師の方が少し照れながら「一応言うことになっていますので」と前置があり、
と締めていました。全く同意です。この講習を通じて「生命の危機迫るプレッシャの中で正確に無線機器を操作し、誰かからの返答を待つのは苛酷で心細いだろうな」と強く感じました。海に携わる人々はタフでなければ務まらないようです。
無事、修了証を受領し、
後日、船舶局無線従事者証明書が送られてきます。
この講習とは直接関係がありませんが、小さな船の無線試験勉強中Youtubeで実際の遭難信号録音を何度か聞きました。録音の中で人々は生き延びるために必死で通信を行っていました。その声は真実で、胸に迫るものがありました。
以上が私の見渡せる範囲での船舶体験です。ここから先の資格、体験は乗船経験が必要となり、仕事を一旦辞めなければ取得が難しい資格です。次の目標は、コンテナ船に乗って旅行をすることですが、これもまた少し先になりそうです。