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映画備忘録10 『ザ・スクエア 思いやりの聖域』




グラフティ......それは企業広告や街のあり方、延いては社会に対する「声なきアンチテーゼ」



いわばアートの部類で、見るのもに傷(気づき)を与えてくれるもの。ヴァンダリズム(公共物破壊=社会の外側の営み)によって、常識やシステムなどに亀裂を入れ、我々がいかにそれらに囲われて(閉ざされて)生きているのかを知らせる。



このような社会の外側の営みが、資本主義の収益システムに回収されることがしばしばある。例えばこれ。



港区で見つかったバンクシー(と思われる)作品を見つけるや否や、百合子ちゃんは、「貴重やん!  回収! 回収!」と言わんばかりに、それを掻っ攫ってしまう。バンクシー(と思われる人物)の意図を虐げ、あるいはそこで見ることでしか得られないはずのあらゆる想像性を蔑ろにして、それを価値ある都の財産として保管する。



そして都庁のロビーで展示されたのち、日の出ふ頭2号船客待合所に飾られることになったそれは、基本的に運賃を払わなければ見れない状態に置かれている。見事に資本主義のメカニズムに回収されてしまった。



アートの意味、ヴァンダリズムの精神を理解してないがゆえに、自分は今度の都知事選で、小池百合子に投票しないのかも知れない。......そんな話はさておき、映画の話題に移っていく。



この作品も、小池バンクシー事件と同様に、アートと資本主義の関係性を浮き彫りにする。元はシステムの外側として築いた領域(スクエア)が、美術館による資本主義の収益システムに取り込まれていくまでの過程を描く。



......けれどもこの作品は、「それは悲観されるべきものなのか?」という問いを、観る者に投げ掛ける。というのも、資本主義の枠組みに囲わないアートが、いかに危険なものであるかということを寓意的に示すからで、その差異を生んでいる剥き出しのアートとしての存在に注目する必要がある。


剥き出しのアートの危険性は、“ドッグ・マン”なる存在を通じて描かれる。パーティー会場に現れた彼は、何の気なしに女を犯そうとするが、つまりこれこそ(スクエアよりも何よりも)、本当のシステムの外側であることを意味する。



このように資本主義は、ある種の「枷」として機能する。グラフティの場合もそうで、描かれた側はたまったものではないが、それを公式(システムの内側)が取り込めば、一挙に無害と化す。

渋谷パルコの公式グラフティ



話変わって、自分は以前、斎藤幸平の『人新世の資本論』のヒットを受けて、「マルクス主義を語っているあなたなのに、資本主義の回収システムに取り込まれてて草」といったニュアンスの批判をした。


マルクス主義も、もともとシステムの内側に対する、外側の営みであったはずなのに、出版という形で、資本主義の内側に回収されることになった。自分はそのことについての稚拙な批判をしたものの、ではどのようにすれば、真にマルクス主義を語れるというのだろうか?......という疑問に答えられずにいる。

「無料のビラを配ればいい」
→印刷費どうするんだ?

「このnoteや他のSNSで語ればいい」
→それらのプラットフォームに乗っかっている時点で、あなたは企業の資本主義システムに回収されてますよ。


このように、資本主義の構造を用いらなければ、マルクス主義だろうが何だろうが、それらを拡散・継承することはできない。


同じ話をアートに対しても当てはめることができ、「資本主義の構造を用いているから、その映画・文学・絵画は、真のアートではない」という批判は、至極無意味なものとなる。資本主義に呑まれてようが何だろうが、我々にシステムの外側を覗かせてくれる作品のすべては、必然的にアートと化す。それに、資本主義の枷を掛けなければ、“ドッグ・マン”のような、予測不可能の危険性から免れることができなくなる。それが映画というフィクションであるがゆえに(すなわち資本主義システムの枷が掛けられているがゆえに)、我々は“ドッグ・マン”の暴挙を、お茶を飲みながら眺めることができる。


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