教育は一般的な正答を決めることができないのに、仕事上誰かに正答を押しつけている場面がある
どうもレモンタイム🍋です。
今日は教育業界の若手を見て考えたことです。
教育の世界は、これが良いという正答はない。相手が常に変わるからであり、未来に結果が出るという世界だからである。
それなのに、若手には従うべきお手本が示される。
仕事上周りに迷惑をかけないため、なのはわかる。
ただずっとそれだけで仕事をしていると、どやされる。やれと言われたことしかやらないのか、自分がこう育てたいって考えはどこいった!
自分の考えで何かをやると、こんなの子どものためにならないぞ!
…何かに似ているぞ?
小説やドラマの師匠が弟子を育てる描写そっくり。
一般的な正答はないけれど、師匠にとって正答はある。
それが世の中に受け入れられていてもいなくても、弟子には口出す権利もない。
師匠を超えてから言え?んな馬鹿な。
正答がない世界で、師匠を超えた判定は誰がする?師匠でしょう。
公正公平な師匠ならそれでも大丈夫。でもお金とか名誉とか利益が絡んでくるので、そうも言ってられないのが現実的なところ。
理不尽さに耐えながら、師匠に認められる日を待つ?
お客さんにお金払ってもらえるようになるなど、明確な実績積める業界じゃないでしょう?だって結果出るのが遠い未来だから。だからいくら子どもに「ありがとう😊」と言われても、親に感謝されても、自分の正答を見つけましたから師匠も認めて下さい、という話にならない。師匠の正答は違うんだから。
人基準の危うさ。
では師匠のようになることを目指せばいいのか。自分の正答を一時的に捨てて、誰かの正答に身を委ねてみるのか。
自分の正答に戻れれば、それは自分を強くしなやかに鍛えるいい方法だろう。最終的に自分の正答に戻るのが当たり前だと、師匠も弟子もわかっている上でなら。
教育は一般的な正答を決めることができないのに、仕事上誰かに正答を押しつけている場面がある、という話でした。
ではでは。