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よっ!そうさく大将!

昨年のnote創作大賞で初めて小説を書いた。
40名の方が「いいね!」を押してくれたものの、「あなたの経験を本に」なんてことはなく、投稿はインターネット宇宙のもずくと化した。

私が書いた小説は、ある作家の下でしばらく働くため、ド田舎に移住したものの(働くと言ったって、犬の散歩や机下に湯たんぽを置いておくとかそういう類で、福利厚生もなければ、バイトに近い契約で)何かよくわからん詐欺みたいなリトリートに行かされ、クビになり、私にがんが見つかり、今も闘病中という事実を元に、多少の創作を加えて書いたものだ。

「福利厚生とか将来のこととか、ちゃんと考えて確かめなかったお前がわるい」って言われちゃうアレで、いやほんと、お花畑脳だった私。どんな状況であれ自業自得、グゥの根も出ない自己責任論で。ではどうすれば、私はがんにならずに済んだか?ということを考えながら書いたのだった。実際はシスターフッド的な友だちもなく、ずるずる何年も後悔ムードにやられたけどね。

芙美恵さん(にあたる人物)は今でも読者を呼び寄せてはクビにするサイクルを続けている。芙美恵さんは自己愛性パーソナリティ障害なのだと思う。私も意思の弱いただただ誰かに「認められたい人」だったと思う。
その後、私はK書房の新人賞にも同小説を応募したが、それも落選。K書房からは、芙美恵さんの新しい本が出版された。

がんはつらい。
見つかった時は、貯金もなくすっからかんだったし。排泄のコントロールが効かない時は特に、こんなみじめで情けないものはないと涙が出た。
あの日、面接に行かなければ、芙美恵さんの本なんかにハマらなければ。怒り狂っているのに怒りを露わにできなかった時、自分の尊厳を傷つけられたのに自己卑下の沼に陥った時に、スパッと辞めていれば、ギリギリのところで自分が自分を守れていれば……
私はがんにならなかった!

そんな風に思うクセがやめられない。
まぁ、そういう風に考えるから、病気になるんだよ!病気なんだよ!って話なのだろうけど。

今改めて、自分の書いた<おだやかな暮らしを求めて>を、読み返した。
当時、私は「誰のことを悪者にしたくない」と思っていた。芙美恵さんにもチャーミングなところがあり、会社を経営するって大変なことだし、何より私が浅はかな甘チャン過ぎてこれは起きた。

でもやっぱりどこか断罪していた。
「アイツらさいあくだわ、告発してやりたい。SNSで世界に明るみに…… 。世間のみなさん、正しいジャッジを下してくださーい」
そんな風に考えてはいなかったか、いたわ、と思った。そして「自分を窮地に追い込んだのは自分」と自分のことも断罪していた。

いつまでも
じめじめじめじめ!

おもしろい文章を書く人というのは、
「絶対的におもしろくさせないと、(自分が)おもしろくないね!」という気概がある。「だって人の時間をうばってるんだもの」という意識が明確にある。カッコいい気概が人の心を震わせる。
ひっそり恥ずかしかって、誰にも届けない文章を書いている、見られたら困る文章を書いているなんて、ごうまんにも程がある。

私の文章は、いつか誰かに見つけてもらいたい、何者かになりたい、あわよくば本を出して見返したい、という人の文章だった。起こったことを自己責任論で、とことん自責して憐れんで、自滅してく感じもやだけど、責任を世間や他人にスライドさせてる感じ、ああほんとやだな、と思いました。

最近、カドカワの漫画「立ち行かないわたしたち」シリーズをいくつか読んだ。「わたし」が平仮名であるのが肝だろう。誰かが深く傷ついた経験がインスタントに消費されていくことに少々モヤりつつもどれも面白い。中でも『怖いトモダチ』という作品が、私が経験したことに近いと思った。(原作未読のままこんなこと言うのは恐縮だけど)文才があれば、こうやって現実に本という形になるのだ。

それはすごいこと。
私はひとり荒野で、だあれもいない小山のてっぺんに佇んでいるようだ。拗ねてる訳ではない、これは私の仕事ではないということ。
私の考え方はカッコわるい。カッコわるいまま生きてくっていうオチも、何と言うかもう陳腐。

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