見ないふりをした、憎しみ。
生後三ヶ月でこの世を去った最愛の姉。
心の底から愛するとともに、ときに、言いしれぬ不快感を覚えることもある。
それが憎しみであることに、ようやく向き合おうとしている。
なぜ、憎いなどと思うのか。ゆっくりと、思いを巡らす。
家族の真ん中に、姉さんがいた日々があるからだろうか。
俺の知らない日々。きっと、輝いていたのだろう日々。たしかに、苦しくないわけがないのだ。やり切れなくて、しょうがない。
でも、それが憎いわけではない。やり切れなさは、憎しみにはならない。
本質的に憎いのは、姉さんではないのだろう。
一番憎いのは、姉さんが生まれて、愛されて、死んだという、残酷すぎる現実で、その事実の一方で、穏やかに、しかし無機質に、写真の中に横たわる姉さんがいる。
それがどうしようもなく憎い。
俺が、弟にも妹にもなりきれなかった自分が、こうして想い、慈しみ、擦り切れそうなほど心を寄せているのに、写真の中の姉は、ただ静かに、そこに在るだけ。
俺の知る姉さんは、始めから小さな骨壷の中の灰でしかなく、冷たい、無機物だった。
その冷たさが、どうしようもなく憎いのだ。
まあいいさ。
愛だけで一生向き合っていけるほど、俺はピュアじゃない。
憎しみだって、必要な対価だ。
姉さんが、俺の日々の当たり前であるために。