もう宙ぶらりんじゃない。
僕はまだ、名前のない生き物だ。
ずっと、名前が欲しかった。女の名前じゃなくて、自分のかたちにピッタリフィットするようなアイデンティティが欲しかった。
自分で名前を考えようとしてみたり、ネットで調べてみたり、友達に考えてもらってみたり。色々やってきたが、ここにきて、解を見つけた。
最愛の先生に、名前をつけてもらおう。
野口英世も恩師に名を貰ったらしい。僕のことを、誰よりもよく知る先生に、名付け親になってほしいと思った。
もう一つ、俗っぽい理由があった。名付け親という関係になれば、高校を卒業したあとも、繋がっていられると思ったのだ。
そんなことを考えつつ、迎えた9月1日、文化祭。
台風の影響が危ぶまれていたことが嘘のように、からりと晴れた空。
一生に一度のお願いをするには、良い日和だった。
クラスの出店も一通り片付け終わり、クラスメイトたちはほとんどが帰宅するか、後夜祭に向かった。僕はついに、先生と二人きりの時間を手に入れた。
――先生、今日は、特別な日なんで。
――うん、特別な日なんで?
――特別な日なんで、一生に一度のお願いをさせてください。
こんなところで一生に一度のお願い、使っていいの?とカラカラと笑う先生の横顔が、本当にキレイで、それだけで泣き出したくなるほどだった。
深呼吸をした。緊張。だけど、ここまで来たら言うしかない。
――先生、これから生きる名前を、先生につけてほしいんです。
先生が目を丸くした。
――改名を、考えているので、その、名前を……。
ぱっと笑った、先生の笑顔。
――えぇっ、私でいいの!?
反応が予想通りすぎて、思わず笑った。
――言うと思った、先生”が”、いいんです。
喜んで考えるよ、と、ありがとう、と言ってくれた。
嬉しい、私でいいの、と何度も口にする様子を見て、ああ、頼んで良かったと、心から思った。
しばらく黙りこくる先生の横顔を、僕はこっそり見つめていた。どこまでも優しい目が、好きでたまらなかった。
――ごめん、もう考えてた。どんな名前がいいかなーって。
少しして、こちらを見た先生は、とびきりの笑顔でそういった。
私からもお願いしていい?と先生が問う。
いざ名前を変えることになったら、必ず連絡してね、と。
十何年後でもいい、(僕)とは一生繋がっていたいから、と。
俗っぽい僕の願いすら、見透かされた気がした。先生は僕と同じ気持ちでいてくれるんだ。この先も大切でいたいと、お互いに思えるなら、それって、どんなに素敵なことだろうか。
――いい日ですね。
校舎脇のベンチ、二人きり。晩夏の澄んだ青空。
――(僕)のお陰で更にいい日になったよ。ありがとう。
講堂から、後夜祭で親友が歌っている声が響く。
そして、出会った頃の話なんかをした。
2年になるとき、クラスに同じ名前の友達がいて、もう下の名前を呼ばれずに済む、と酷く安心したことを話した。先生は、ずっと僕のことを名字で呼ぶ。
――でも私、同じ名前が二人いるから名字で呼ぼうって決めたわけじゃなくて。名簿をもらって、写真を見て呼び方を決めるんだけど、最初に見たときから〇〇は〇〇だって思ってたよ。
僕は、宙ぶらりんなんかじゃなかった。名前がなくても、僕は、先生にとって、たった一人の僕だった。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
僕の真ん中に先生はいる。そして、先生の中に、それもかなり真ん中に近いところに、僕はいる。そう思っても、案外驕りでないかもしれない。
だから、僕は今日も息ができるのだ。