始まりの雨
彼女と初めて会ったのは先輩に誘われて行った飲み会の席だった。
就職に伴って上京して5年。
警察官になって無我夢中の最初の数年、そして仕事に少し余裕が出てきて都会での生活を楽しむ余裕も出てきた今日この頃。
本当は今日もめんどくさいから…と断りたかったけど、新人の頃から世話になっている先輩に
「頼む!土曜日が非番なのはお前だけだから…。
ただいてくれるだけでいいから!」と頼まれて仕方なく顔を出すことにしたのだった。
飲み会自体は嫌いではない。
仕事で世の中の色んな嫌な部分を見る事も多いので、外で誰かに会ったり楽しくお酒を飲む事は自分の心のバランスを保つためにも必要だった。
多分、先輩はそれを分かっていて俺を時々誘ってくれている事も分かっていた。
いつもの飲み会と同じように、楽しそうに話す先輩を見ながら料理をつまみ、酒を飲む。
そこに少し遅れて現れたのが彼女だった。
挨拶もそこそこに目の前に座った彼女は、注文したビールが運ばれてくると美味しそうに一気にグラスを飲み干した。
良い飲みっぷりに思わず目を奪われたが、彼女はそんな事を気にする事もなく、皿から次々と料理を取り酒を飲んでいる。
美味しそうに料理を食べる彼女を見ながら、俺は思い出していた。
「梨央!」そう聞こえた気がしてハッと我に帰る。
「もうっ!里穂!食べてばっかりじゃなくて、少しは里穂も何か話したら?
この子、彼と別れて1年になるのに全然男っけなくて…」と彼女の友人が先輩に嘆いている。
「里穂…。」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
心の扉の奥へ仕舞ったはずだったのに、美味しそうに食べる彼女の姿が俺に思い出させた。
「梨央」…もう会えない事は分かっているつもりなのに似た名前に反応してしまう。
そんな自分に半ば呆れていると、先輩の声が耳に入ってきた。
「コイツさ、学生時代に好きだった子をずっと忘れられなくて、彼女が出来ても最後は結局フラれちゃうんだよ。」飲み会で少し酔っ払うと先輩はいつもこの話をする。
もう終わった話です…と、いつもと同じ台詞を返すけど、今夜は「終わった」という言葉に何となく躊躇いを感じてしまった。
一瞬、気まずい空気が流れたような気がしたが目の前に座った彼女はマイペースに食べて飲んでいる。
「恋愛はしばらくいいです。今の生活が気楽なんで」
そんな風に断言して、ひたすら飲んで食べる彼女の存在に何だか今夜は救われた気がした。
美味しそうに食べる彼女の顔を見ながら、ついつい梨央の面影を探してしまう。
気付かれないように見ていたつもりだったが、とうとう彼女と目が合って「良かったら食べませんか?」と料理を勧められてしまった。
それをきっかけに少し彼女と言葉を交わした。
と言っても、俺は殆ど彼女の話を聞いていただけだったけど。
「それじゃ、そろそろ…」先輩の言葉に時計を見ると21時過ぎだった。
先輩が会計を済ませて戻ってくると、
「よしっ、それじゃ皆んなで連絡先交換しよう!」店先へ向かいながら彼女の友人が携帯を取り出しアドレスを聞いてくる。
本当は連絡先の交換はあまり気が進まない。
この先、連絡を取り合ったりするのは面倒だし、俺はただ、今のこの時間を楽しく過ごせればそれで十分だった。
でも断るのも角が立つ。
社会人としての社交辞令みたいなものだ。
そう思って彼女の友人に連絡先を教えた。
彼女は連絡先を聞いてこない。
携帯を手に持っているが、何となく躊躇っている事が伝わってきた。
連絡先を聞いてこない彼女にホッとしつつ、心のどこかで少しだけガッカリしたのは気のせいだろうか?
そんな俺の気持ちに気付いたのか、先輩が
「宮崎!お前も里穂ちゃんと連絡先の交換するだろ?」と言った。
その先輩の言葉をきっかけにバッグから携帯を取り出し、手間取りながらも彼女と連絡先の交換をした。
そしてそんな俺たちを見届けると、先輩は「それじゃ宮崎、里穂ちゃん駅まで送ってやれよ」と言葉を残して彼女の友人と2軒目の店へ行ってしまった。
彼女と2人残されて気まずい気持ちが残りつつ、「駅まで送るよ」と歩き始めた。
職業柄、歩くスピードが早くなってしまう俺に彼女は後ろから少し小走りで付いて来る。
それに気が付いて、俺は歩くスピードを少し緩めて彼女が追い付くのを待ち、2人並んで無言で歩く。
駅まで10分ちょっとの道を2人で黙って歩いていると、ポツポツと雨が降り始めた。
「うわっ!雨降ってきた!急ごう。」
歩くスピードを上げると、彼女は少し小走りでついて来たが、雨は本格的に降り始めてしまった。
駅まではまだ5分以上かかる。
俺は彼女へ振り返り、「ちょっと雨が止むのを待とうか?」そう言って店の軒先で立ち止まった。
軒先で止まない雨を見ながら、ふとあの日の事を思い出す。
あの日も雨だった。
大学に入学して2週間ほどした頃、急に午後の授業が休講になっていつもより早く帰った事があった。帰りの列車の窓から見える空はどんよりとして暗く今にも雨が降り出しそうで、駅に着く頃には雨が降り出してしまっていた。
今日の練習は中止だな…
そう思いながら駅の改札を出ると、駅の入り口で困った顔で空を見上げている梨央がいた。
寮に入って間もなかったが、梨央はいつも寮父の父親を手伝っていたので顔は知っていた。
梨央も傘を持ってないらしく、どうするのだろう?と少し後ろから見ていると鞄を頭にかざして雨の中へ走り出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って!こんなに雨降りよるし、濡れたら風邪ひいてまう。少しここで待ってたら雨も止むやろ?」
慌てて腕を掴む俺を見て、「えっ?誰?」と驚いた梨央も俺が寮生だと気が付くと急に人懐っこく話しかけて来た。
「えっと、名前何やったっけ?
あぁ…宮崎さん!そうやった!
この前寮に入ってきた人や。学校の帰り?
いつもより早くない?」と立て続けに話し続ける。
入学したばかりで、授業と練習、そして寮で先輩に囲まれる生活の中で緊張が続いていた俺には、屈託なく話しかけてくる梨央が妹みたいで何だか嬉しかった。
でも、照れ臭くて上手く話せない。
屈託なく話しかける梨央にボソボソとぶっきらぼうに答えながら雨が止むのを待つ。
「大丈夫?結構濡れたよね?」
そんな昔の事を思い出しながら彼女の顔を覗き込む。
結局、雨はすぐには止む気配も無くて、斜め前にある喫茶店で少し雨宿りする事にした。
近くにチェーンのコーヒーショップがあるせいか、店には俺たちともう一組しか客はいない。
喫茶店に入って雨が止むのを待ちながら俺たちはお互いのことをポツリポツリと話した。
彼女の出身が九州で東京に来て3年ほどになる事。
大手町にある会社で経理の仕事をしている事。
最近の楽しみは街を散歩しながら美味しいお店を探す事。
そんな事をコーヒーを飲みながら彼女は話してくれた。
そんな話が続いた後「あの…学生時代の彼女ってどんな人だったんですか?」
彼女が突然そんな事を聞いてきた。
「えっ?彼女?
あぁ…さっきの先輩の話?彼女じゃないよ。
付き合ってないし…。」
突然すぎて誤魔化す余裕もない。
「えっ?」
どういう事?と彼女が目で問いかける。
「参ったな…
付き合ってもないのに忘れられないって…
こういうの変?」
思わず開き直ってしまった。
何も言わない彼女を見て、
「俺、何言ってるんだろう…。
ごめん。今の話忘れて。」
慌ててコーヒーを一口飲んで腕時計を見ると1時間ほど経っていた。
外を見ると雨はさっきより小降りになっている。
少し頭を冷やそう…
そう思って俺は店を出て近くのコンビニでビニール傘を買ってくる事にした。
駅まで5分ちょっとの道を相合傘で彼女と歩いている。あの日と同じで今日もコンビニに傘は1本しか残っていなかった。
あの日、駅前のコンビニに傘は1本しか残ってなくて、結局俺と梨央は1本の傘を相合傘で帰った。
梨央の肩が濡れないように傘を少し傾けながら歩く。
さっきまで妹のように思った梨央の横顔に何だかドキドキした事を思い出す。
駅まで5分ほどの道はあっという間だった。
「この傘使って。」
傘を畳んで彼女に渡す。
「えっ、でも宮崎さん濡れてまう…」
「俺はいいから。ここから寮までそんなに遠くないし。雨も小降りになったから大丈夫やさ。」
あの時交わした言葉が頭の中で蘇る。
傘を渡した彼女は俺が濡れる事を心配しつつも、
「それじゃ…ありがとうございます。」と傘を受け取って、改札の中で手を振りながら帰っていった。
自宅に戻りシャワーを浴びて髪を乾かしながらあの日の事を思い出す。
雨で練習が中止になって、自主トレしようと食堂の前を通りかかるとエプロン姿の梨央が父を手伝っていた。
そのまま通り過ぎようとすると、テーブルに食器を並べていた梨央と目が合った。
「宮崎さん!ちょっと待って!」
そう言うと、食堂の奥に行き俺に駆け寄ってきた。梨央の手にはさっき渡したビニール傘が握られていた。
「これ…。さっきはありがとう。」と傘を俺に返して「結構濡れた?大丈夫?」と心配そうに顔を見上げてくる。
「別に返さんでも良かったのに…。コンビニで買ったビニール傘やし。」
達雄が近くにいる事もあって、俺は照れてぶっきらぼうに傘を受け取ってしまった。
「えぇーっ、でも次に雨が降った時に困るやろ?借りたものは返す、当たり前の事や。」
屈託なく笑う梨央の笑顔が眩しくてドキドキした。
今思い返せば、あの雨の日が始まりだったのかもしれない。
そんな事を思い出していると、テーブルの上の携帯が点滅している事に気がついた。
彼女からメールが届いている。
「今日はありがとうございました。今日の傘のお礼に、良かったら今度ランチに行きませんか?」
「こちらこそありがとうございました。
コンビニで買った傘なので気にしないで下さい。」と打つ手が途中で止まり思い出す。
美味しそうに食べる彼女の笑顔。
傘を差して歩きながら見た彼女の横顔。
あの雨の日を思い出す。
メールの文章を訂正して携帯をテーブルに置いた。
もう一度、雨の日に始めてみるのも悪くないかもしれない。
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