KISS そして…
枕元でアラームが鳴っている。
慌てて携帯を手に取り画面を見る。
画面に表示されているのは時刻ではなく上司からの着信だった。
「休みなのに悪いな…」と話し始めた上司と短いやり取りをして電話を切る。
画面に表示された時刻は正午を過ぎていた。
僕は昨日から会社を休んでいる。
先週の金曜、彼女と会って食事をして良いムードになって…
そして突然キスしたあの夜。
彼女と新しく始めてみようと思ったのに、一歩踏み出した瞬間僕が思い出したのはあの人の事で。
あの夜からまだ一度も彼女と連絡を取ってない。いや、連絡を取れずにいた。
ちょうど翌週の水曜日に大事なプレゼンを控えていた事もあって、その週末僕は休日出勤する事になっていた。
仕事に集中している間は彼女の事を考えずに済む。
僕は仕事に没頭する振りをして、あの夜の彼女との事から逃げていた。
でもふとした瞬間に思い出してしまう。
あの自然と引き寄せられるように重ねた唇。
彼女の好意を知りつつ、ずっと付かず離れずの関係を保ってきたのに僕は一歩踏み出してしまった。
あの時、彼女と新しく始めたいと思った気持ちは嘘ではない。
でも唇を重ねた瞬間に脳裏に浮かんだのはあの人の横顔と唇の感触で。
自分でも自分の気持ちがよく分からない。
彼女にどう説明していいか分からない…
でも、あの夜の事を無かった事にはできない。
ぐるぐると同じ事を考え続けている。
精神状態はボロボロだったけど水曜日のプレゼンは上手くいき、自分の席に戻ると上司に呼ばれ休日出勤した分の代休を取るように言われた。
「休まなくても大丈夫です」と固辞したものの、上司には「疲れてるみたいだし顔色も悪いから休んでリフレッシュしろ」と言われ、結局二日間休む事になった。
上司に「休まなくても大丈夫です」と言ったのは仕事が気になるから…とかそういう理由じゃない。時間ができて彼女との事と向き合うのが気が重いからだった。
プレゼンが上手くいっても気持ちは晴れず、家に帰った僕は現実から逃げるためにグラスを重ねた。
元々そんなに酒が飲めるわけでもない僕は、日付が変わる前にいつの間にかソファで眠ってしまっていたみたいだった。
明け方近くに目が覚めると、付けっ放しのテレビからは早朝のニュースが流れていた。
酔いが残るぼんやりした頭で何とか起き上がり寝室のベッドに倒れ込む。
次に目が覚めたのは枕元で鳴る携帯のアラームを止めようとした時だった。
いつもと同じ時間に鳴るアラームを止めて起き上がりコップ一杯の水を飲み干す。
せっかくの休暇だから二度寝しようとするが、体が怠く寒気がして何だか熱っぽい。
慌てて救急箱から体温計を取り出し計ってみる。
ここ最近の心身の疲れのせいか熱がある。
実際に体温計の38℃という数字を見ると、一気に具合が悪くなり僕はその日一日中殆どベッドの中で過ごした。
せっかくの休暇の1日目をベッドの中で過ごしてそして2日目、上司からの電話で目を覚ました。
そして熱はまだ下がらない。
何か食べて薬を飲んだ方が良いのは分かっているけど食欲が無かった。食欲があったとしても冷蔵庫の中は殆ど空っぽだった。
もう少し眠ろう…
そう思って何となく携帯を見るとメールが来ていた。
あの人からだった。
「今夜会える?」
一言だけのメール。
彼女と唇を重ねた瞬間に浮かんだあの人の横顔。でも今の僕はあの人に会いたい訳ではなかった。あの日以来ぐるぐるとあの人の事、彼女の事を考える時間を過ごしながら、彼女の事とは関係なくもうあの人に会うのは止めようと決心していた。
決心はしているもののあの人に何と切り出したらいいのか分からず、僕は「今日はちょっと…無理です」と返信した。
はっきり言い出せない自分が情けない…
でも、どちらにしてもこんな体調じゃ会いに行けるはずもない。
今度こそ少し眠ろうと目を閉じると携帯が鳴っている。
上司からさっきの話の続きかと思い、画面も見ずに出てみると聞こえてきたのは彼女の声だった。
「もしもし…」
少し緊張したような声が聞こえてくる。
初めて自分から電話してきた彼女に驚きつつ、「あっ…お疲れさま…どうしたの?」気まずさを押し殺して平静を装う。
「あのさ…今日の夜時間ある?」
一瞬の沈黙の後、彼女は切り出した。
思いもしなかった彼女の言葉に驚きつつ言葉を探す。
会ってちゃんと話をしたい…そう思っていた。
でも今は体調が悪くて動けない。
この機会を逃したら、多分僕と彼女の始まってもいない関係は終わってしまう。
そして友達にももう戻れない…
それが分かっているから言葉が出てこない。
どうしよう…
電話越しに気まずい空気が流れそうになった時、僕は息が苦しくなって咳き込んでしまった。
あまりにも酷い咳に彼女は驚き「えっ、大丈夫?」と急に雰囲気が変わった。
「風邪?体調悪いの?」と聞かれ、
熱がある事、昨日から代休消化で会社を休んでいる事を説明する。
「薬飲んだ?何か食べるものとかある?」
と立て続けに聞かれて、家に薬がない事、起き上がれなくて病院に行けない事、食べる物のストックが殆どない事を素直に伝える。
僕の話を聞いていつもの調子を取り戻した彼女は「分かった。仕事が終わったら差し入れ待ってそっちに行くね。」と、いつの間にか僕の家に来ることになっていた。
予想外の展開、彼女に会ってこの前の夜の件を何と言ったらいいんだろう…
そう思うけど熱っぽい今の頭では考えが纏まらない。
考えながら何度か寝返りをうっているうちに、僕はまた眠りについていた。
うとうとしながら浅い眠りを繰り返しているとインターホンの音が聞こえる。
目が覚めて時計を見ると夕方の6時。
のろのろと起き上がってモニターを見ると、彼女が立っていた。
オートロックの鍵を開け彼女が部屋に上がってくるのを待つ。
今度は玄関先のインターホンが鳴り半分ほどドアを開けると、そこにはいつもと変わらない彼女がいた。
1週間ぶりに会う彼女の「大丈夫?」と買い物してきた袋を差し出し、心配そうに僕を見つめる真っ直ぐな眼差し。
それをを見て、気まずさを感じるよりどこかホッとする自分がいた。
「うん。でもまだ少し熱があるかな…」
僕の返事を聞きながら彼女は僕の肩越しに部屋の中を見ている。
「ごめん、ちょっと上がらせてもらうね」と、玄関で靴を脱ぐ彼女にちょっと慌てていると「あっ、散らかってても大丈夫。本当は差し入れだけ渡して帰ろうと思ったんだけど…部屋がこれじゃ帰れないでしょ?」とテーブルの上に置きっぱなしのビールの空き缶とキッチンのシンクに溜まった皿、ソファの上に積み重なった脱ぎ捨てたワイシャツの山を見る。
この前の夜の事など無かったように普通に振る舞う彼女のペースに巻き込まれて、あれよあれよという間に彼女は僕の家のキッチンで洗い物を始めていた。
皿を洗っている彼女をリビングのソファに座ってぼんやり見ていると
「後は適当に片付けておくから、とりあえず何か食べて少し眠った方がいいよ。まだ時間は早いし目が覚めるまでここにいるから。」
洗い物を終えてタオルで手を拭きながら微笑む彼女。
彼女と2人だけで自分の部屋にいるこの状況に戸惑う気持ちがありつつも、でも彼女がこの部屋にいる事が何故かとても自然にも思えてくる。
「それじゃ…買ってきてもらったフルーツゼリーを食べたら薬を飲んで少し眠ろうかな…
あっ、部屋にあるもの何でも使って。コーヒーそこにあるから適当に淹れて飲んでもらってもいいし」
「うん、分かった。それじゃそうさせてもらおうかな」
彼女はコーヒーメーカーでコーヒーを淹れながらソファに座ってテーブルに置いてあった雑誌をめくり始めた。
その姿を見届けて僕は寝室のドアを閉める。
ベッドに横たわり隣の部屋から漂うコーヒーの匂いを嗅ぎながら僕は眠りに落ちていった。
どれくらい眠ったのだろう?
ふと目が覚めて時計を見ると22時半を過ぎている。しまった!思いがけずぐっすり眠ってしまった…
徐に起き上がり隣のリビングのドアを開ける。
帰ってしまったかな?と思った彼女はリビングのソファで柔らかい寝息をたてて眠っていた。
眠っている彼女の唇。
あの日重ねた唇の柔らかさを思い出す…
フッと我にかえり彼女の肩をそっと揺すって起こそうと思ったものの、彼女の安らかな寝顔を見ていると起こすのも可哀想な気がする。
そしてこの時間から彼女を家まで送ってやる事もできない事を考えて、眠っている彼女にブランケットを掛けてそのまま寝室のドアをそっと閉めた。
次に目が覚めたのは翌日の朝だった。
ベッドの上にカーテンの隙間から柔らかい光が差し込んでいる。
目が覚めて一瞬昨日の出来事を忘れていた僕は、隣のリビングから聞こえてくる人の気配とうっすらと漂ってくる温かい匂いに気が付いて、昨夜彼女がお見舞いに来てくれたことを思い出した。
起き上がり、サッと髪を撫で身嗜みを整える。
ドアを開けるとリビングの隣のキッチンで彼女が料理をしていた。
まな板に向かっている彼女の背中に「おはよう」と声をかける。
彼女は包丁を使っていた手を止めて振り向き「おはよう」と笑顔で応える。
「具合はどう?熱は?」
そう言いながら彼女は僕の額に手を当てる。
「もう平気。多分、平熱に戻ったかな。」
彼女の顔が急に近づいてドキッとする気持ちを抑えながら食卓の椅子に腰掛ける。
「本当?良かった。お腹空いてる?
何か食べられそう?」
彼女は嬉しそうに微笑む。
「ごめんね。昨日いつの間にか寝ちゃって。
途中、起きてきたんでしょ?ブランケットありがとう。朝、目が覚めて一瞬びっくりしたけどお腹も空いてきたし、キッチン借りて朝ごはん作らせてもらった。」
「ううん、こちらこそありがとう。ぐっすり眠ってたから何だか起こすのも可哀想で。
お陰で熱も下がったみたいだし…
いい匂い…何かお腹が空いてきたな。」
食卓の椅子に座って自分の家のキッチンに立つ彼女を見つめる。
「よしっ、それじゃ朝ごはんにしよう!
と言っても、さっきコンビニで買った材料で作った簡単なものだけど…」
そう言いながら彼女がテーブルに並べたのは炊き立てのご飯、味噌汁、卵焼き、漬物だった。
2人で向かい合わせで座って食べる朝ごはん。
今まで彼女と一緒に何度も食事をしてきたのに、2人で朝ごはんを食べているそのシチュエーションに何だか少しドキドキする。
病み上がりの僕の事を考えて少し柔らかく炊いたご飯と出汁の香りがする味噌汁。
それと綺麗に焼けた卵焼き。
ここ数日、ろくに食べてなかった僕は話すことも忘れて食べ続ける。
そんな僕を彼女は幸せそうな笑顔で見つめ、美味しそうに箸を運んでいる。
彼女の笑顔を見ながら味噌汁のお椀に口をつけた時にジワっと広がる温かい気持ちと安心感。
「本当にいつも幸せそうな顔で食べるよね」
思わず彼女を見つめながら言葉が出ていた。
「だって美味しいものを食べてる時って幸せじゃない?」
箸を止めて彼女は僕を見つめる。
「まぁ確かに美味いものを食べてる時は幸せだけど…」
と箸を運ぶ僕を見ながら彼女は言葉を続ける。
「でも美味しいものって高いお店とか高級な物とかそういう事じゃないんだよね。
どこで食べるか?何を食べるか?とかよりも、私にとっては誰と食べるか?の方が大事かな…。」
「高級なお店で食べるより、好きな人と食べるご飯とお味噌汁の方がずっと美味しいなぁって思うし。」
箸を運びながら何気なく聞いていた彼女の話が急に核心に迫る。
話の方向が急に変わって一瞬喉に詰まらせそうになるけど、そうだった。
あの夜の事を僕と彼女はまだ何も話していなかった。
「あのさ…この前の夜の事だけど…」
箸を置いて僕は話を切り出す。
「その…何というか…
あの時は急にあんな事して…」
と言いかけた僕を遮るように彼女は
「謝らないでね。びっくりしたけど嬉しかったんだから…」と見つめる。
そして目を逸らすと「ごちそうさまでした」と食器をシンクへ運んで行った。
食卓に1人残された僕は彼女の言葉をもう一度噛み締める。
今まで付かず離れずの関係を保ちながら決して自分からは微妙なラインを越えようとしなかった彼女。
その彼女がサラリと、でもしっかりと自分の気持ちを言葉にした。
サラッと口にした言葉、でもその口調に反して彼女の真剣な気持ちが伝わってくる。
やっぱり僕は彼女の気持ちに応えたい。
いや、応えるというより新しく始めたい。
心の底に僅かに残っていた僕の迷いは消えた。
彼女の言葉が僕の気持ちを引き寄せた。
朝ごはんを食べ終わってあっという間に食器を片付けた彼女は「それじゃ…そろそろ帰るね」と、話しかける隙を僕に与えない。
玄関まで彼女を見送り、屈んで靴を履いている彼女の背中にやっと話しかける。
「あのさ…来週の土曜日空いてる?」
「えっ?」振り返り少し怪訝そうな顔で僕を見つめる彼女。
「土曜日、少し遠出してメシでもどう?」
僕は彼女の表情を見逃さないように上目遣いで見つめる。
「もしかして…お見舞いのお礼?
そんな大した事してないし、いつもご馳走になってるんだからお礼なんて気にしなくていいよ」彼女は薄く微笑む。
さっきの気持ちを真っ直ぐぶつけてきた彼女とは正反対の反応に怯みそうになるけど、ここでその言葉に流されたらダメだ。
「違うよ。僕が一緒に行きたいんだ。来週も会いたい。」
ドアのノブに伸びた彼女の手首をグッと掴む。
一瞬黙り込んだ彼女は、僕の目を見て「うん、分かった…楽しみにしてる。」少し強張っていた顔がフワッと笑顔に変わった。
次の土曜日、僕と彼女は海の近くの小さなレストランに向かっていた。
助手席に座る彼女はいつもと変わらない。
窓の外に見える景色やFMから流れる音楽を楽しみ、他愛もない事を話したり話が途切れても無言の時間を楽しんでいるように見える。
最初は細かい雨が降っていた空模様も海に近づくにつれて明るくなっていき、レストランに着いた時には青空が見えていた。
窓から海が見える席で僕と彼女はゆっくり食事をした。
お互いの1週間の出来事、僕のプレゼンが上手くいって新しいプロジェクトが決まった事、そんな事を話しながらいつもと変わらず穏やかな時間が流れていく。
そう、今までと変わらない。
でも今の僕には、その今までと変わらない事が少し物足りなかった。
お互いの気持ちは分かっている。
分かっているけど最終的な決定打に欠けていた。そう思い始めると何だかソワソワして落ち着かない。
いつもと変わらないふりをしながら食事を終えると、海岸通りを少し散歩する事にした。
少し前まで雨が降っていたせいか人通りは少なかった。海の匂いと風を感じながら彼女と並んで歩く。歩きながら時々手と手が触れるのを感じる。今までの僕だったら、ここでスッと彼女と手を繋いでいただろう。
でも今の僕はドキドキして彼女の手を取る事ができない。
思いっきり彼女の手を意識しながら歩いていると彼女が小さく「あっ」と言って立ち止まる。
「どうしたの?」という眼差しで彼女を見つめると、「アイスクリーム食べない?今度は私にご馳走させて?」と少し先に見える店を指差し僕の顔を見上げる。
「デザートさっきも食べたよ?」と言う僕を気にせず「いいから、いいから…」と店の前に連れて行く彼女。
結局、彼女はバニラのアイスクリームを2つ買って1つを僕に渡した。
砂浜に下りて石段に座り、海を眺めながら2人並んでアイスクリームを食べる。
聞こえてくるのは波の音だけ。
アイスクリームを食べながら僕はさっきまで感じていた物足りなさをすっかり忘れていた事に気付いた。
思わず「ふふっ」と笑い声が漏れて隣で黙ってアイスクリームを食べていた彼女が僕の顔を覗き込む。
その瞬間、彼女の唇が僕の唇にそっと触れた。
予想外の突然のキスに僕が一瞬固まっていると…
「アイスクリーム付いてたよ」
彼女はいたずらが成功して喜ぶ子供のようにニコッと笑いながら見つめる。
いつの間にか彼女のペースに巻き込まれてる事にちょっと悔しさを感じつつ、残りのアイスクリームを食べながら彼女の唇の感触を思い出してドキドキしている自分を落ち着かせる。
黙って海を見つめたままアイスクリームを食べ終わり、隣に座る彼女を見ると彼女の手は止まったままでアイスクリームは溶けかかっていた。
僕がスッと彼女のアイスクリームのカップを取り上げると、驚いて彼女は僕の顔を見上げる。
その瞬間、僕は彼女の頬に手を伸ばしそのまま唇を重ねた。
さっきのそっと重ねるようなキスとは違い、熱くて甘い。
やっと自分の気持ちに正直になれたキス。
唇を離し目を見つめると、ちょっと照れたように微笑む彼女。
「そろそろ帰ろっか?」
彼女の手を取り僕は歩き出す。
数歩歩いたところで立ち止まり、僕は彼女の頬に手を添えてもう一度優しく唇を重ねる。
それは、僕と彼女の恋人同士としての始まりのキスだった。
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