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1945年の映画劇『愛と誓ひ』と朝鮮人特攻兵
朝鮮人特攻兵
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2009年12月17日、「新潮新書」、裵淵弘(배연홍、ペ・ヨンホン、1955年~)著『朝鮮人特攻隊:「日本人」として死んだ英霊たち』(新潮社、本体680円)が刊行された。
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2010年11月26日、山口隆(1947年~)著『他者の特攻:朝鮮人特攻兵の記憶・言説・実像』(社会評論社、本体2,700円)が刊行された。
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2013年8月15日、崔盛旭(최성욱、チェ・ソンウク、1969年~)著『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン、本体2,500円)が刊行された。
韓国人の日本映画研究者が日本映画に関して日本語で刊行する初の書籍となった。
60歳の四方田犬彦(よもた・いぬひこ、1953年2月20日~)「今井正の再発見」を収めた。
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2022年10月28日、「サピエンティア」、権学俊(권학준、クオン・ハクジュン、1972年~)著『朝鮮人特攻隊員の表象: 歴史と記憶のはざまで』(法政大学出版局、本体3,200円)が刊行された。
大日本帝国の戦争
1932年1月28日~3月4日、中華民国のシャンハイ(上海)共同租界周辺で、朝鮮人と日本人を憎む中国人による日本人僧侶殺害をきっかけに、中国国民党の国民革命軍と大日本帝国軍との戦闘が起きた。
1932年、評議会同盟で、シェロコヴァ(Широкова)、ヤンコーフスコガ(Янковского)編『弁証法的物質主義』第1冊Материалистическая диалектика(Партийное издательство)が刊行された。
1932年3月、イー・シロコフほか著、35歳の廣島定吉(1896年9月22日~1964年9月17日)、35歳の直井武夫(1897年1月3日~1990年8月22日)共譯『「辯證法的唯物論」敎程: ソヴェート黨學校及共産主義高等専門學校用敎科』(白揚社、1円20銭)が刊行された。
1932年9月、シャンハイ(上海)で、ハン(漢)人の李達(リー・ダー、1890年10月2日~1966年8月24日)、雷仲堅(レイ・チョンギン)による『辯證法唯物論教程』ハン(漢)語訳(筆耕堂書店)が刊行された。日本語からの重訳だ。
1933年1月30日、43歳のアードルフ・ヒットゥラ(Adolf Hitler、1889年4月20日~ 1945年4月30日)がドイチュ人帝界の首相に任命され、反民主主義、反共産主義、アーリア民族至上主義を掲げる民界社会主義ドイチュ人労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)(ナツィス党)によるドイチュ人帝界の支配が始まった。
1933年7月14日、ドイチュ人帝界で政党新設禁止法が公布され、民界社会主義ドイチュ人労働者党以外の政党が禁じられた。
1934年8月1日、ドイチュ人帝界で、緊急閣議がおこなわれ、86歳のパウル・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg、1847年10月2日~1934年8月2日)の死後、大統領の職を首相と統合し、その権限を45歳の首相ヒットゥラに委譲する法を定めた。
1934年8月2日、ヒンデンブルクが死去し、45歳のヒットゥラがドイチュ人帝界の最高指導者の「総統( Führer)」となった。
1935年5月、シロコフ、ヤンコフスキー編輯 、29歳の早川二郎(1906年2月22日~1937年11月8日)、大野勤譯『唯物辯證法敎科書』(白揚社、1円60銭)が刊行された。
1935年7月25日~8月20日、評議会同盟のマスクヴァで、第7回多民界共産党大会が開かれた。
ドイチュ人帝界の勢力拡大を抑えるため、共産党以外の社会主義党派が統一抵抗運動をおこなう人民戦線の方針が採択された。
1936年11月~1937年4月、中華民国のイェンアン(延安)のフェンファン(鳳凰)山麓で、中国共産党の43歳のマオ・ツオトン(毛沢東、1893年12月26日~1976年9月9日)は、ハン(漢)語訳の『弁証法物質主義教程』を学習し、1937年(昭和12年)1月から8月にかけて、第2期抗日軍政大学でその内容をハン語で講義した。
「実践論」の部分は7月、「矛盾論」の部分は8月に講義された。
1937年7月7日、中華民国のペイピン(北平)西南方向のルーコウチアオ(盧溝橋、ろこうきょう)で、国民革命軍と大日本帝国軍の戦闘が起きた。
1937年8月13日、中華民国のシャンハイ(上海)で、国民革命軍と大日本帝国軍との戦闘が起きた。
1938年10月1日、評議会同盟で、『評議会同盟共産党(ボルシュヴィキ)の歴史』История Всесоюзной коммунистической партии (большевиков). Краткий курс(ОГИЗ)600万部が刊行された。
同書の第4章に、評議会同盟の最高指導者、59歳のヨシフ・スターリン(1878年12月21日~1953年3月5日)著『弁証法的・歴史的物質主義について』О диалектическом и историческом материализмеが組み込まれた。
1939年3月、ドイチュ人帝界で結成された、ヒットゥラ青年団(Hitler Jugend)の10歳から14歳までの少年の部門は「ドイチュ人年少民族団(Deutsche Jungvolk,DJ)」と呼ばれた。
1939年8月23日、評議会同盟が方針を変え、ドイチュ人帝界と不可侵条約を結んだ。
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1939年10月、キングレコードが、大日本雄弁会講談社が陸軍省と提携し、歌詞と曲を9大雑誌の読者から公募した、生田大三郎作詞、27歳の林伊佐緒(はやし・いさお、1912年5月11日~1995年9月29日)作曲の「出征兵士を送る歌」のレコード(38001)を発売した。
歌唱は、30歳の永田絃次郎(ながた・げんじろう、1909年9月7日~1985年8月17日)、林伊佐緒、樋口静雄(1911年~1973年1月24日)、30歳の児玉好雄(1909年1月28日~1986年10月20日)、28歳の長門美保(ながと・みほ、1911年6月23日~1994年11月11日)、24歳の三門順子(みかど じゅんこ、1915年9月25日~1954年4月4日)、25歳の井口小夜子(1914年4月17日~ 2003年11月9日)、横山郁子だった。
1940年9月27日、ベアリーンで、ドイチュ人帝界、大日本帝国、イターリア大君主国の三国間の軍事同盟が結ばれた。
1941年3月1日、「国民学校令」が公布され、同年4月からそれ以前の小学校が、ドイチュ人帝界で義務教育学校を意味する「民族学校(Volksschule)」に倣って、「皇國ノ道ニ則リテ初等普通敎育ヲ施シ國民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス」「国民学校」に改められた。
国民学校は初等科6年、高等科2年で、ほかに特修科(1年) をおくこともできた。
国民学校初等科の教科は「国民科」(修身・国語・国史・地理)、「理数科」(算数・理科)、「体鍛科」(体操・武道)、「芸能科」(音楽・習字・図画・工作・女子に関しては裁縫)とされた。
国民学校生徒は、「ドイチュ人年少民族団」に倣って、「皇國の年少の民」という意味で「少國民」と呼ばれるようになった。
1941年12月8日、大日本帝国軍が、アメリカ連合国の植民地のフィリピンで、アメリカ連合国軍との戦闘を始めた。
1942年8月7日~1943年2月7日、西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島で、大日本帝国軍とアメリカ連合国軍が激戦をおこなった。
大日本帝国海軍は多数の輸送船と船員を失い、戦争を継続するのに必要な輸送力を大きく失った。
1942年9月2日、朝鮮映画製作株式会社が設立された。
1943年7月27日、「海軍特別志願兵令」が出され、海軍兵志願者訓練所が設立され、朝鮮人が一般の兵卒として海軍に入隊することができるようになった。
1944年2月1日、朝鮮半島の慶尚南道(キョンサンナムト、けいしょうなんどう、경상남도)の大日本帝国海軍の鎮海(ちんかい)警備府に、新兵の教育と鎮海地区の陸上防備にあたる鎮海海兵団が編成された。
1944年10月24日~26日、フィリピン諸島のレイテ島沖でアメリカ連合国軍と大日本帝国軍との間の海戦がおこなわれた。
1944年10月25日、フィリピン諸島のスルアン島近海で、大日本帝国海軍によって編成された爆装航空機による体当たり攻撃部隊の神風特別攻撃隊が、アメリカ連合国の艦隊に最初の決死の体当たり攻撃をおこなった。
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1944年10月29日、『朝日新聞』が1面で、神風特別攻撃隊敷島隊員の最初の体当たり攻撃の成果を「神鷲(かみわし)の忠烈 萬世(ばんせい)に燦(さん)たり 神風特別攻撃隊 敷島隊員」「敵艦隊を捕捉し(スルアン島海域)必死必中の體當り」の見出しで報じた。
1944年11月29日、レイテ島沖海戦で、大日本帝国陸軍の特別攻撃隊 靖国隊の朝鮮人伍長の20歳のイン・ツェーウン(인재웅、印在雄、いん・ざいゆう、1924年5月3日~1944年11月29日)(日本名・松井秀雄)が体当たり攻撃で戦死した。
1944年4月1日~8月20日、朝鮮人の第1次徴兵検査が実施され、1944年9
月1日から第1期徴兵対象者が入隊し始めた。
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1945年3月29日、沖縄海上で、咸鏡南道(ハムギョンナムド、かんきょうなんどう)出身の大日本帝国陸軍の誠第41飛行隊の朝鮮人伍長の17歳のパク・ドンフン(박동훈、朴東薫、ぼく・とうくん、1927年4月21日~1945年3月29日)(日本名・大河正明)が戦死した。
沖縄決戦で最初の朝鮮人特攻隊員だった。
1945年5月24日~6月1日、京城の明治座、城宝劇場、京城劇場、大陸劇場で、大本営海軍報道部指導、社団法人朝鮮映画社制作、海軍省、朝鮮総督府後援、東宝株式会社応援、39歳の八木隆一郎(やぎ・りゅういちろう、1906年4月17日~1965年5月12日)脚本、33歳の今井正(1912年1月8日~1991年11月22日)、33歳の崔寅奎(최인규、チェ・インギュ、1911年12月10日~1950年)監督の映画劇『愛と誓ひ』(74分)が公開された。
撮影は朝鮮でおこなわれた。
朝鮮人のエイコ:26歳の金信哉(김신재、キム・シンジェ、1919年3月31日~1998年3月31日)
日本人(朝鮮人という解釈もある)の村井校長:40歳の志村喬(しむら・たかし 、1905年3月12日~1982年2月11日)
朝鮮人の金英龍(김용화、きん・えいりゅう、キム・ヨンファ)少年:金裕虎(김유호、キム・ユホ)
日本人(朝鮮人という解釈もある)の村井信一郎少尉:獨銀麒(독은기、トク・ウンキ)、
朝鮮人の白石局長:45歳の高田稔(たかだ・みのる 、1899年12月20日~1977年12月27日)
日本人の白石夫人:33歳の竹久千恵子(1912年3月6日~2006年9月14日)
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2019年4月8日発行、「小学館新書」、59歳の佐藤優(さとう・まさる、1960年1月18日~)、55歳の片山杜秀(かたやま・もりひで、1963年8月29日~)著『現代に生きるファシズム』(小学館、本体840円)、序章「感化する力」の『愛と誓ひ』の設定についての片山の発言を引用する(19頁~20頁)。
映画で重要な役割を担うのは志村喬扮する内地人の老人ですね。戦後は黒澤明の映画や『ゴジラ』で映画史に名を遺すことになる志村も、この映画の撮影時には不惑になるかならないか。まだ若いのですが、もう当時から老け役で、老人を演じている。彼は、韓国併合の前からという設定だったでしょうか、とにかく朝鮮の僻地での教育に身を捧げてきた老教師なのです。そして、一人息子は海軍の軍人になって、しかも航空畑に進んだ。士官でパイロットです。この士官が朝鮮に里帰りする。お父さんと一緒に朝鮮の僻地で育った人ですから。海軍兵学校から内地に行ったのでしょうが、実家は朝鮮なのですね。
この青年将校に憧れている朝鮮人少年がいる。熱烈なファンなんですね。同郷の内地人の青年将校の後に続きたいと願っている。青年将校からも将来は頑張ってくれとか言われて感激する。そうして青年将校の休暇は終わるのだけれども、彼が休暇を取って朝鮮に戻ったのは、実は最後のお別れのためだった。特攻隊員になってすぐ戦死してしまう。それが朝鮮でも大々的に報道される。志村喬扮するお父さんからすれば、名誉の戦死ですから、誇るべきなのだけれども、やはり悲しい。虚脱している。遺族の当然の心情です。
ところが、これが映画のサウンドトラックの魔術で大逆転する。
映画劇『愛と誓ひ』あらすじ(ネタバレ)
皇紀2604年(昭和19年、1944年)、京城の日本語新聞社の京城新報社(モデルは京城新聞社)のビル。
孤児だった朝鮮人の白石局長に、白石の小学校時代の恩師の長男、大日本帝国海軍の村井信一郎少尉が出撃の報告に来る。その夜の急行で発つという。
屋上で、白石局長が京城の空を背景に村井少尉の写真を撮る。その直後、、局長が4年前から自宅で養っている金英龍という名の無口で放浪癖のある朝鮮人の孤児が現れる。
村井少尉は初対面の英龍を誘い、英龍と並んだ写真を撮ってもらう。
この映画劇では描かれないが、10月24日~26日、フィリピン諸島のレイテ島でアメリカ連合国軍と大日本帝国軍の間でレイテ沖海戦がおこなわれた。
10月25日、フィリピン諸島のスルアン島近海で、神風特別攻撃隊(モデルは敷島隊)の村井少尉の特攻機が、敵艦隊の空母に体当たりし、空母を爆発炎上させる。
『京城新報』10月29日の一面記事に「神風特別攻撃隊〇〇隊員の純忠」「半島の神鷲・村井信一郎少尉命中」の見出しの記事と村井の肖像写真が載る。
その記事を読んだ英龍と不良仲間の朝鮮人少年たちは、特別攻撃隊の戦果を喜び合う。英龍は局長宅から無断で持ち出した、村井少尉と一緒に写った写真を仲間に見せるが、写真を破られてしまう。
夜10時過ぎ、白石局長は日本人の和服の夫人のいる家に帰るが、英龍はまだ戻らないという。
その後、京城新報社社員の奥村が英龍を連れて来る。
白石は翌日、夫人と一緒に村井少尉の家に弔問に訪ねる旨を英龍に伝える。
英龍は年下の白石の長男と同じ部屋で寝るが、寝る前に、正座机の上に破られた写真を飾る。
翌日、白石夫妻は、汽車とバスを乗り継いで、汽車の駅から三里離れた村にある村井家の乳飲み子を抱えた朝鮮服の村井夫人のエイコに村井少尉の遺影を届ける。
エイコは、村井少尉と一緒に写っている英龍少年に強い関心を示す。
白石は、近所の国民学校の校長を務める村井の父を訪ねる。
校長室で村井の父は、日本軍人として出征する朝鮮人の教え子と朝鮮服のその父親が持参した日の丸の出征旗に、1336年7月4日の湊川(みなとがわ)の戦いでの死に際の43歳の楠木正成(くすのき・まさしげ)の言葉「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」に由来し、「七度生まれ変わって国に忠誠を尽くすこと」を意味する「七生報國(しちしょうほうこく)」と書き、出征する教え子に「「七生報國」とは誰の言葉か知ってるか」と尋ねる。
朝鮮人の教え子は「はい、楠木正成の言葉であります」と答える。
「そうだ。意味はわかってるな?」
「はい」
「『太平記』という本には、楠木正成のこういう言葉もある。
いいか、覚えておけよ。
「合戦」、戦争ということだ。
「合戦の習なれば、一旦の勝負をのみ御覧ぜらるべからず。
「戦争というものは、少しぐらい勝ったり、少しぐらい敗けたりしたので、本当の勝負が決まるものではございません」という意味だ。
正成は、この言葉のあとに続けて、こう申しておる。
「わたくし一人だけでも生き残っているとお聞きなさいましたら、どうぞ、ご安心くださいませ」
そう。正成はどなたに向かって、これを申し上げたか、わかるか?」
「はい。天子様であります」
「うん、そうだ。いいか、お前もそれだけの覚悟があるのなら、立派にご奉公するのだぞ」
「はい」
このやりとりから、当時、内地と呼ばれた日本列島では小学生でも知っている皇民常識だった日本語や天皇への忠義の歴史は、私的な祖先崇拝が強く、皇民教育の遅れている朝鮮では必ずしも皇民常識となっていなかったことがうかがえる。
白石は校庭に集まった全校生徒を前に訓話をおこない、「皆さんだって村井少尉に続こうと思えば、続けないことはないのだ」と教える。
一方、並木道の土手を和服の白石夫人と散歩していた朝鮮服のエイコは土手に座って休憩する。エイコは身の上話をする。
エイコは昭和7年(1932年)にシャンハイ(上海)にいたが、中国人に家を焼かれ、両親を殺されたという。
引き揚げ船で朝鮮に渡り、おじに引き取られたが、当時5歳の金英柱(きん・えいちゅう、キム・ヨンジュ)という名の弟が行方不明になった。
弟の顔も忘れていたが、英龍の写真を見て、弟の顔を思い出した。
その後、英龍は白石に命じられ、少国民向けの日本語新聞『少國民新報』に幼少期の村井少尉についての記事を書くため、村井家を訪問する。
英龍は朝鮮服のエイコと共に、村井少尉の通った国民学校を取材する。
英龍とエイコが村井家に戻ると、村井校長がエイコに、村井少尉が出撃前夜に前線基地で録音した「訣別」のレコードを届けてもらったと話す。
校長とエイコと一緒に英龍も村井少尉の遺言のレコードを聴く。
その後、村井少尉の手紙を読ませてもらった英龍は、エイコから弟の話を聞かされる。
英龍が取材を終えた夜、村井家で、出征する宗景明(そう・けいめい、종경명、チョン・キョンミョン)のために、盛大な壮行会が開かれる。
慶尚道(キョンサンどう、けいしょうどう)の民謡「クェジナチンチンナネ(쾌지나칭칭나네)」や、「天安三叉路興打令(チョナン・サムゴリ・フンタリョン)、청안삼거리흥타령)」が歌われる。
翌朝、国民学校の校庭の演題に宗景明が立ち、全校生徒が小さな日の丸の旗を振りながら、「出征兵士を送る歌」を合唱する。
わが大君は 召されたる
生命光栄ある 朝ぼらけ
讃えて送る 一億の
歓呼は高く 天を衝く
いざ往け つわもの 日本男児!
しかし、宗景明が乗るはずのバスのガソリンがなくなっていた。入営が遅れたら村全体の一大事になるので、宗景明は汽車の駅まで三里を走ることにする。
村の一同が「万歳」を叫びながら、宗景明を見送った直後、泣きじゃくる英龍をエイコが問いただすと、京城に帰るのが嫌で、ガソリンを捨てたのは自分だと白状する。エイコは英龍を厳しく叱る。
京城に帰った英龍は、夜遅くまで正座机で原稿を書くが、うまく書けず苦しむ。白石夫人が様子を見に行くと、英龍は無言で外に飛び出してしまう。
英龍は帰宅途中の白石局長に出くわし、原稿が書けずに逃げ出したと話すと、白石に張り倒される。
それじゃあ、お前は書けないからといって、うちを飛び出してきたのか?
馬鹿!
どうしても書けないものを無理に書けとは言わん。
しかし書けないといってすぐ逃げ出すというその性根がいかんじゃないか。
お前は村井少尉のお宅まで行ってきたくせに、特別攻撃隊精神を摑んではこなかったのか。
最後まで努力してみようともしないのか。
いいか、特攻隊員には、明日突入という最後の任務でも、どうせ死ねばいいのだと言って訓練を怠けてる者は一人もおらんぞ。
白石夫人は英龍が破り捨てた原稿を全部読み、よく書けていることに感心する。「村井少尉の弟になっても恥ずかしくないように」の文言もあった。英龍を連れ帰った白石局長も英龍と夫人の前で原稿を読み、感心する。
『少國民新報』に金英龍の記事「半島が生んだ神鷲 村井少尉の生涯を語る」が載り、高い評判を得た。
白石局長は社長に話を通し、英龍を記者見習いにすることに決めていた。
ところが、英龍はその誘いを断り、「私は村井少尉のあとに続きたいのです。海軍に志願したいのです」と告げ、海軍特別志願兵に志願すると宣言する。白石局長は感動し、無言でうなずく。
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その後、英龍は鎮海海兵団に入営し、訓練に励む。
大日本帝国海軍機の大編隊が飛ぶ大空の画面一杯に「神鷲は今日も敵を太平洋の底に沈めつつある」「これに續いて敵を破るもの」「それは君達だ 君達がやるのだ」の白抜き文字が出る。